花崎城址は東武伊勢崎線花崎駅の北西約50mに位置し、遺跡としては加須市指定史跡となっている。昭和五十六年ごろまでに畝掘、馬出しに加え、珍しい障子堀が発見されている。「障子堀」とは城の守りを固めるため、堀の中に畝や障壁を作ったもので、静岡県の山中城のものがよく知られている。
障子彫りが見つかったのは写真とは別の東武線の反対側(北側)であったそうで、しかも山中城の障子堀の畝が2m近くあるのに対して、花崎城の畝は30cmほどの規模だという。これではさほど堀としての防御機能を果たさないと思われたが、文化財調査報告書では畝を設けることで堀の中の排水を抑え水をため込む状態にすることで敵の侵入を難しくする意図があったと考えている。
花崎城は沼や湿地に囲まれた台地の上に築かれた城だったと考えられている。湿地帯という自然要塞に加え、さらに強固な守りとして特別な障子堀を有した強固な城。しかしながら中世における花崎城に関する資料は少ないという。
天正二年(1574)北条氏繁書状に「羽生被寄馬候処、近年向岩付取立候号花崎地、即時自落」
と記されおり岩付城に対する備えとして存在したことを証している。また「武蔵稿」によれば「花崎古城 要害東北沼深く城地箕を伏せたるが如し・・・城主不知」と伝える。
羽生市の郷土史家髙鳥邦仁先生よれば上杉謙信が小田原城を攻めた永禄四年(1561)当時、花崎城はすでに後北条方の城として機能していたそうだ。武蔵東部の拠点粟原城(鷲宮神社)を支える役割を果たしていたと考えらえる。そして粟原、花崎両城を攻め立てたのが羽生城主木戸忠朝だったと比定している。近年の調査でも花崎城近辺から陶器や板碑に加え砲弾も出土しているそうだ。戦上手の木戸氏に攻めたてられたことで、城の主が木戸氏方に移り、羽生城落城に合わせて花崎城も自落したのではないかと推考している。その年天正二年(1574)。もとの城主の後ろ盾であった後北条氏が豊臣に落城に追い込まれたのはその十六年後のことである(天正十八年1590年)
永禄年間、隣国忍城成田氏に抗いながら羽生城を守り抜いた木戸忠朝。その後ろ盾は越後上杉謙信であり、所領した羽生領から西は皿尾城、南東はここ花崎城まで駆け抜けて戦い続たことだろう。自らの地位と所領を守り抜くため。
城としての名残は堀を残すだけであるが、その生きざまは時を超えて今の私に大事なことを投げかけているようだ。
引用文献「歴史周訪ヒストリア」髙鳥邦仁先生