国道17号を鴻巣方面に走、警察署を過ぎる頃になるとやや渋滞することが多く、町の中心部に近いことが伺われる。地名は大字天神であり、以前から天神様が近くにあろうことを想像していた。
江戸期までは天満宮と称し、菅原道真公を祀ってきたが明治四十年に稲荷社を合祀して、村社となり社号を生出塚神社と改めている。江戸期には地内に満行寺という修験があって祭祀を収めたが、神仏分離により廃寺となっている。
「埼玉の神社」によればこの地は元荒川右岸の大宮台地北端部に当たり、地内に多くの古墳が多く存在することからその名が起こったとされるが、境内に建つ改築記念碑にはさらに生出塚についての古いいわれが記されている。
日本書紀安閑天皇元年(534年)武蔵国造の乱において、当地の豪族笠原直使主(かさはらのあたいおみ)と争った同族の笠原小杵(かさはらのおきね)と関連するのではないかと推測している。この小杵を埋葬した古墳が近くにあり小杵塚から生出塚に転じたのではないかという。
当社に纏わる文献は残っておらず史料の上での裏付けはないが古墳の上に社を祀る事例は多く、その小杵塚が削られたのちに田畑となり、のちに社殿が築かれ天満宮として代々この地に受け継がれてきたと碑文は結んでいる。
古墳の上に社が乗った事例としては行田市埼玉村の前玉神社や加須市樋遣川の御室神社など、由緒ある神社がここ北埼玉の各地に残っている。
鴻巣といえば人形の町として知られている。江戸期に宿場町として栄え、その地場産業として人形作りが盛んであったことは中山道の歴史としてよく知られているが、その鴻巣の雛人形の古形となる土偶天神はこの天満宮に会冷められていたという。
高さ30cmの天神座像は貞享四年(1687)京都五条烏丸通の仏師、左京方眼の孫弟子藤原善國が宿内の人々の依頼で作った旨を記して木片と共に収めていたが、昭和二十四年盗難にあって、行方不明となっている。
文化財保護が叫ばれているが、戦前戦後の混乱期も含め、貴重な資料が様々な理由によって紛失している事例も多い。盗難であることが一層残念なことである。
現在の境内は非常によく整備され、古い石柱の残り境内散策の道標として利用するなど、非常に考えられたつくりをしている。鴻巣市自体は高度成長期に人口が急増し、高崎線の快速列車が停車するなど都内へ向かうベットタウンとして環境も整ったが、かえって氏子氏神の関連系が薄れていまい、古くから伝わる祭祀の形が途切れてしまったともいう。お獅子様は古く騎西の玉敷神社から借り受け無病息災を願ったが、戸数の増加に伴い、高度成長期に継続を断念している。また農耕祭祀として雨乞い神事もなくなる一方、鴻巣夏祭りとして中山道沿いの天王様の際には各町内会からの神輿が盛大に渡御している。
生出塚には埴輪窯跡地があり、埼玉古墳群を始め元荒川流域の古墳に埴輪を提供していたことが知られる。
この地にそうした埴輪製造の優秀な職人集団が存在し、時代が下っても人形師がその技術をつなぎ、現在では花の町として栄えている。
ものづくりのDNAは恒久の歴史と共に受け継がれていくことが現れている素晴らしい神社だと感じている。
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