語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【旅】濱田珠凰「指画の世界」展

2013年05月27日 | □旅
 (1)十年前かもう少し前、「とっとり花回廊」【注1】の一角で作品展を開いていた濱田珠凰【注2】さんと出会った。ちょっと話を交わし、名刺を渡したら、その後きちょうめんに毎年賀状をくださる。

 (2)珠凰さんは、米子市在住の「指画」家。中国で指画を修め、米子市を拠点に創作を続けている。
 彼女の個展が米子天満屋で開催中だ(本日27日まで)。地元での個展は7年ぶり。今展では、4枚屏風の龍の図をはじめ、花鳥風月を題材とする70点を出品する。観音菩薩を描いた早乙女太一の舞台衣装も特別出展されている。
 実演も3日、計6回あり、写真はそのスナップ。

 (3)石川光男・国際基督教大学名誉教授によれば【注】・・・・
 珠凰さんの筆を使わずに指と爪で描く画法は、国際的に評価が高い。
 眼光鋭い鷹や龍の強烈な迫力、牡丹や葡萄のみずみずしい生気は、絵に対する情熱と逆境の中での精進、天賦の才能によることは言うまでもないが、その奥深さの鍵は珠凰さんの次の述懐に秘められている。
 珠凰さんいわく、「絵は私一人の力で描いているのではない。自分の力だけに頼ったときに絵の質が低下する」。
 これは、日本の先達が到達した無我の境地だ。濱田さんは絵を描いているのではなく、描かされている。
 西洋では、自我を重視する。これに対して東洋、特に日本では無我を重視する。無我無心とは、主体性を失った状態ではなく、心身が自由闊達となり、他との一体感が生まれる。日本の武道や禅では、この境地を求めて多くの先達が精進を重ねた。この境地で対象に思いを込めるとき、主体の「気」が対象に浸透する。
 濱田さんの絵が気を発するのは、彼女に絵を描かせている何ものかの気が絵に乗り移っているからだ。珠凰さんに乗り移った龍の気迫。葡萄のみずみずしさは、この画家の心が感じた葡萄の生気にほかならない。
 気は理性や科学で理解するものではなく、直感で感ずべき世界だ。
 珠凰さんの絵がブータンをはじめとする各国各地の寺社に奉納されるのは、このような物心一如の世界への共感が背景になっている。

 【注1】「鳥取県立フラワーパーク
 【注2】「濱田珠凰オフィシャルブログ
 【注3】石川光男「気を発す無我の境地 ~濱田珠凰「指画の世界」展~」(2013年5月23日付け日本海新聞)。同氏には、「無我の境地が生む技の奥義」の評もある。
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 【参考】
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