川越の名刹天台宗喜多院と境内を接し、市街地となった小仙波地区に鬱蒼とした杜があり、その中心に東照宮が祀られている。仙波東照宮は地元の人々に「御霊舎」(おやたま)と呼ばれ親しまれている一方で、地元の氏子組織はないという。
境内東口に建つ隋神門は八脚門と呼ばれる特殊な構造で、門柱四本の前後に各々四本の控え柱を設けた重厚な門のことを呼ぶ。寛永十五年(1638)に堀田正盛奉納の石鳥居と並んで重要文化財に指定されている。
喜多院は天長七年(831)年再興とされる古刹で、天正十六年(1581)に入山した天海は慶長十六年(1612)徳川家康に謁見し、「黒衣の宰相」と呼ばれるほど幕政に関与している。家康が元和二年(1616)駿府で没すると、亡骸を久野山から日光へと遷す途中、元和三年三月二十三日から四日間喜多院に留め天海自ら導師となり大法要を営んだという。神棺は久野山から東海道を通って、小田原から府中・ここ川越、そして行田(忍)を経由して利根川を渡り、佐野・鹿沼を経て日光へと到着したという。
天海はその年の九月に東照宮を勧請し、社殿は寛永十年に建立されている。天海が家康の死後直ちに東照宮を祀ったことは家康公追慕の念によるもので、他の東照宮の勧請とは趣を異にするとされる。
本殿は江戸城二の丸の東照宮を遷したと伝えられていて、手水舎に「寛永十四年九月十七日御本城御社御宝前」と刻まれている。天海の私祭から創始された祭りも幕府の関与が強まり、寛文元年(1661)には二百石が社領として寄進されている。
知恵伊豆と称され、忍藩主と家光の代に老中を務めた松平信綱奉納の石灯籠なども奉納されている。
普段は門扉は閉められており、石段を登って門の前で参拝する形式であるが、正月、年三回の祭礼と日曜日に開扉の日と定めているようだ。
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