皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

加須市 南大桑 雷電神社

2022-06-08 21:05:18 | 神社と歴史

加須市大桑の名前の由来は往古筑波の門井村から移住した大桑氏が当地に勢力を得たことによる。大桑氏はその後姓を門井と改めたという。
口碑によれば雷電神社門井家の北に隣接していたが、同家が屋敷を広げるにあたり、隣家と共に移築したとも伝わる。

この時当地にいくつもあった小丘を使って利根川の堤が増築されたため、当社は今でもその堤の上に建っている。
主祭神は別雷命で本殿に十一面観音を安置する。
大桑の鎮守として氏子に「雷電様」「お鎮守様」として親しまれ、五穀豊穣を祈願されてきた。
四月十五日の例祭に奉納される「獅子舞」は盛大で昭和三十五年に市の無形文化財に指定されている。昭和三十年代半ばからして指定されるのはそれだけ知られていた証だろう。加須市の獅子舞にはほかに北小浜、、大字多門寺に同じ流派の獅子舞が伝わるが、雷電神社に伝わるものは動きが激しいため、「暴れ獅子」と称される。
現在使われている獅子頭は天保十四年(1844)に作られたものとされ、演目は「散し」「橋渡し」「花見」「綱切り」「蛇呑」などである。

境内社である愛宕神社は昔当地に火災が頻発したため火伏の神として京都愛宕神社から護摩の灰をいただき祀ったとも伝わる。雷電神社の御祭神である別雷命もまた京都上加茂神社の御祭神である。また社頭においた楊枝を耳に入れると耳の病が治ると伝わる。これは同じく加須市多門寺の愛宕神社と同じ伝承である。

多くの風習や信仰が薄れゆく中で昭和初期まで雨乞い信仰が残っていたという。日照りが続くと隠居獅子という古い獅子を霧箱に入れ葛西用水まで担ぎ、観音堂池まで来るとこれを沈める。雨が降れば隠居獅子を神社へ戻し、降らなければ七日間獅子を沈め、引き上げたのち雨が降るまで繰り返したという。水の恵みが今よりももっと神聖視されていた時代である。そうした歴史を私たちは忘れてはならないことを伝えているのだろう。
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紫陽花から麦わら帽子へ

2022-06-08 20:35:42 | 生活

庭の紫陽花が咲いています。
各地の寺社仏閣でも多くの紫陽花を見られます。桜の花から早二ヶ月。季節の巡りは早いものです。

種から撒いたマリーゴールドも咲いています。これから梅雨の合間に植え直し、夏に向けて麦わら帽子を広げていきたいですね。
雨上がりキラキラ輝く虹の色

梅雨時期こそ明るく澄んだ心持ちで毎日を過ごしたいと願います
輝く夏の青空を待つ気持ちです。お
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皮膚科の受け付け待っています

2022-06-08 15:33:31 | 生活

週半ばの水曜日ですが、子供の皮膚科受診の受け付けを待っています。午後3時の診察開始にたいして40分前から並びます。すでにお一人並んでいらっしゃいました。15分もすると、あれよあれよと20人ほどが並びます。それだけ受診される患者さんが多いようです。

最近多くの診察がインターネットを介した予約を導入していますが、こちらの皮膚科は時間前の順番待ちの形をとっています。どちらが患者さんにより良い仕組みかは判断しかねますが、診察開始時間には30人以上が院内にはいるようでした。



アレルギーや環境の変化で近年皮膚科の受診者が多いと聞きます。私も三十代前半に手にイボを患い仕事の合間を縫って半年ほど皮膚科に通いました。やはり一時間以上前からか並び、レジャー用の椅子を持って行き、座っていた記憶があります。今はもうその皮膚科は閉院しています。時の流を感じます。

皮膚科前の田んぼの様子です。半分ほど苗が植わっていますが、代掻きがこれからのところもあります。同じ忍領内でもここは城の辰巳方向で、私のすむ皿尾村とはちょうど反対方向です。下忍地区はその名の通り、藩主に支える家臣の地区でもありました。

所謂待ち時間の方が長いようで、30分以上並び、診察は5分かかりません。薬をもらうために定期的に診てもらっているようです。
コロナ禍も沈静化傾向ですが、これからこうした順番待ちの列が日常生活に戻って行くことがよいのか、時代と共に無くなるのか行く末を見守りたいと思います。





