VOGUE2023年7月19日
106歳の伝説の彫り師、アポ・ワン・オドは、VOGUE最高齢のカバーモデル(フィリピン版VOGUEの表紙を飾った)として世界的に話題となった人物だ。フィリピン北部のルソン島で千年の歴史を持つ伝統のタトゥー「バトック」を、世界的なブームへと押し上げた火付け役でもある彼女がなし得たこととは?
BY AUDREY CARPIO
TRANSLATED AND ADAPTED BY TOMOKO NAGASAWA、YAKA MATSUMOTO
旧世代の最後の生き残りである伝説のマンババトック(フィリピン伝統のタトゥー・アーティスト)が住む秘境の村、ブスカランへのアクセスは、最近になってぐっと容易になった。とは言っても、首都マニラからの12時間にわたる、体がしびれきってしまうほどのロングドライブを耐える必要はある。しかもその道のりは、マニラ名物の渋滞をやり過ごしたかと思うと、コルディリェーラ山脈の曲がりくねった山道が待っており、危険なほどの濃霧の中で地すべりの跡に残されたがれきや逆方向からやってくるトラックをよける必要もある。だがカリンガ州の町、ティングラヤンにある分岐点(「ようこそ! ワン・オドが住むタトゥーの村ブスカランへ!」という文字が躍る看板が目印)から先の道は今やすっかり舗装され、車から降りて山中を歩く時間も1時間以上短縮された。今でも最後は棚田の間を縫う、ハードな登山が待っているが、ある程度の体力がある人なら、40分ほどで踏破できるはずだ。
文明の波に洗われてぐっと便利になったブスカランだが、それでもこの村がかつての姿から一変したわけではない。携帯電話の電波は届かず、家でWi-Fiが使える人の数もわずかだ。だが家々の屋根はかなり前に伝統的な草葺きから鋼板の屋根に替わり、木造の小屋は雑然としたコンクリートの建物に取って代わった。
村の変化をすべて見届けてきたある女性はまた、これらの変化が起きる大きなきっかけになった人物でもある。齢100歳を超えてなおはつらつとしたたたずまいを見せるその女性はアポ・ワン・オド、またの名をマリア・オッガイと言い、10代のころから手彫りのタトゥーを人々の肌に刻んできた。だが彼女の顧客が激増し、その評判が地元のコルディリェーラ地方を超えて爆発的に広がったのは、ここ15年ほどの話だ。今や世界中からこの村を訪れる人の数は数千人規模に達する──その誰もが、肌を刺す痛みをものともせず、すすから作られる墨と木のとげを用いた、伝統のタトゥーを刻むのだ。
村々に伝わる伝承とタトゥーが専門分野の文化人類学者、ラース・クルタク博士による聞き取り調査によると、ワン・オドが父親の指導のもと、彫り師の道を歩み始めたのは16歳のときだったという。同世代では初、かつ唯一の女性のマンババトックとして、ワン・オドは住民たちの求めに応じて遠方や近隣の村々を訪ね、先祖から伝わる神聖な文様を、人生の節目を迎えた、あるいは迎えようとする者の肌に彫ってきた。
男性にとって、伝統的なタトゥーを入れる行為は、首狩りの風習があったこの民族の兵士として正式に認められたことの証しだ。ビッキングと呼ばれる、胸部から肩を経て両腕を覆い尽くす文様が特徴的なタトゥーは、完成までに数日を要し、彫り師にも丸々と太った豚1頭や米数キロという、手厚い報酬が支払われる。女性の場合は男性とは異なり、多産の祈願や美容が主な目的となる。タトゥーを刻んだカリンガの年配の女性たちの口ぐせは「ビーズや金は、死んだときに死後の世界に持って行くことはできない。持って行けるのは体に刻んだ模様だけ」だ。
名誉や富、勇敢さの証しだったタトゥー
ワン・オドがこれまでタトゥーを施した相手は、兵士となる男性よりも女性のほうが多い。これは1900年代初頭に、首狩りの風習が当時の宗主国のアメリカによって禁じられたためだ。血に飢えた野蛮人というカリンガの人々のイメージが広まったのは、植民地時代にさまざまな民族をカメラに収めた写真家、ディーン・ウースターによるところが大きい。ウースターは1912年にコルディリェーラ地区に住む先住民の人々を撮影した写真を、ナショナルジオグラフィック誌で発表した。ルソン島北部のアメリカによる支配を正当化する意図から、彼はこの地域を「無人地帯」と呼び、先住民をエキゾチックではあるが恐ろしい人々として描いた。だが現実はこのような単純な図式で捉えられるものではない。首狩りの風習も、あくまで儀式的な戦闘の一要素で、スピリチュアルな意味合いをはらんだものだった。タトゥー文化を広めるアーティスト、レーン・ウィルケンが、著書『Filipino Tattoos: Ancient to Modern(原題)/フィリピンのタトゥー:古代から現代まで』(2010)で解説したように、首狩りの風習は対立する地域社会の間に均衡と秩序を取り戻すための儀式として機能していた。ゆえに戦士の証しであるタトゥーを彫る行為も、神聖な儀式の一環で、2年近くの年月をかけて、複数のステップを踏んで行うものだった。
