新聞に出ていた松江市・上意東にある、「美人塚」の菖蒲の花
を見に行きました。
塚の場所が分からず、車を止めて思案していると、木陰で休憩
していた土地の古老二人(ご婦人)、「どこへ行きなさるかね?」
と逆に声を掛けられた。
美人塚の所在について尋ねると、地元に今も伝わる「大江美人
伝説」を、問わず語りに(いや失礼!)延々と聞かされました。
大江(だいご)美人伝説
昔々、室町の頃(たかだか680年ほど前の話)、京都に足利将軍の御
殿があったげな・・・
松江市東出雲町上意東の、此処だいご大江の里に一人の 女
の子が生まれ、この子は成長するに従い、輝くように美しい娘と
なり、「大江美人」と村中の評判でした。
娘は年頃になると、近郷から婿を迎え相思相愛、片時も一緒に
居たと思う二人でしたが、働かなくては食べて行けず、男は昼間
は外で野良仕事、女は屋家で針仕事をしなくてはならず、何時も
一緒に過ごすという訳には行きません。
男は思案の末、地元の絵師に妻の絵を描かせ、この絵を野良仕
事の時も手元に置き働いておりました。
ある日野良仕事をしていると、西の方から強い風が吹いて来て、
絵が空に舞い上がってしまいました。
それから数日の後、東方の将軍家の庭に絵は落ちたげな・・・
この絵が、時の将軍の目に止まり、「西国に、この絵の美人がき
っと居るはずだ。 連れて参れ」と部下に命じ、とうとう出雲の国
上意東の地で探しあて京都に連れ帰らせました。
男は最愛の妻を連れ去られ、悲しい日々を送っておりましたが、
風の便りに5月5日の端午の節句には、「菖蒲売り」が将軍家の
庭に入ることを許されると聞き、近くの池で菖蒲の花を刈り取り、
早速、京都に向け昼夜を問わず歩き続け、遂に京都に着きまし
た。
しかし既に節句の翌5月6日になってしまっておりました。
御殿には入れてもらえないため、塀の外から「菖蒲~や、菖蒲」
と悲しい声で売り歩きました。
御殿の人達は、「6日の菖蒲売りが来た」と笑いましたが、その
声を夫の声と聞き分けた妻は、こっそり外に抜け出して、夫と会
う事が出来ました。
二人は、その晩打ち合わせ通り御殿を逃げ出し、人目を忍んで
逃げに逃げ、ある朝やっと懐かしい意東川の畔に辿り着きまし
た。
南を望むと、生まれ故郷の上意東の山々がぼんやりと見え、女
は張り詰めていた気持が一気に緩んで、そのままそこで息絶え
てしまい、男は泣きながら、女を故郷の地に葬ってやりました。
こののち上意東の人々は、この話を語り継ぎ(この様に?)、こ
の美人塚に花や線香を手向けて、薄命の大江美人の供養をす
る様になりましたげな・・・
口伝の悲話にふさわしく、路傍の塚は小さな菖蒲の畑の花に囲
まれて、心なしか静かに咲いていました。
五輪の塚は、上から「宝珠の空輪」「晴花の風輪」「笠の火輪」
「塔身の水輪」「基礎の地輪」と呼ばれ、時の流れに風化し苔生
しており、古老の迫力ある話や、塚の存在からも、強い夫婦の絆
を感じさせられる一日となりました。
~今日も良い一日を~