<(承前)
これと同じような発想で近代日本の姿を読み解いたのが柳田國男であるというのが、柄谷行人さんの『遊動論-柳田国男と山人』での主張です。柳田國男は原日本人の宗教感覚について、「死ぬとあらみたまになって、裏の山あたりにいる。そして死者は生者とコミュニケーションが可能であり、死者それぞれに個性がある。それがだいたい50年経つと個性がなくなって、祖霊という形になり、一般論としてわれわれを守る」と考えた。そして柳田は「これは証明できないけれども、確実に存在するのだ」と言い切っているわけです。
現代のわれわれから見ると、独我論のように見えるでしょう? 柄谷さんは、「山人というものは実証できないが確実にいた」と柳田國男は言っているが、これは決してメチャクチャな論法ではないのだ、と一生懸命説明しようとしています。これはドイツ語で言えばUrgeschichte(原歴史)という、神学の世界ではよくある考え方です。こういう物の見方は、客観的・実証的に記述していくことに対して関心を持たなかった時代においては、いくらでもありました。
日本でいうと室町より前の文献は、実証できない語り方になっています。室町以降は実証的になる。そんな時代の分水嶺が『太平記』です。『太平記』というのはハイブリッドなのです。現代人に繋がるところもあれば、古(いにし)えの神々の世界に繋がるところもある。日本と中国とインド、つまり本朝、震旦(しんたん)、天竺(てんじく)という三大世界論を持っていた時代の、それらをつなぐ蝶つがいでもあったテキストです。
16世紀にフランシスコ・ザビエルをはじめとする宣教師たちが日本へたくさん来ました。あの人たちは『太平記』を読んで、日本語を勉強していた。マカオで日本語版の『太平記』が印刷されていたんです。教文館から復刻されたのを見ると、当時のカトリック教会が「これは反キリスト教的な書物ではない」と認定しています。その認定をしていないと当時は印刷できないですからね。『源氏物語』や『平家物語』の日本語では通用しないけれども、『太平記』の日本語はそのまま使えたから、宣教師たちはこの本で勉強したのです。>
□佐藤優『いま生きる「資本論」』(新潮社、2014)の「3 カネはいくらでも欲しい」の「実証できない語り」から一部引用
【参考】
「【佐藤優】客観的・実証的に証明していく言語vs.物語る言語 ~いま生きる「資本論」(24)~」
「【佐藤優】観念的な講座派『蟹工船』vs.リアリズムの労農派『海に生くる人々』 ~いま生きる「資本論」(23)~」
「【佐藤優】1930年代の論争が今も反復されている ~いま生きる「資本論」(22)~」
「【佐藤優】贈与と相互扶助と商品経済の三つが「人間の経済」 ~いま生きる「資本論」(21)~」
「【佐藤優】相互扶助という経済 ~いま生きる「資本論」(20)~」
「【佐藤優】贈与という経済 ~いま生きる「資本論」(19)~」
「【佐藤優】公務員は労働者階級でも資本家階級でも地主階級でもない ~いま生きる「資本論」(18)~」
「【佐藤優】資本主義を土地(環境)が制約する ~いま生きる「資本論」(17)~」
「【佐藤優】他人のための使用価値 ~いま生きる「資本論」(16)~」
「【佐藤優】〈裏のユダヤ教〉カバラ思想の下に埋もれている部分を説明したフロイト ~いま生きる「資本論」(15)~」
「【佐藤優】講座派の特徴、「日本の特殊な型」 ~いま生きる「資本論」(13)~」
「【佐藤優】講座派vs.労農派、内ゲバのロジック ~いま生きる「資本論」(13)~」
「【佐藤優】宇野経済学は歴史学、資本主義社会の論理をつかむ ~いま生きる「資本論」(12)~」
「【佐藤優】『資本論』の二つの読み方 ~いま生きる「資本論」(11)~」
「【佐藤優】第一次世界大戦のため日本で『資本論』研究が盛んに ~いま生きる「資本論」(10)~」
「【佐藤優】本書は人生が苦しい原因の6割を解明する ~いま生きる「資本論」(9)~」
「【佐藤優】宇野経済学の面白さ ~いま生きる「資本論」(8)~」
「【佐藤優】自分の周りでできること二つ・補遺 ~いま生きる「資本論」(7)~」
「【佐藤優】自分の周りでできること二つ ~いま生きる「資本論」(6)~」
「【佐藤優】報酬と賃金は違う ~いま生きる「資本論」(5)~」
「【佐藤優】剰余価値の作り方:労働時間延長と労働強化 ~いま生きる「資本論」(4)~」
「【佐藤優】制約条件をわかった上でやる、突き放して見る ~いま生きる「資本論」(3)~」
「【佐藤優】アベノミクスとファシズム ~いま生きる「資本論」(2)~」
「【佐藤優】親の収入・学歴と、子どもの学力の関係 ~いま生きる「資本論」(1)~」