当時は、タトゥーのない女性は不完全で、婚姻にふさわしくないと考えられていた。この地域には「ウラリム」と呼ばれる、村人によって唱えられる長編の叙事詩があるが、その中でも特に長きにわたり愛唱されている一編は、バンナという名の戦士が美しいラグンナワと恋に落ちるというストーリーだ。フィリピンが植民地化される前から伝わるこの物語では、タトゥーが刻まれた主人公二人の体が名誉、富、美、勇敢さの証しとして賛美される。
アメリカからカリンガにやってきたカトリックの宣教師によって学校が建設されると、村の少女たちは長袖の衣服で腕のタトゥーを隠すよう強制された。また、女性たちが街中に出かけると、タトゥーを恥ずかしく思う意識が生まれた。欧米流の美やステータスに関する概念がカリンガの文化に浸透していく中で、若い世代の間ではこの伝統を受け継ぐ女性は少なくなっていった。
失われた習慣が、アートとしてよみがえる
グレース・パリカスがタトゥーを彫る様子。現代の基準に合わせて衛生に配慮してはいるが、使われているのは先祖が用いてきたものと同じ基本的なツールだ。
カリンガの長老で、かつて先住民族に関する国家委員会(NCIP)のメンバーだったこともあるナティヴィダード・スギヤオは、フォトグラファーのジェイク・ヴェルゾーサが刊行した写真集『The LastTattooed Women of Kalinga(原題)/カリンガ最後のタトゥーを刻んだ女性たち』(2014)の序文に、「若い世代からは、伝統的なタトゥーは時代遅れで苦痛を伴うものとみられている」と綴っている。それでも「タトゥーを入れる慣習は完全になくなってしまったが、今でも重要な意味を持ち、決して忘れ去られるべきでない」と、スギヤオは主張していた。
確かにカリンガの間ではこの習慣は消えてしまったかもしれないが、ここで再び、外部勢力が影響力を発揮する。しかも今回は、バトック(フィリピン先住民のタトゥーの呼び名)の習慣をよみがえらせ、ハイブリッドアートの一形態へと変貌させるという変化を起こした。2007年にはラース・クルタク博士がブスカランで2週間を過ごし、自身がナビゲーターを務めるディスカバリー・チャンネルのシリーズ「タトゥー・ハンター」のフィリピン編を撮影した。ここで彼はワン・オドと出会う。ワン・オドは当時すでに90歳になっていたが、それでも毎日田んぼで働いていた。
マンババトックが自身の技を伝える相手は、血のつながっている者に限られている。そして、ワン・オドには実子はいなかった。そこで“また姪”(甥または姪の娘)にあたる10歳のグレース・パリカスが、弟子に選ばれた。とはいえ当初は、技術を教わることに消極的だったという。「タトゥーの技術を学んだ子どもは私が初めてでした。最初は大おばがタトゥーを入れる様子をじっと見ているだけでした」と、今では26歳になったグレースは振り返る。「大学進学のため、私が2015年に村を離れると、次はエリヤンがその技術を学び、観光客が押し寄せるときにはアポおばさんのサポート役を務めるようになりました」
私たちが今いるのはグレースの家だ。ここで彼女といとこにあたる23歳のエリヤン・ウィガンが、今朝ブスカランに到着した数人の訪問者の手足にタトゥーを入れている。その後、新たなタトゥーを入れた者たちは数軒先まで歩いて出かけ、ワン・オドに、彼女のトレードマークになっている3つの点からなるタトゥーを入れてもらう。最近では、ワン・オドが手がけるのはこの模様のタトゥーだけだ。3つの点を入れる作業は5分ほどで完了するが、ワン・オドの弟子たちの軽やかな手でより大きな柄を入れてもらったときよりも痛みは激しい。しかし遠路はるばるやってきて、生きる伝説となったタトゥー・アーティストと対面できるのであれば、多少の痛みの代償を払う者は多い。
