埼玉県幸手市は日光街道の宿場町として栄えた、人口五万人の中規模都市だが、県下一の桜の名所現権現堂を有し、桜の季節には多くの見物客が押し寄せる。幸手の地名は古く日本武尊東征の際、「薩手が島」に上陸し田宮の雷電神社に農耕神を祀ったという言い伝えから来たとされている。また一説にアイヌ語の乾いた原野を意味するという。
幸手宿は江戸中期に本陣が置かれ人口四千、旅宿二十七を数えるまで開け日光街道、御成街道の要所として栄えた。また権現堂の水運とにも恵まれ近郷の中心であったという。幸手駅前近くに一色稲荷社がありかつての幸手城址と伝わる。幸手城は下総古河公方の足利成氏の出城で上杉勢にに対する備えとして配下の一色氏に守らせたという。幸手市自体も中世までは下総国葛飾郡に属していた。
創建については不明であるが江戸期まで八幡香取社と称し二社合殿の形をとっていたことが分かる。社蔵の金幣二基には「八幡大菩薩」「香取大明神」と彫られていて年号に元禄十二年(1699)とある。明治になってご金比羅、稲荷などを合祀し、社名を幸宮神社(さちのみや)とあらため幸手総鎮守となった。
社殿の内本殿は文久三年(1863)に再建された総欅造りで正面扉の両脇に登り龍、下り龍が刻まれその周りには獅子、鳳凰、天邪鬼、鷹が刻まれて、文化財指定となっている。
拝殿脇には大杉神社が祀られている。境内石碑にも阿波大杉参拝記念碑が二基残っておりその信仰が窺える。大杉神社は茨城県稲敷市阿波に総本社があり、「あんばさま」として知られている。その御祭神は大物主神。元は奈良県の三輪山信仰で神の山を祀るとされる。古くから茨城方面とのつながりが深かったことがよくわかる。
大正期に建てられた神楽殿も現存し、建て替え備える協賛を募っている。
祭事についての記録で夏まつりに関する記述が非常に面白い。
境内社八坂神社の例祭である夏祭りでは貞享二年(1685)に波寄の天王山に勧請したが、享保二年(1742)の大洪水で流されてしまい、上高野に祀られてしまったため、明治になって改めて氷川神社から勧請してきている。古くは久喜、仲町、荒宿の三町で祀っていたので当番町と言って交代でお仮屋をもうけた。そのお仮屋から帰還するまでを祭としたが、昔はのその仮屋に宮司が籠ったが、ある年若い衆がいたずらで宮司を蚊帳にくるんで神輿を盗み出してしまったという。
現在でも市内各地が行政区と氏子区域が異なる中でそれぞれの区域が神社を中心とした「七社崇神会」を組織し、幸宮神社を総鎮守として例祭奉仕にあたるなど、市民の信仰の対象となっている。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます