皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

上尾市柏座 春日神社

2019-12-17 20:30:19 | 神社と歴史

 師走も半ばを過ぎていよいよ年末の足音が聞こえてくるような頃合いとなった。毎年このころになるとやや気も重く、仕事に対する重圧を感じ、気ばかり焦ってしまう。そんな時こそ外に出て、空気を吸いなれない土地を歩いて廻るのがいい。

 上尾市は人口22万人を抱える県内有数の都市であるが、もともとは中山道の宿場町にあたり、江戸日本橋から数えて5番目の宿場であったという。上尾という地名は戦国期からついたといい(郷名)高台の田の端を意味するという。尾というのは接尾語的に使われ端を指すのは私の住む皿尾も同じ。但し江戸期まで宿場としては水運の船着場にあった平方の方が栄えたという。

 

「埼玉の神社」を調べると、こと北埼玉にせよここ北足立にしろ、その中心となる神社が多く地域に勧請される。北埼玉であれば久伊豆、北足立であれば氷川神社。北葛飾であれば鷲宮神社といったところがその中心。勿論全国的に広く多数勧請されている八幡、稲荷、天神、神明といった神社は多くの旧村社ともなっている。しかしここ関東ににおいて春日神社の数は明らかに少ない。各市町村において一社歩かないかほどだ。ここ上尾市についてもここ柏座に一社のみ。地元行田市についても二社に限られている。

 春日神社の総本社は奈良の春日大社。古くから神様が宿る神奈備山として崇められた春日山(御蓋山=みかさ山)の麓に鎮座している。朝廷から崇敬を集めた国家鎮守の神である。そしてその春日大社を氏神としたのが藤原氏であった。

戦国期忍の浮き城と名をはせた成田氏は、古くから藤原氏の流れをくむとされてきた。その成田当主は十四代当主顕泰から下総守を名乗っている。顕泰から家督を相続した十五代親泰は延徳元年児玉党の忍氏の館を攻め、同三年に自らの居城として忍城を築いたとされる。応仁の乱(1467)の二十年後くらいの頃である。その後長泰、長氏と家督を継ぎ何れも下総の守を名乗り、氏長の時に城は石田三成率いる豊臣軍によって水攻めにあったことは歴史の知るところとなる。

 その成田下総守の家臣、曽我兵庫助祐昌(そがひょうごのすけひろまさ)がこの地に住んでいたことから、主君成田氏の氏神である行田市谷郷春日神社を勧請したと考えられている。

「風土記稿」によれば柏座村の項に、村の北方の丘に曽我氏の居館があり、歌舞伎で知られる曽我十郎、五郎兄弟に伝承された様子が載るともいう。「春日社 当村及び春日谷津村鎮守也日乗院持」とある。江戸期には柏座村の鎮守であったという。別当日乗院は真言宗の寺院でかつては十石の朱印地を有し、元暦二年(1185)道法上人の草創という。

平成九年には春日神社合祀百周年の記念事業が行われ、記念碑が建てられている。氏子区域は柏座、春日、谷津の各地で総代もそれぞれから選出される。古くからの行事を大事に伝えるという。

鎮座地は柏座二丁目であるが、上尾市は戦後都市化の中で多くの区画整備が行われ、町全体が一変している。かつては大きな杉の木があり字名も柏座一本杉と称した。現在では境内に大きな銀杏の木が数本立ち並び、初冬になって尚その美しい黄色の葉を留めている。

 


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