変容しながら、次世代へと受け継がれるタトゥー文化
アポ・ワン・オドと“また姪”のグレース・パリカス。グレースはバトックと呼ばれる伝統のタトゥーにかける思いをワン・オドから受け継いでいる。
私たちは自宅にいるワン・オドと対面した。彼女は土の床に置かれた低いスツールに座り、客の腕に3つの点を入れるためのツールの準備をしていた。彼女はいつものように「一周回ってヒップに見えるおばあちゃんルック」に身を包んでいる。トラックパンツの上に厚手のボンバージャケットを羽織り、おでこにはペイズリー柄のバンダナを巻く、といういでたちだ。オッガイ家の外壁は、観光業者が資金を出した、ワン・オドの顔が描かれた防水シートで覆われていて、この場所が商業主義的な観光スポットであることを改めて思い知らされる。結局のところ、今ここを訪れる者は戦士でもなければ、結婚の資格を得ようとするバトバト族の乙女でもない。私たちのようなよそ者がこうした神聖な印を得られるのは、いわば身に余る栄誉なのだ。
前の顧客の施術が終わると、ヴォーグチームの順番がやってきた。最初にタトゥーを入れてもらうのは、フォトグラファーのアシスタントで、チームの中で唯一、ワン・オドとイロカノ語で意思疎通ができるセラ・ゴンザレスだ(ワン・オドはタガログ語も英語も話せない)。助手が片方の端に未使用の木のトゲがついた竹の棒(「ギシ」と呼ばれる)を用意し、その間、ワン・オドはすすと木炭を混ぜた墨に浸した草の葉を使って、セラの腕に模様を描く。左手にギシを持つと、右手に持ったより大きなサイズの棒で強く叩き、3つの点が塗りつぶされ、血と墨がにじんでくるまで、1分間に100回以上のペースで肌にギシを刺していく。ひととおり彫りの作業が終わると、ワン・オドはセラのタトゥーを施したばかりの箇所をウェットティッシュで拭いたのち、念のためもう一度墨を入れることにした。これには「アライ!(タガログ語で「痛い」の意味)」と声が出た。「遠くから来たお客さんには」と、ワン・オドはバトバトの言葉で語った。「私の目が見える限り、ブスカランのしるし、カリンガのしるしを施そう」
2022年の秋、グレースは夫の故郷であるフランスで数週間を過ごし、その間、いくつかのタトゥースタジオにゲスト・タトゥー・アーティストとして招かれた。こうしてグレースはブスカラン生まれの彫り師として初めて、バトックを西欧にもたらした人物になった。彼女が描く、くっきりとして整った黒いラインは実に美しく、サソリやムカデ、ヘビ、稲の束などのモチーフが組み合わされ、腕や脚を覆う大きなタペストリーが描かれる。グレースの施術を受けた一人で、ブルックリン出身の手彫りのタトゥー・アーティストは、インスタグラムのコメントで「自身にとってこれまでで最も意義深いタトゥー体験だった」との感想を綴っていた。歴史の闇に消えゆく寸前だったフィリピン先住民の習慣はこうして今、新たな肌に刻まれている。バトバトの人々の物語と彼らの信仰は、カリンガの地に育つ木から摘み取られたとげで描かれるタトゥーを通じて、今後も後世に伝えられていくのだろう。
タトゥーを彫る際には儀式が執り行われるのが、カリンガの伝統だった。この儀式はウラリムの詠唱から鶏をいけにえに捧げるものまで、多様な形をとっていた。最近では、タトゥーを彫る際にこうした儀式が行われることはまったくなくなってしまったが、グレースによれば、要望があれば行うことは可能だという。特に彫り上げるまで数日を要する大きな柄のタトゥーであれば儀式をする意味はあるだろう。とはいえ、この地と縁のない人々には、こうしたタトゥーは先祖代々の由来からは切り離されたもので、すべての人に提供されるデザインのメニューから選んだもの、という位置づけにすぎない。結果的に、私たちはタトゥーのモチーフが象徴するものを、コミュニティ全体ではなく、個々人の目を通して読み取り、自分なりの意味をこれらのタトゥーに見出していくことになる。
観光ブーム、そしてパンデミックの到来
