<佐藤 キリスト教神学はグノーシスを絶対に排斥しないといけない異端だとしています。しかし、それは一種の近親憎悪であって、グノーシスはキリスト教に深く入り込んでいるからなのです。
キリスト教初期に異端とされたマルキオンという人がいます。彼は旧約聖書の神は怒ったり嫉妬したりという不完全な神であり、イエスの示した神は慈みの神、愛の神だと主張して、旧約聖書を削除し、ルカによる福音書とパウロ書簡だけの聖書をつくりました。そして、神は人間のように苦しむわけがないのだから、仮にイエスという人間がいたとしても、神が一時的に乗り移っただけで、イエスの死後に神は去ったという仮現説を唱えた。教会はマルキオンを異端だと追放して、著作もすべて焚書にし、いまの聖書を編纂して正典としたのです。
ウィキペディアのマルキオンの項目に掲載されている、彼とヨハネを描いたイコンを見ると、キリスト教内での扱いがわかります。ヨハネは後光が差しているのに、背教者のマルキオンには差していない。顔も醜くつぶれてしまっています。
高橋 化けもののような扱いをしているのですね。異端と決めつけたり、自分たちのほうが偉いというような差をつけることを、イエスはしなかったと思うのですが。
佐藤 そのとおりです。マルキオンは命がけで自分の思想を主張していたのだから、そういうレッテル貼りをしてはいけません。
グノーシスとは、そもそもはギリシア語で「知識」を意味し、人間を救済にみちびく知識のことを指します。どうやれば救済のチャンスをつかむことができるのかという人間の努力を重視するアプローチです。教会はマルキオンを追放するときに、グノーシスもすべて否定することになったので、グノーシスが出てくると自動的に「異端」として、それ以上考えることをしない思考停止に陥ってしまう。しかし、たとえばヨハネの手紙に、グノーシスの要素が入っていることは明らかです。
一方、西洋古典思想史におけるグノーシス研究は死体解剖みたいなもので、根底にあった「どういうふうにすれば人間は救われるのか」という問題意識が抜けている。グノーシスにあった強烈な救済観を救い出そうとしたのが、先ほどから話に出てくるソロヴィヨフです。ソロヴィヨフは『三つの会話』で、トルストイの絶対平和主義を全面的に拒否しています。トルストイの絶対平和主義は形式論理にすぎないものだと排除し、本の最後ではトルストイ主義者の将軍が逃げていってしまう。抽象的な平和主義には何の意味もなく、具体的にどこにおいて、誰が、どのように問われているのか、そこから初めて問題になるということなのです。大川周明が関心を持ったのは、この点においてですね。戦争によって平和を実現していくんだという、戦争の哲学があるとソロヴィヨフを読んだのです。>
□高橋巖×佐藤優『なぜ私たちは生きているのか シュタイナー人智学とキリスト教神学の対話』(平凡社新書、2017)の「Ⅲ宗教--善と悪のはざまで」の「人間の努力を重視するグノーシス」から一部引用
↓クリック、プリーズ。↓
【参考】
「【佐藤優】悪はどこから入りどこから去っていくのか ~『なぜ私たちは生きているのか』~」
「【佐藤優】現代人は悪に鈍感 ~『なぜ私たちは生きているのか』~」
「【佐藤優】見えるお金が見えない心を縛る ~『なぜ私たちは生きているのか』~」
「【佐藤優】生活のなかに植え付けられた資本主義 ~『なぜ私たちは生きているのか』~」
「【佐藤優】プロテスタンティズムと資本主義は関係ない ~『なぜ私たちは生きているのか』~」
「【佐藤優】個別主義・全体主義・普遍主義 ~『なぜ私たちは生きているのか』~」
「【佐藤優】ルター派教会とナチズム ~『なぜ私たちは生きているのか』~」
「【佐藤優】キリスト教は「絶対他力」の宗教 ~『なぜ私たちは生きているのか』~」
