入間郡鶴ヶ島市脚折町の白髭神社。日高市の高麗神社を中心として猿田彦を祀る神社がこの地に多くある。
脚折は越辺川支流飯盛川の上流にあり、縄文期から平安にかけての集落跡も確認できる古くから開けた土地柄。
脚折の地名は脛から転じたものでなく、洲峰下りから来たものと考えらるそうで砂地の地形やその坂を示しているのだろう。
近辺を見ても北埼玉に広がるような稲作地域とは言えず、茶畑やその他の畑作に供しているようなところが目立つ。古代から水稲稲作に適さない土地柄だったのであろう。
社記によれば天智天皇の御代、朝鮮半島の戦乱を避け一族と共に渡来した高麗若光王(こまじゃっこうおう)は霊亀二年(716年)西武蔵野を賜り、高麗郡を設けて東国七か村に居住する高麗郡の人々千八百名近くを集めた。若光王は導きの神である猿田彦命と竹内宿禰を白髭大明神として郡中央に祀り一族の繁栄を図ったと伝わる。当社も其のうちの一社という。
本殿に掲げられる扁額は海軍大将東郷平八郎の揮毫である。
戦前までほぼ農業地帯であったものの、近くに関越自動車道インターができ、近年になって圏央道の開通とともに一層の宅地化がすすめられている。
脚折の白髭神社で最も有名な祭事が雨乞い神事である。
雷電様が飛び地に祀られ、近くに雷電池が残る。昔は広く大きな池で池の主である大蛇が住んでいたという。
ところが江戸期になって寛永のころ干拓されて池が小さくなり大蛇は板倉の雷電様に引っ越してしまい、以来この地で雨乞いしても雨が降らなくなったという。
このため雨乞いの際には上州板倉まで行ってお水をもらい受け、大蛇を作って池に入れたところ雨に恵まれたという。
現在では四年に一度盛大な雨乞い神事として国指定無形文化財に指定されており、巨大な竜神を担いで池に入るというが、昨年は残念ながらコロナウィルス感染拡大のため中止となった。
社殿裏には樹齢九百年を超える大欅が残っており昭和四十年代に上部が折れてしまったが、補修工事を施しその雄大な姿を今日も目にすることができる。
七月一日には「けつあぶり」という神事がある。当日早朝に麦殻を焼いて尻を炙る。これは昔坂上田村麻呂が蝦夷地討伐の折季節外れの雪に兵士が凍えたのを見て村人が暖を取らせたことに由来する。
其の礼としてとして田村麻呂はこの地に害を与えていた大蛇を退治したという。
多くの伝承と祭事が残る脚折の白髭神社。導きの神に誘われるように現在では近隣に多くの企業が進出し、東京近郊のベットタウンとして栄えるようになっている。
白村江の戦いで倭の遠征軍は唐・新羅の連合軍に敗れました。(663年)
660年に百済はすでに滅亡し、高句麗も668年滅亡。
この後、百済や高句麗から多くの避難民が日本に流入したのでしょう。
白髭神社の社記はおおむね正しいのでしょう。
ただ天智天皇の御代よりは少し下るのではないかという気がしますが。
日本初の女医として歴史に名を残す荻野吟子は北海道に渡り、開拓の苦労を負いながら、その強い意志で生き抜いたと小説の中で読みました。
時代が違っても人による土地の開発は多くの苦労があり、そうした先人の流した汗の上に今の私たちの生活があると感じています。
恥ずかしながらこの歳になるまで北海道を訪れたことがありません。いつか旅してその開拓の歴史の息吹に触れてみたいと思っています。