私は今回の取材の1年前に、最初のカリンガ・タトゥーを入れたが、そのときはその絵柄の意味を詳しく教えられることはなかった。実際、それぞれのデザインの意味についてマンババトックに尋ねても、「あなたを導き、強さを与えるお守りだ」といった、あいまいな答えしか得られない。私はカニと旅人のコンビネーションを選んだ。その理由のひとつは、このモチーフに自分の家族との縁を感じたこと、そしてもうひとつはこれがオリジナルのカリンガの絵柄だと、どこかで読んで知っていたからだ。これと比べると、月と太陽の絵柄は、ワン・オドとグレースが編み出した新世代のデザインだ。あとになって、ハサミや釣り針と組み合わされたカニのデザインは、フィリピンの「ルマウィグ」という神と関連があるモチーフだと知った。複数の研究者から、ポリネシアの神話に登場するいたずら好きの英雄「マウイ」と非常によく似ていると指摘されている神だ。読者の中にはご存じの方もいるかもしれないが、マウイは「魔法の釣り針」を持っていると伝えられている。シンプルな線の裏にある深い歴史をあがめる気持ちとともに、私はまた新たな目で、自分のタトゥーを見つめている。
アポの親戚のエミリー・オッガイが、私の太ももにカニのタトゥーを入れてくれた。彫っている間も、痛みはほとんどなかった。彼女は冗談交じりに、自分の施術は「ティック・ティック・ティック」という優しいタッチだが、アポの彫りは「トック・トック・トック」という勢いだと言い、重いハンマーを振るしぐさをした。グレースやエリヤンと同様に、エミリーは新世代のマンババトックの一人だ。実はこうした彫り師は驚くほど多く、その大半は少女や成人女性だ。私が確認しただけでもZ世代のタトゥー・アーティストは少なくとも18人いた。彼らは見よう見まねで技を習得し、お互いにタトゥーを入れ合うことで技を磨いてきたという。大半は一大観光ブームが起きた2018年以降に彫り師となっている。
当時、アポにタトゥーを入れてもらおうとカリンガを訪れた人たちは一日中待ち続け、長い行列をなした。ピーク時には、ブスカランの村は1日平均で400人の旅行者を迎え入れていた。ワゴン車に詰め込まれた団体客が山中の村に押し寄せ、まるでジンベイザメが必ず見られるとうたうダイビングツアーのように、ワン・オドとの面会を保証するツアーまで登場した。家々は観光客でひしめき合い、見ず知らずの来訪者が肩を寄せ合って床で寝るような状態だった。仮にワン・オドがすべての来訪者に対して正式な儀式を執り行おうとしても、鶏の数が足りなくなっていただろう。「以前は、農業をして暮らしていました。カモテ(タガログ語でサツマイモの意)しか食べるものがありませんでした。そんな中でこの村を訪れる人が現れ始め、ご覧のとおり、観光業によってブスカランの村は大きく変わりました」と、アポの言葉を通訳する形で、グレースが話す。さらに彼女は、食べられるものの種類が増えたことや、地元の人たちがツアーガイドや観光客の滞在する民宿の運営など、新たな仕事を得たと話してくれた。「英語やタガログ語を覚えたのも、村を訪れる人たちがいたからです」とグレースは振り返る。
だがこの活況は突如終わりを迎える。新型コロナウイルスのパンデミックの最中、ブスカランの村では2年間にわたり、外部からの来訪者が完全にシャットアウトされた。村人たちには、農業に戻る以外の選択肢はなかった。グレースはこの時期について「いい面もありました。少し休むことができたからです」と振り返る。しかし私が初めて山道を登ってカリンガ州を訪れた2021年7月の時点で、ワン・オドが自宅で休んでいたかというと、そんなことはなかった。彼女は新型コロナの規制が比較的緩めの近隣の別の村に逃れていた──そこまでして彫り師の仕事を続けたかったのだ。
ワン・オドの姿をかたどった巨大な黄金の像の下で、私は彼女を見つけたのだ。そして、胸をはだけ、両腕を差し伸べるポーズを取るこの像の下で、私は腕に3つの点のタトゥーを入れてもらったのだった。
ジェイク・ヴェルゾーサは、ワン・オドに最初にタトゥーを彫ってもらったときのことを振り返る。それは2009年のことで、報酬はブラウンシュガーとポスポロ(タガログ語でマッチの意)で支払ったという。「ワン・オドが何時間もタトゥーを彫って疲れてくると、グレースが後を引き継いでいました」と、ジェイクは私に話してくれた。実際、彼の手首に入っているタトゥーは、端の線に震えが見られる。グレースは当時まだ13歳だったはずだが、「彼女が描くラインはとても確かだった」という。カガヤン州の州都であるトゥゲガラオで育ったジェイクは、学校の近くでタトゥーの入った年長者の姿を見ることもあり、ブスカランの噂もよく聞いていたという。2009年当時は簡単にたどり着ける場所ではなく、ワン・オドがタトゥーを彫る相手も、偶然この村にたどり着いた外国人が大半だった。その後、ジェイクは3年を費やして、カリンガの年長の女性たちからなるポートレイトシリーズを完成させた。ジェイクが撮影したワン・オドのアイコニックな白黒写真は世界各地で展示され、今ではそのさまざまなバリエーションを、ブスカランの村のあちこちで見ることができる。
