電車内、スマホあるいはタブレットで、ゲーム(パズル系が多い)を
している大の大人を割合見かける。
僕は、貴重な限りある人生の時間を、こう無駄な浪費するなんて
考えられない。。という私見をよぎらせつつも、
我が身を振り返れば、幼稚園のときにファミリーコンピュータが
家に来てからというもの、二十歳近くまで日々ゲームをたしなみ、
高校時代は皆勤賞のごとく毎日のようにゲームセンターへ
勇んで通っていたものだ。
だから、自分こそよほど多くの青春時間をゲームに費やし、
ゆえにやり切って卒業した結果、好奇心のかけらも
残ってないに過ぎないともいえる。
一方、いきもの探しは子ども時分に不完全燃焼だったから、
いまだにカブト虫や東京だるま蛙にわあわあ騒いでいる。
味わい尽くさない限り好奇心を消すことはできない。
アメリカ人に巨乳信奉者が多いのは、
みどり児のころから粉ミルクと揺りかご生活で、
母性を皮膚感覚で十全に堪能しておらず、母への未練があるから
どでかい乳房に胸躍るという説を見たことがある。
ゲームはもはや自分にとって関心が無いから、たしなんでいる方に
今共感できないだけで、
当事者にとっては、仕事の合間の息抜きや癒しであったり、なまっている
部分の集中力や脳みそを活性化するのに有意義だったりで、
無駄と言い放てるものではない。
逆に、ゲームに飽きた人ほど、ゲームを創る側に向いているのかもしれない。
自分の中で楽しく盛り上がっているうちは、
足りない水を注いでいる段階であり、必要な要素を意識、認識できているから
作ってみても物真似や二番煎じとなりやすい。
だから、興味が向かない物事にほど、人はクリエイティブになれるのではないか。
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