「【佐藤優】『なぜ私たちは生きているのか シュタイナー人智学とキリスト教神学の対話』目次」
キリスト教初期に異端とされたマルキオンという人がいます。彼は旧約聖書の神は怒ったり嫉妬したりという不完全な神であり、イエスの示した神は慈みの神、愛の神だと主張して、旧約聖書を削除し、ルカによる福音書とパウロ書簡だけの聖書をつくりました。そして、神は人間のように苦しむわけがないのだから、仮にイエスという人間がいたとしても、神が一時的に乗り移っただけで、イエスの死後に神は去ったという仮現説を唱えた。教会はマルキオンを異端だと追放して、著作もすべて焚書にし、いまの聖書を編纂して正典としたのです。
ウィキペディアのマルキオンの項目に掲載されている、彼とヨハネを描いたイコンを見ると、キリスト教内での扱いがわかります。ヨハネは後光が差しているのに、背教者のマルキオンには差していない。顔も醜くつぶれてしまっています。
高橋 化けもののような扱いをしているのですね。異端と決めつけたり、自分たちのほうが偉いというような差をつけることを、イエスはしなかったと思うのですが。
佐藤 そのとおりです。マルキオンは命がけで自分の思想を主張していたのだから、そういうレッテル貼りをしてはいけません。
グノーシスとは、そもそもはギリシア語で「知識」を意味し、人間を救済にみちびく知識のことを指します。どうやれば救済のチャンスをつかむことができるのかという人間の努力を重視するアプローチです。教会はマルキオンを追放するときに、グノーシスもすべて否定することになったので、グノーシスが出てくると自動的に「異端」として、それ以上考えることをしない思考停止に陥ってしまう。しかし、たとえばヨハネの手紙に、グノーシスの要素が入っていることは明らかです。
一方、西洋古典思想史におけるグノーシス研究は死体解剖みたいなもので、根底にあった「どういうふうにすれば人間は救われるのか」という問題意識が抜けている。グノーシスにあった強烈な救済観を救い出そうとしたのが、先ほどから話に出てくるソロヴィヨフです。ソロヴィヨフは『三つの会話』で、トルストイの絶対平和主義を全面的に拒否しています。トルストイの絶対平和主義は形式論理にすぎないものだと排除し、本の最後ではトルストイ主義者の将軍が逃げていってしまう。抽象的な平和主義には何の意味もなく、具体的にどこにおいて、誰が、どのように問われているのか、そこから初めて問題になるということなのです。大川周明が関心を持ったのは、この点においてですね。戦争によって平和を実現していくんだという、戦争の哲学があるとソロヴィヨフを読んだのです。>
□高橋巖×佐藤優『なぜ私たちは生きているのか シュタイナー人智学とキリスト教神学の対話』(平凡社新書、2017)の「Ⅲ宗教--善と悪のはざまで」の「人間の努力を重視するグノーシス」から一部引用
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【参考】
「【佐藤優】悪はどこから入りどこから去っていくのか ~『なぜ私たちは生きているのか』~」
「【佐藤優】現代人は悪に鈍感 ~『なぜ私たちは生きているのか』~」
「【佐藤優】見えるお金が見えない心を縛る ~『なぜ私たちは生きているのか』~」
「【佐藤優】生活のなかに植え付けられた資本主義 ~『なぜ私たちは生きているのか』~」
「【佐藤優】プロテスタンティズムと資本主義は関係ない ~『なぜ私たちは生きているのか』~」
「【佐藤優】個別主義・全体主義・普遍主義 ~『なぜ私たちは生きているのか』~」
「【佐藤優】ルター派教会とナチズム ~『なぜ私たちは生きているのか』~」
「【佐藤優】キリスト教は「絶対他力」の宗教 ~『なぜ私たちは生きているのか』~」
「【佐藤優】『なぜ私たちは生きているのか シュタイナー人智学とキリスト教神学の対話』目次」