ワン・オドへの非難に思う、伝統文化の“守り方”


ワン・オドの肌には成功や病気、はるか昔に世を去った恋人まで、彼女の人生の物語が刻まれている。
ワン・オドの顔はTシャツからコーヒーのパッケージに至るまで、ありとあらゆる商品に登場し、それはブスカランの村だけにとどまらない。これが彼女自身の実直さや自分が属する文化を伝えたいというまっすぐな思いからのことなのかは、私にもわからない。だが、過去に、その行動が伝統文化の搾取にあたるとして非難の的になったことは何度かあり、そのうち数回は先住民族の知的財産権を守る務めを担う、NCIPが介入する事態となった。
こうした問題を議論するウェビナーで、社会人類学者のアナリン・サルバドール=アモーレス博士は、かつてその土地に根付いた儀式だったものが、商業活動へと変貌していると指摘した。「文化は希少性のある商品となっており、他者によって暴力的に収奪されている」と博士は述べ、さらにこう続けた。「文化の持ち主は誰か? と問うのではなく、大衆社会の中で土着の文化と先住民による自己表現を敬意ある形で取り扱うためにはどうしたらいいのかを議論するべきだ」
この2月に106歳になったワン・オドは、存命のマンババトックの中では最高齢だが、決して最後の彫り師ではない。彼女が彫る3つの点はそれぞれアポ、グレース、エリヤンを表現すると同時に、そのシンプルな点にその起源を超えて受け継がれる、無限の伝統を象徴する意味合いが込められている。太平洋を挟んだアメリカでは、レーン・ウィルケンやナタリア・ロクサスといったタトゥー・アーティストが儀式的なタトゥーであるバトックの伝統を広めようと活動しており、先祖のシンボルをその身に刻むことで伝統文化とのつながりを得たいと願うフィリピン系アメリカ人の心の支えとなり、癒しをもたらしてきた。
フィリピンの他の地域でも、南部ミンダナオ島のブキドノン州でタトゥーを彫るパイパー・アバスが、パティックと呼ばれる、ビサヤ諸島やミンダナオ島の伝統的なタトゥーの復活に取り組んでいる。長い歴史を持つ先住民のタトゥーを入れるフィリピン人も増えており、植民地的な美の基準からの脱却、自分の身体の所有権の奪還、自身のルーツや自我とのつながりの回復に向けたひとつのステップと見られている。
文化は収奪ではなく、正当な表象によってこそ生き残るものだ。私の脚に刻まれたカニのタトゥー、そしてフォトグラファーのアルトゥ・ネポムチェーノの腕にワン・オドと彼女の愛弟子二人によって刻まれたばかりの3つの点は、私たち自身の血がつながった祖先から継承した文化ではないかもしれない。それでも自分の体に刻み込まれた消えないタトゥーによって、私たちはタトゥー文化を生きながらえさせてきた最後のフィリピン先住民コミュニティとのつながりを得た。フィリピン諸島の他の地域では、植民地主義の浸透とともに消え去った文化だ。これから、私たちはこのしるしとともにこの世界で生きていくことになる──タトゥーを入れるまでは必要だと気づきもしなかった「人を導き、強さを与えるお守り」の力を得ながら。
Photos: Artu Nepomuceno Text: Audrey Carpio Producer: Anz Hizon Production Assistants: Jojo Abrigo, Marga Magalong, Renee De Guzman Photographer’s Assistants: Aaron Carlos, Choi Narciso, Sela Gonzales Special thanks to the National Commission on Indigenous Peoples Translation: Tomoko Nagasawa
https://www.vogue.co.jp/article/apo-whang-od-and-the-indelible-marks-of-filipino-identity