朝日新聞 2014年08月09日
●五十嵐聡美 道立帯広美術館学芸課長
■松前を愛した家老、2度も奇跡
江戸時代後期、絵を描くことで藩を守ろうと奮闘し、ついには藩を窮地から救った男がいた。それも生涯で2度も。絵が人の心を動かし、絵筆が最後には奇跡を起こす。そんな偉業をなしとげた松前の画人、蠣崎波響(かきざきはきょう)を紹介しよう。
父は、松前藩第12代藩主の資廣(すけひろ)。1764(明和元)年、福山城(松前城)に5男として生まれ、数え年2歳で家老職、蠣崎家の養子となる。少年期は、武家の子弟として当然の教養を積むため、江戸の藩邸で過ごす。絵に天賦の才があることは、周囲も認めていたのであろう。宋紫石(そうしせき)という長崎帰りの画家から最先端の細密画法を学んでいる。
◇ ◇ ◇
松前に戻った波響は、18歳から家老見習いとして藩政に携わるが、89(寛政元)年、藩の命運をゆるがす大事件が起きる。東蝦夷地で和人の酷使に耐えかねたアイヌが蜂起し、和人71人を殺害したのだ。中央から見れば、藩の統治能力の無さを示す失態である。策を講じた松前藩は現代のメディア戦略にも似た奇抜な案を思いつく。東蝦夷地のアイヌの首長たち12人の肖像を作成し、松前藩に服属している旨の解説を付記するというものだ。藩主が作画を命じたのは、江戸で絵を学んだ26歳の若き家老、波響。それから1年以上の歳月をかけて超細密描写による迫真の肖像を完成させた波響は、「夷酋列像(いしゅうれつぞう)」と題して、京都に運んだ。藩の思惑通り、12枚の絵は大変な評判となったが、なぜか波響は、京都で流行していた円山派の影響を受け、作風を変えてしまう。さらに、多くの文人墨客と交流するなかで、文人としての生き方に憧れを強め、漢詩の大家に教えを請い、四季の風光を清澄に謳(うた)う漢詩人としても活躍した。
◇ ◇ ◇
渾身(こんしん)の力をこめて「夷酋列像」を描き、藩を守ろうとした波響の苦労もむなしく、1807(文化4)年、幕府は、松前藩の北方警備への不信から、ついに蝦夷全島を直轄地とする。松前藩を格下げし、奥州梁川(現在の福島県)への転封を命じた。家老として藩政の中枢を担っていた波響は、この時、44歳。心に掲げた悲願は、ただひとつ、松前への復領であった。波響は、毎朝4時に起きて、梁川の天神社に絵を描いて奉納し復領祈願をしつつ、家老とは思えないほど、絵を描き続け次々と名品を生み出していった。文人としての生き方を通すなら、売るために絵を描くことはしないはずだが、残されている制作メモ(『紙絹画覚新帳』『松前行画扣』)には、花鳥人物山水の屏風(びょうぶ)は5両、虎は1両と記す。文政元年は、1年に114件211枚を制作している。復領運動の献金資金捻出のために、積極的に絵の注文を受けたものであろう。
21(文政4)年12月、波響58歳。幕府は、蝦夷全島を松前藩にかえすことを決定。復領後は、描いた絵に「松前波響」と誇らしく署名するようになり、祈願成就に感謝し続けながら、家老にして画人、詩人であった波響は、26(文政9)年、松前で永い眠りについた。
現在、松前城資料館で開催中の「生誕250年記念 蠣崎波響特別展」に足を運んだ。波響が愛し続けた松前の地に、初期から最晩年までの25点が帰ってきていることに感慨を深めつつ、63年の人生に思いをめぐらした。
◇
1964年、釧路市出身。「蠣崎波響とその時代展」(91年、道立函館美術館などで開催)を担当。蠣崎波響の落款などを研究する。
◇
「生誕250年記念 蠣崎波響特別展」は、松前城資料館で31日まで開催。
http://www.asahi.com/area/hokkaido/articles/MTW20140811011190001.html
●五十嵐聡美 道立帯広美術館学芸課長
■松前を愛した家老、2度も奇跡