これと同じような発想で近代日本の姿を読み解いたのが柳田國男であるというのが、柄谷行人さんの『遊動論-柳田国男と山人』での主張です。柳田國男は原日本人の宗教感覚について、「死ぬとあらみたまになって、裏の山あたりにいる。そして死者は生者とコミュニケーションが可能であり、死者それぞれに個性がある。それがだいたい50年経つと個性がなくなって、祖霊という形になり、一般論としてわれわれを守る」と考えた。そして柳田は「これは証明できないけれども、確実に存在するのだ」と言い切っているわけです。
現代のわれわれから見ると、独我論のように見えるでしょう? 柄谷さんは、「山人というものは実証できないが確実にいた」と柳田國男は言っているが、これは決してメチャクチャな論法ではないのだ、と一生懸命説明しようとしています。これはドイツ語で言えばUrgeschichte(原歴史)という、神学の世界ではよくある考え方です。こういう物の見方は、客観的・実証的に記述していくことに対して関心を持たなかった時代においては、いくらでもありました。
日本でいうと室町より前の文献は、実証できない語り方になっています。室町以降は実証的になる。そんな時代の分水嶺が『太平記』です。『太平記』というのはハイブリッドなのです。現代人に繋がるところもあれば、古(いにし)えの神々の世界に繋がるところもある。日本と中国とインド、つまり本朝、震旦(しんたん)、天竺(てんじく)という三大世界論を持っていた時代の、それらをつなぐ蝶つがいでもあったテキストです。
16世紀にフランシスコ・ザビエルをはじめとする宣教師たちが日本へたくさん来ました。あの人たちは『太平記』を読んで、日本語を勉強していた。マカオで日本語版の『太平記』が印刷されていたんです。教文館から復刻されたのを見ると、当時のカトリック教会が「これは反キリスト教的な書物ではない」と認定しています。その認定をしていないと当時は印刷できないですからね。『源氏物語』や『平家物語』の日本語では通用しないけれども、『太平記』の日本語はそのまま使えたから、宣教師たちはこの本で勉強したのです。>
□佐藤優『いま生きる「資本論」』(新潮社、2014)の「3 カネはいくらでも欲しい」の「実証できない語り」から一部引用
【参考】
「【佐藤優】客観的・実証的に証明していく言語vs.物語る言語 ~いま生きる「資本論」(24)~」
「【佐藤優】観念的な講座派『蟹工船』vs.リアリズムの労農派『海に生くる人々』 ~いま生きる「資本論」(23)~」
「【佐藤優】1930年代の論争が今も反復されている ~いま生きる「資本論」(22)~」
「【佐藤優】贈与と相互扶助と商品経済の三つが「人間の経済」 ~いま生きる「資本論」(21)~」
「【佐藤優】相互扶助という経済 ~いま生きる「資本論」(20)~」
「【佐藤優】贈与という経済 ~いま生きる「資本論」(19)~」
「【佐藤優】公務員は労働者階級でも資本家階級でも地主階級でもない ~いま生きる「資本論」(18)~」
「【佐藤優】資本主義を土地(環境)が制約する ~いま生きる「資本論」(17)~」
「【佐藤優】他人のための使用価値 ~いま生きる「資本論」(16)~」
「【佐藤優】〈裏のユダヤ教〉カバラ思想の下に埋もれている部分を説明したフロイト ~いま生きる「資本論」(15)~」
「【佐藤優】講座派の特徴、「日本の特殊な型」 ~いま生きる「資本論」(13)~」
「【佐藤優】講座派vs.労農派、内ゲバのロジック ~いま生きる「資本論」(13)~」
「【佐藤優】宇野経済学は歴史学、資本主義社会の論理をつかむ ~いま生きる「資本論」(12)~」
「【佐藤優】『資本論』の二つの読み方 ~いま生きる「資本論」(11)~」
「【佐藤優】第一次世界大戦のため日本で『資本論』研究が盛んに ~いま生きる「資本論」(10)~」
「【佐藤優】本書は人生が苦しい原因の6割を解明する ~いま生きる「資本論」(9)~」
「【佐藤優】宇野経済学の面白さ ~いま生きる「資本論」(8)~」
「【佐藤優】自分の周りでできること二つ・補遺 ~いま生きる「資本論」(7)~」
「【佐藤優】自分の周りでできること二つ ~いま生きる「資本論」(6)~」
「【佐藤優】報酬と賃金は違う ~いま生きる「資本論」(5)~」
「【佐藤優】剰余価値の作り方:労働時間延長と労働強化 ~いま生きる「資本論」(4)~」
「【佐藤優】制約条件をわかった上でやる、突き放して見る ~いま生きる「資本論」(3)~」
「【佐藤優】アベノミクスとファシズム ~いま生きる「資本論」(2)~」
「【佐藤優】親の収入・学歴と、子どもの学力の関係 ~いま生きる「資本論」(1)~」