皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

ゆく川の流れは絶えずして

2017-08-07 21:16:38 | 記憶の片隅

 ゆく川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
 世の中にある人と住みかと、また各のごとし。たましき都の内に棟を並べ瓦を争へる、高き、卑しき人の住まいは、世々をへて尽きせぬものなれど、これをまことか尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。或は、去年焼けて今年作れり。或は大家滅びて小家となる。
 住む人も、これに同じ。処も変わらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二、三十人が中に、わづかに一人二人なり。朝に死し、夕に生まるるならび、ただ泡にぞ似たりける。
 知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来りて、いずかたへか去る。また知らず、仮の宿り、誰がためにか心を悩まし、何によりてか、目を喜ばしむる。その主と住みかと、無常を争うさま、今は朝顔の露に異ならず。或は露落ちて花残れり。残るといえども、朝日に枯れぬ。或は花はしぼみて露なほ消えず。消えずといえども、夕べを待つことなし。

 私にはわからない、生まれたり死んだりする人は何処からきてどこへさって逝くのか。

 十五年前、オープンした店の契約更新の話を聞いた。
更新しなければ、お店はなくなってしまう。開店時、輝いていた外観、内装、テーブル、そして希望にあふれていた従業員。時と共に働く人もかわり、メニューも常に新しくなった。たくさんの人が食事をし、会話を重ね、過ごした時間。僕がかかわったのはその最初の半年余り。

遠く離れ、忘れてしまったことのほうが多い。でもかすかな糸でつながっている。人の心という糸で確かにつながっている。

 どこにでもある飲食店かもしれない。でも僕にとってかけがえのないただ一つの店。

自分にできることは何もない。それが現実。でも遠く離れたところで願っている。今この店で働いている人が、毎日明るく仕事できるようにと。また、かつて共に働いた仲間が、それぞれの道で幸せに暮らせるようにと。

 生きていくことは、この上なく儚いと感じる。でもともに過ごした時間は間違いなく輝いている。

ここで働くことができてよかった。連絡くれてありがとう。必ずまた会えると信じている。
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