江戸時代後期、絵を描くことで藩を守ろうと奮闘し、ついには藩を窮地から救った男がいた。それも生涯で2度も。絵が人の心を動かし、絵筆が最後には奇跡を起こす。そんな偉業をなしとげた松前の画人、蠣崎波響(かきざきはきょう)を紹介しよう。
父は、松前藩第12代藩主の資廣(すけひろ)。1764(明和元)年、福山城(松前城)に5男として生まれ、数え年2歳で家老職、蠣崎家の養子となる。少年期は、武家の子弟として当然の教養を積むため、江戸の藩邸で過ごす。絵に天賦の才があることは、周囲も認めていたのであろう。宋紫石(そうしせき)という長崎帰りの画家から最先端の細密画法を学んでいる。
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松前に戻った波響は、18歳から家老見習いとして藩政に携わるが、89(寛政元)年、藩の命運をゆるがす大事件が起きる。東蝦夷地で和人の酷使に耐えかねたアイヌが蜂起し、和人71人を殺害したのだ。中央から見れば、藩の統治能力の無さを示す失態である。策を講じた松前藩は現代のメディア戦略にも似た奇抜な案を思いつく。東蝦夷地のアイヌの首長たち12人の肖像を作成し、松前藩に服属している旨の解説を付記するというものだ。藩主が作画を命じたのは、江戸で絵を学んだ26歳の若き家老、波響。それから1年以上の歳月をかけて超細密描写による迫真の肖像を完成させた波響は、「夷酋列像(いしゅうれつぞう)」と題して、京都に運んだ。藩の思惑通り、12枚の絵は大変な評判となったが、なぜか波響は、京都で流行していた円山派の影響を受け、作風を変えてしまう。さらに、多くの文人墨客と交流するなかで、文人としての生き方に憧れを強め、漢詩の大家に教えを請い、四季の風光を清澄に謳(うた)う漢詩人としても活躍した。
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渾身(こんしん)の力をこめて「夷酋列像」を描き、藩を守ろうとした波響の苦労もむなしく、1807(文化4)年、幕府は、松前藩の北方警備への不信から、ついに蝦夷全島を直轄地とする。松前藩を格下げし、奥州梁川(現在の福島県)への転封を命じた。家老として藩政の中枢を担っていた波響は、この時、44歳。心に掲げた悲願は、ただひとつ、松前への復領であった。波響は、毎朝4時に起きて、梁川の天神社に絵を描いて奉納し復領祈願をしつつ、家老とは思えないほど、絵を描き続け次々と名品を生み出していった。文人としての生き方を通すなら、売るために絵を描くことはしないはずだが、残されている制作メモ(『紙絹画覚新帳』『松前行画扣』)には、花鳥人物山水の屏風(びょうぶ)は5両、虎は1両と記す。文政元年は、1年に114件211枚を制作している。復領運動の献金資金捻出のために、積極的に絵の注文を受けたものであろう。
21(文政4)年12月、波響58歳。幕府は、蝦夷全島を松前藩にかえすことを決定。復領後は、描いた絵に「松前波響」と誇らしく署名するようになり、祈願成就に感謝し続けながら、家老にして画人、詩人であった波響は、26(文政9)年、松前で永い眠りについた。
現在、松前城資料館で開催中の「生誕250年記念 蠣崎波響特別展」に足を運んだ。波響が愛し続けた松前の地に、初期から最晩年までの25点が帰ってきていることに感慨を深めつつ、63年の人生に思いをめぐらした。
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1964年、釧路市出身。「蠣崎波響とその時代展」(91年、道立函館美術館などで開催)を担当。蠣崎波響の落款などを研究する。
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「生誕250年記念 蠣崎波響特別展」は、松前城資料館で31日まで開催。
http://www.asahi.com/area/hokkaido/articles/MTW20140811011190001.html