皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

お変わりありませんか。

2020-04-13 11:28:45 | 心は言葉に包まれて

「こんにちは」「暫くぶりです」「お元気ですか」少し時を隔てて人に会う際、どんな言葉を掛けるとより気持ちが相手に伝わりますか。日々の挨拶が大切だと説く人は多いと思いますが、不定期に会う人とのつながりにその人への思いが良く伝わる一言があります。

~お変わりありませんか~

半年に一度通う歯科医の先生がかけてくれる言葉です。

 健康な体には自身に治癒能力があり、栄養、睡眠、適度な運動などでその能力は維持できる。でも口内環境による歯垢の蓄積は自身で除去するには限界があり、それによって歯肉や歯周病は進行してしまうので、定期的に歯科医の検診を受けることは健康的な社会生活を送るのには必須のことだと指導されてきました。痛みが出てからでは遅い。いつも先生はそうおっしゃいます。かかりつけの歯科医の先生は診察や治療の際はどちらかというと厳しめの言葉を掛けてくれます。だからより信頼できる。普段から甘い自分自身の生活態度を戒めてくれるようです。

その後変わりないですか。その挨拶の向こう側には、「あなたの健康はあなた自身で管理するのですよ。

でも歯の健康については私たちが責任をもってサポートします」そう言ってくれているような気がします。

こうしたかかりつけ医の先生が身近に開業されていることを幸せに思います。

 

 

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生垣と紅カナメモチ

2020-04-13 10:36:01 | 生活

 生垣に用いられるバラ科の常緑樹カナメモチ。ホームセンターなどに置かれている苗木はレッドロビンと呼ばれカナメモチとオオカナメモチの配合種で特に新芽の赤色が鮮やかなことから「紅カナメモチ」とも呼ばれている。桜と前後するように今の時期紅色の鮮やかな新芽が美しい。

 

カナメモチとは扇の要に用いられ、「モチノキ」に似ていることから「要黐」と名付けられたという。

春には小さな白い花を咲かせる。清少納言は「枕草子」の中でこの花をそばの花に見立てて「ソバノ木」と呼んだそうだ。だからモチノキのことを今でもソバノ木とも呼ぶことがあるらしい。

カナメモチの花言葉は「賑やか」。新緑が鮮やかな赤色をしていることからついたという。時間をかけて緑に変色していく姿がまた趣が深い。

 土地の境界を隔てるのには塀や石垣よりも生垣がいい。剪定に手間もかかり煩わさも感じるが、その分自然の温かみがある。

神社の参道に植えられたカナメモチは四十年以上前に先代宮司である父と、隣村の植木職人が植えてくれたものだ。二人とも亡くなってしまったが、縁あって今はそれぞれの孫が小学校の同級生として仲良く学んでいる。

縁とは不思議なものだ。そして末永く続いて欲しいと願っている。

 

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ひとりの入学式に

2020-04-11 22:18:57 | 日記

 東京はじめ各地に緊急事態宣言が発令される中、週半ばには地元小中学校の入学式始業式を迎えました。三月当初に政治判断で学校が休みとなり一か月以上経ちますが、感染拡大の流れは断ち切れず、年度初めの学校行事も例年通りに行うこともかなわず、縮小の上入学式の後すぐにまた先の見えない休みに入っています。

 入学式に当たり新入生の気持ちはどうだったのでしょうか。例年の入学式でも希望と共に多少の不安を抱えて新たな門出を迎えるものですが、今年に限って言えばいっそう不安な時間を過ごしているでしょう。少しでも早く疫病が収束し、普段の社会生活が取り戻されることを願っています。

 今年の小中学の入学式では感染防止も踏まえて保護者についても1名までの参加に限るとされたようです。子供の成長の節目に立ち会えない親が多数出ることになってしまったことは残念なことです。

 中三にになる長女は、在校生を代表し入学式に参列して歓迎の言葉を読ませていただきました。二年前ひと学年一クラスの小学校から中規模4クラスの中学校へ進学する時には、不安で泣き出しそうだった長女が立派に成長し、新入生を迎える立場になったことは本当に嬉しい事です。これからも自分の道を自分で切り開けるよう努力を重ねてほしいと思います。

入学式の挨拶には桜の景色が似合います。儚く散りゆくも人の心に残るものです。不安を乗り越え多くの新入生がこの春の思いを大切に未来へはばたくことを願っています。

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間違いは誰にでもあるけれど

2020-04-02 07:32:00 | 生活


年度末を迎えたの30日の晩、一本の電話が鳴った。小学校の担任の先生からだった。電話での定形の挨拶を済ますと、用件は明日31日に自宅へ訪問したいとのこと。生憎夫婦それぞれ仕事のため、子供本人しかおらずそれでも良いので伺いたいたいとのことだった。


用件を聞くと、通知表の一部に間違いがあるので差し替えたいとのことだ。評価について何が間違いだったのか気になり恐る恐る聞いてみると、意外にも学校名が間違えているとのこと。三学期の通知表は学年の修了証書であり、校長名でその旨記入がある。校長印も押印されている。昔であれば個人名は筆で手書きであった。その学校名が間違っていた。市内の別の中学の名前が書かれていた。
驚きと同時に残念に思った。間違えた学校の先生にも、間違いに気づくことのなかった自分にも。
ファイルになった通知表はパソコンのフォーマットで全て入力している。恐らく市内の全ての学校で共有しているのだろう。だから学校名を間違って選択し、気づかず生徒全員分出力したのだろ。それは仕方ないとして、ファイルする際、手渡す際目にする機会は何度かあったはず。ただの作業になっていなかったか、一度でも確認することはなかったのか。返す返す残念に思う。


社会が混乱している今だからこそ、自分がすべきことを日々しっかりしたいと思う。淡々と積み重ねるように。人の痛みは他人事と思わず。自分の進むべき道は時々の状況に左右されずに。



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