
(1)エフライム・ハレヴィの略歴【訳者(河野純治)あとがき】
<1961年、モサド入局。分析官、工作管理官などを経て、1967年に幹部となる。ワシントンに4年間駐在。その間おもに、当時のイツハク・ラビン駐米大使に仕える。パリにも3年間駐在。また、二つの作戦部門で指揮をとる。5年間、副長官を務めたのち、いったん退職。1995年、EU駐在大使としてブリュッセルに赴任。その2年3か月後、作戦の度重なる失敗で危機的状況に陥っていたモサドの長官に就任。以後4年半にわたって組織のトップとして指揮をとり、モサド復活に尽力する>
その後、ヘブライ大学戦略政策研究センター所長【次の(2)による】。
(2)邦訳単行本『モサド前長官の証言「暗闇に身をおいて」』の解説【佐藤優】
(a)佐藤優は現役外交官時代、ハレヴィ長官(当時)と6回会った。うち5回がテルアビブで、1回が日本で。
初めてテルアビブで会ったとき、1時間半ほど、ロシア内政、チェチェン分離独立派と中東のイスラム原理主義過激派との関係について、彼の見解を聞いた。ハレヴィ長官のロシアに関する知識は文化史や思想史を踏まえた上での洞察力に富む内容だった。
それからしばらくしてハレヴィ長官夫妻が訪日した。佐藤優は全行程を長官に同行した。モサド長官からあらゆるものを吸収し、これから構築する本格的な外務省のインテリジェンス・チームのために生かしたいと考えたからだ。
(b)ハレヴィ長官は、ロシア史や文学にも詳しいが、ロシア語は理解しない。親戚の一人に英国の思想家アイザイア・バーリンがいて、ロシアのことはバーリンから聞いた。耳学問だが、役に立っている。ロシア人は面白い。知的会話を楽しむことができる。約束を守る律儀なところと他人の裏をかいて陥れる陰険なところが同居している。優しさと残虐さが隣り合わせだ。
ソ連とイスラエルの関係は、そもそも悪くなかった。1948年にイスラエルが建国されたとき、米国が一番早く国家承認をした。二番目はソ連だった。親イスラエルということではなく、反イギリス帝国という観点で、当初、ソ連はシオニズムを支持した。その後、いくつかの偶然の要素もあって、米国がイスラエルを、ソ連はアラブ諸国を支持するようになった。ロシア人は体質的にアラブ人とは合わない。連中はひどい貧乏くじを引いた。
六日戦争でソ連はイスラエルと国交断絶した。それから数年経って、ソ連はこのままじゃまずいと思うようになった。ソ連はイスラエルと裏のチャンネルを開けようと言ってきた。イスラエルは、もちろん受けた。敵と交渉し、ときには協力するのがハレヴィ長官たちの仕事だ。そこで、接触はニューヨークということになり、ハレヴィ長官がイスラエルの代表になった。ソ連からは、科学アカデミーのプリマコフが出てきた。SVR(対外諜報庁、旧KGB第一総局の後継組織)長官、外相をつとめた後、当時首相を務めていたプリマコフだ。彼もユダヤ人だから、互いに話が通じる。プリマコフは親アラブ派でサダム・フセイン・イラク大統領(当時)の友だちだが、ハレヴィ長官たちと付き合う障害にはならない。
(c)ハレヴィ長官の話は(b)のように面白い。佐藤優はプリマコフについていろいろ質問し、参考になる話をたくさん聞いた。当時、エリツィン大統領の健康状態が思わしくなく、ロシアの政治エリートの間ではプリマコフ首相が求心力をもちはじめていた。それなので、このときハレヴィ長官から得た情報は、日本の対露外交戦術構築にとても役立った。
(d)ハレヴィ語録。
・調査のための調査、分析のための分析はインテリジェンスの世界に存在しない。調査も分析も国益を保全し増進する工作のために用いられなければ意味がない。
・インテリジェンス・オフィサーは常に目的のために教養を用いる。