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梓杯~埼玉東部中学校テニス大会にて

2022-06-07 23:13:35 | 日記

6月5日、関東地方が梅雨入りする前日に加須市テニス大会「梓杯」へ出場しました。行田、羽生、加須、久喜、蓮田と埼玉東部の広域の限定大会です。約50チームが3チーム総当たりのグループ予選を経て、決勝トーナメント16チームを争います。

予選は4ポイントワンゲームの5ゲームマッチ。3ゲーム先取すれば勝ちです。同級生と組んだ2年生チームながら予選は一ゲームも落とさずストレートで決勝に残れました。応援に駆けつけたのは予選の二試合目から。

7ゲームマッチとなる決勝トーナメント初戦を突破し、準々決勝は格上の三年生チームを2ゲームとられながら逆転で勝利し、準決勝へ駒を進めました。
午後になるとやや風も強くなり、ファーストサービスの決定率も下がります。ストロークでも風に流されて打ち難そうでした。準決勝は破れましたが、相手のマッチポイントを2度凌いだのが印象に残りました。
コート内に唯一入れるのは高校生の外部コーチでした。コーチが自分の事以上にコートに立つ二人に対し、冷静で熱い言葉や指示を送ってくれたことに感動を通り越して、尊敬の念を覚えました。またそうしたコーチを招聘した監督(部活動顧問の先生)の人を見る目、信頼して任せるところにも指導力を感じます。素晴らしい先生です。
試合最後の指示は「ここまで来れば、自由に思いきってやってきな!!」
序盤の技術的指導、メンタルコントロール。相手との駆け引きの指示の先には本人たちの能力を信じ、任せ、次に繋がるゲームとなるような組み立てが感じ取れました。

三位の表彰を受け非常に嬉しそうでした。ただし、今回の大会で今のペアは一旦解消し、チーム内で組み替えて次の大会へと向かうようです。個人としての成長、チームとしての成長、団体戦を見据えたチームバランス。様々な要素を勘案し監督である顧問の先生が判断しています。勝つこと、結果を残すことは需要です。でもその過程自体により注目しています。私は保護者として、息子やチームの選手のファンとしてサポートしていきたいと思っています。
頑張れテニスの王子様!!頑張れ我ら忍中庭球部!!
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皿尾門の狐

2022-06-07 20:28:35 | 昔々の物語

『甲子夜話』(こうしやわ)という九州平戸藩主松浦静山翁が文政四年(1821)から七年かかって書き上げた随筆集がある。その巻四十六に「忍城の事」が出ていてそのなかに「本城の後ろの林ある嶋あり、この処狐多く住めり云々」と記されている。今から二百年も前に九州平戸藩まで知られていた事は非常に興味深い。


忍城は沼と森林に囲まれていたことから、蛇と狐の伝承が非常に多い。
皿尾門というのは忍城北西にあり俗に乾門(戌亥)と称し忍城十五門の内でも重要な門のひとつであった。忍城の場合明け六ツ、暮れ六ツには門を開閉する「時鐘」が鳴り響いたという。

大屋の竹さんは皿尾門の使丁であった。明治に入ってすぐの頃暮れ六ツの鐘と共に城門を閉めれば誰一人通らない静かな夜を迎えるばかりでである。
亥の刻(午後十時)には火の用心の見回りをするのが勤めっであった。この間城門近くを通る度、潜り戸を叩く音がするので扉を開けると誰もいないとい事が続いた。竹さんは興味が湧いて物陰に隠れてみていた。すると一匹の狐が門のとこへ来て止まり後ろ向きになって尻尾を立てて門をトントン叩いているのいるではないか。武さんが「この野郎!」と近づくと狐は素早く逃げてしまい、以来一度も門に近づかなかったという。
狐は人を騙すというが、狐にしてみれば戸を叩くと人が驚いて開けてくるのでただ面白かったのかもしれない。

狐が戸を叩きに来る話しは竹さんの唯一の語り草で、この先の矢場かいわいでは、竹さんの話を聞かされない人はいなかったほど有名だったという。
引用文献「行田の伝説と史話」大沢俊吉
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