NET-IB NEWS-2014年8月7日10:24
<「流球」と「阿児奈波」>
鴻臚館跡展示館内「遣唐使船の航路」図 「琉球」と「阿児奈波」 中国の史書「隋書」に「流球」と表示されていたのは台湾だ。その後、「瑠求」などと表記され、現在一般に表記されている「琉球」に落ち着いたのは「唐」「宋」「元」を経て「明」代である。台湾から鴻臚館跡展示館に来た客に聞くと、既に台湾に「琉球」表示は残ってないが、今も西南部にリゾートの島「小琉球」が残ると言う。
「流球」が台湾の事か、それとも台湾を含む島嶼部の事か、という議論が残るが、隋・唐時代の「流球」あるいは「琉球」が、今の沖縄の事ではないことは確かだ。1429年の尚巴志による統一王国「琉球国」の直前、明との交易が盛んになった14世紀には明に朝貢した沖縄地方の事を「大琉球」、台湾を「小琉球」との呼び方が生まれた。
添付地図をご覧いただきたい。台湾を「琉球」と表示する地図上で沖縄本島は「阿児奈波」と表示されている。これを「あこなは」と読むのならまだうなずけるが、一部の学者が「おきなわ」と読むに至っては牽強付会を思わせる。むしろ、今でも沖縄本島の人が自分たちの土地の事を「うちなー」と呼ぶ事の方が、古からの真実を伝えていそうである。NETでは「うちなー」が「内側・内部」を指す言葉との説明が見られるが、これなどまさに、「やまとんちゅ」からの勝手な言い分に聞こえる。
想像力を発揮していただきたい。7、8世紀の人は、「うちなー」を「阿児奈波」と聞き取り、18世紀の日本人は「うちなー」を「沖縄」と聞き取り、表記しただけの事ではないか。案外単純な事だろう…?私にはそう思える。
「阿児奈波」の初出は779年淡海三船作の鑑真の伝記「唐大和上東征伝」。これは、753年に鑑真が渡航途中に漂着した「阿児奈波島」が沖縄本島とされているのだ。
「沖縄」という表示は1719年新井白石の「南島誌」に出てくるのが初出とされる。その数年前薩摩藩の文書にも「沖縄」と出ているのだが、いずれにせよ、「沖縄」表記は当て字に過ぎない。やはり今に残る「うちなー」との音の方が古の真実に近い。
さて、琉球人もアイヌ民族と同じく、縄文時代から居住していた列島原住民で、弥生人の進出で南北に追いやられた人々である、との論調があるが、それは少し違う。アイヌのように、シベリア・白人系と混血した形跡は見られない。その代わり、源為朝(鎮西八郎)が逃れて来、琉球王家の始祖舜天になったとの正史が残るように、11、12世紀に日本列島から日本人が流入したことは否定し難いようである。言語も文化も、そうして水田稲作技術もその頃、日本から琉球に持ち込まれたようなのだ。弥生時代の到来となる水田稲作技術が、南島から来たとの論が今でも引きずられているが、そんな遺構は一切発見されていない。列島の水田稲作は朝鮮半島を通じて中国江南地方の越人が伝えたのであり、沖縄のそれは、この頃日本から南下した技術なのである。
だが、1872~1879年の「琉球処分」まで、沖縄は日本の外国であった。(つづく) 【溝口 眞路】
http://www.data-max.co.jp/area_and_culture/2014/08/12472/post_16457_ms18/
<「流球」と「阿児奈波」>
鴻臚館跡展示館内「遣唐使船の航路」図 「琉球」と「阿児奈波」 中国の史書「隋書」に「流球」と表示されていたのは台湾だ。その後、「瑠求」などと表記され、現在一般に表記されている「琉球」に落ち着いたのは「唐」「宋」「元」を経て「明」代である。台湾から鴻臚館跡展示館に来た客に聞くと、既に台湾に「琉球」表示は残ってないが、今も西南部にリゾートの島「小琉球」が残ると言う。
「流球」が台湾の事か、それとも台湾を含む島嶼部の事か、という議論が残るが、隋・唐時代の「流球」あるいは「琉球」が、今の沖縄の事ではないことは確かだ。1429年の尚巴志による統一王国「琉球国」の直前、明との交易が盛んになった14世紀には明に朝貢した沖縄地方の事を「大琉球」、台湾を「小琉球」との呼び方が生まれた。
添付地図をご覧いただきたい。台湾を「琉球」と表示する地図上で沖縄本島は「阿児奈波」と表示されている。これを「あこなは」と読むのならまだうなずけるが、一部の学者が「おきなわ」と読むに至っては牽強付会を思わせる。むしろ、今でも沖縄本島の人が自分たちの土地の事を「うちなー」と呼ぶ事の方が、古からの真実を伝えていそうである。NETでは「うちなー」が「内側・内部」を指す言葉との説明が見られるが、これなどまさに、「やまとんちゅ」からの勝手な言い分に聞こえる。
想像力を発揮していただきたい。7、8世紀の人は、「うちなー」を「阿児奈波」と聞き取り、18世紀の日本人は「うちなー」を「沖縄」と聞き取り、表記しただけの事ではないか。案外単純な事だろう…?私にはそう思える。
「阿児奈波」の初出は779年淡海三船作の鑑真の伝記「唐大和上東征伝」。これは、753年に鑑真が渡航途中に漂着した「阿児奈波島」が沖縄本島とされているのだ。
「沖縄」という表示は1719年新井白石の「南島誌」に出てくるのが初出とされる。その数年前薩摩藩の文書にも「沖縄」と出ているのだが、いずれにせよ、「沖縄」表記は当て字に過ぎない。やはり今に残る「うちなー」との音の方が古の真実に近い。
さて、琉球人もアイヌ民族と同じく、縄文時代から居住していた列島原住民で、弥生人の進出で南北に追いやられた人々である、との論調があるが、それは少し違う。アイヌのように、シベリア・白人系と混血した形跡は見られない。その代わり、源為朝(鎮西八郎)が逃れて来、琉球王家の始祖舜天になったとの正史が残るように、11、12世紀に日本列島から日本人が流入したことは否定し難いようである。言語も文化も、そうして水田稲作技術もその頃、日本から琉球に持ち込まれたようなのだ。弥生時代の到来となる水田稲作技術が、南島から来たとの論が今でも引きずられているが、そんな遺構は一切発見されていない。列島の水田稲作は朝鮮半島を通じて中国江南地方の越人が伝えたのであり、沖縄のそれは、この頃日本から南下した技術なのである。
だが、1872~1879年の「琉球処分」まで、沖縄は日本の外国であった。(つづく) 【溝口 眞路】
http://www.data-max.co.jp/area_and_culture/2014/08/12472/post_16457_ms18/