・インテリジェンスは時間的制約の中で判断を求められる。時間という要素を常に頭に入れろ。
・インテリジェンスの世界では、成功した工作は痕跡が残らない。従って、工作がもっとも上手くいっているときと、何もしていないときが表面上は同じように見える。
・インテリジェンス機関の真価は、同僚と情報提供者をいかに守るかにかかっている。人間を大切にしないインテリジェンス機関は、ほんとうの成果をあげることはできない。
・友人を作るときは、慎重に過ぎるほど慎重になれ。しかし、ひとたび友人になったら、その友人の命を自分の命と同じくらい重いものと思え。
・神を畏れよ。国家のために、われわれは真実を隠蔽したり、嘘をつかなくてはならないこともある。しかし、歴史に対して嘘をついてはいけない。神がすべてを見ている。神の前で、謙虚になれ。
(d)本書にインテリジェンスの基本はすべて書き尽くされている。あとは読者がどれくらい本書を注意深く読み解くかだ。
(3)邦訳文庫版『イスラエル秘密外交 モサドを率いた男の告白』の解説【佐藤優】
邦訳単行本『モサド前長官の証言「暗闇に身をおいて」』の解説(その要点は(2))を読めば、ハレヴィ氏がおそらく100年に1人しか出ないインテリジェンス・マスターであることが理解できる。
邦訳単行本の底本はハードカバー版(2006年刊)だが、邦訳文庫版はペーパーバック版(2008年刊、英語)を底本にしており、新たな序文が加えられている(邦訳文庫版序文「ハマスと海図にない海」)。内容が優れているので、邦訳単行本を読んだ人も邦訳文庫版を手にとる価値がある。
序文では、ブッシュ・ジュニア政権時代に米国の対イラン政策が変化したことについて明確に述べている(邦訳文庫版pp.22-23)。
イスラム教スンナ派系過激派「イスラム国」(IS)の台頭を背景に、米国はISと本気で対峙しているイランとの関係を抜本的に改善した。米国の主導で、2015年7月14日にウィーン(オーストリア)で、イランの核開発を事実上容認する協定に米英仏独中露とイランが署名した。その結果、イランに対する国際制裁は解除された。実はこの流れは、ISが出現するよいも前に、既に生まれていたことにハレヴィ氏は気付いている。実に鋭い洞察力だ。
次に注目されるのは、ロシアのプーチン政権の近未来分析をこの序文で行っていることだ(邦訳文庫版pp.32-33)。
2014年2月に勃発したウクライナ紛争に介入し、ロシアは翌3月に武力を背景にクリミアをウクライナからロシアに併合した。これは国連憲章に明白に違反する行為だ。さらにISの台頭によって、シリアが内乱状態に陥ったことを受けて、2015年9月か、ロシアはアサド政権の要請に応じて、シリアに正規軍を派遣した。1991年12月のソ連崩壊後、ロシアが旧ソ連諸国を除く外国に正規軍を派遣した初の事例だ。2016年3月にロシア軍は撤退したことになっているが、軍事顧問団と称してロシア軍の精鋭がシリアに駐留を続け、影響力を行使している。ハレヴィ氏がこの序文を書いた2008年の時点で、<ロシアがかつての政策を再開し、ふたたび中東における陰の黒幕としての地位を確立しようとしている>というこいとを洞察したロシア専門家は、佐藤優の知る範囲では一人もいなかった。
本書を通じて、イスラエル流インテリジェンスの神髄を体得することができる。
□エフライム・ハレヴィ(河野純治・訳)『モサド前長官の証言「暗闇に身をおいて」』(光文社、2007/後に改題『イスラエル秘密外交 モサドを率いた男の告白』、新潮文庫、2016)
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【参考】
「【佐藤優】元モサド長官回想録、舌禍の原因、灘高生との対話」