武将ジャパン2024/07/23
日露戦争直後の北海道を舞台にした大人気作品『ゴールデンカムイ』。
14巻終盤から本作の舞台は「樺太」へと移動し、15巻からはこの土地を旅する杉元ら先遣隊の足跡を追うことになります。
日露戦争後に日本領となったこの地は、北海道と似ているようで、異なる場所でした。
・北海道より降雪が早い
・ヒグマだけではなくクズリという猛獣が存在する
・住民は、日本人だけではなく、樺太アイヌ、ロシア人らが含まれる
・特産品はフレップワイン
猛者である杉元すら「樺太やばいな」と連呼する“未知の場所”でした。
現在はロシア領となった樺太ですが、明治時代初期までは日本の領土。日露戦争後は南のみ日本領に復帰するものの、太平洋戦争の最中に奪われていきました。
では日本領であったころ、樺太の人々はどんな暮らしをしていたのか。
本稿では南樺太の歴史を振り返りたいと思います。
※よろしければ、以下、樺太の歴史と合わせてご覧ください。
ロシアから圧迫され続けた樺太の歴史 いつから日本じゃなくなった?
日露戦争で取り戻した南樺太
そもそも江戸幕府が樺太を意識し始めたのは、いつ頃なのか?
ロシアが進出してきた江戸時代の後期頃からでした(以下、関連記事)。
江戸・明治時代の日露関係はアイヌを見落としがち~ゴールデンカムイで振り返る
当時の幕府は、ロシアとの交渉をとにかく先延ばしにする外交方針。
煮え切らないその対応に苛立ったロシアは、クシュンコタン(のちの豊原・現在のユジノサハリンスク)を襲撃します。
ロシアにとって樺太は“不凍港”を持つ魅力ある島でした。
こうした動きを警戒し、警備に当たったのが会津藩や仙台藩など奥羽の有力諸藩です。
間宮林蔵に探険を行わせたのも、このあとのことでした。
黒船来港以来の幕末期にも、北蝦夷と呼ばれた樺太最南端の警備を奥羽諸藩が担当していましたが、戊辰戦争により、奥羽諸藩はそれどころではなくなってしまいます。
そして明治新政府の発足。
蝦夷地は北海道となり、開拓が始まりました。
樺太も開拓すべきという意見があったのですがが、明治3年(1870年)、イギリスが強引に干渉してくるのです。
「樺太なんて、古船一艘の価値もない土地です。ロシアにくれてやればいい」
西郷隆盛や、幕臣出身でアイヌとも交流のあった官吏がこれに反発。
しかし新政府は押し切られてしまいました。
こうしてロシア領にされた樺太。日露戦争で日本軍が樺太に攻め込み、快勝をおさめます。
ロシアは樺太を占領していたものの「囚人の島」と呼ばれたほどの扱い。
革命前夜であり、政情は不安定でした。
帝政ロシア・ロマノフ朝が滅亡しロシア革命が起きるまで
樺太を死守する気はさらさらないロシアと、奪還に意欲を燃やす日本。モチベーションの時点で、かなりの差があったのです。
「樺太の戦い」は日露の最終戦 サハリンの地図が南北に切れている理由
しかし日露戦争は、日本の勝利とはいえ、実態は薄氷を踏むようなものであり、賠償金も領土も、日清戦争より少なく、国内には不満が渦巻きました。
ロシアを相手にポーツマス条約が結ばれ日比谷焼打事件が勃発した
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そんな中、なんとか得られた南樺太です。
実に貴重な獲得領土でした。
銭湯の客「兄ちゃんたちが戦ってくれたから 日本は南樺太を取り返せた おかげでこの港町はこれからもっともっと栄えるだろう 本当にご苦労様でした」
杉元「……儲かるのは商人だけだろ」
(『ゴールデンカムイ』1巻3話)
マンガ『ゴールデンカムイ』の中で、杉元は銭湯で客とこんな会話を交わしますが、それは、こうした状況を踏まえたものです。
このときまさか、自分が樺太に行くとは思いもしなかったでしょう。
杉元一行がたどり着いた南樺太。そこは、古船一艘どころではありません。
商人以外もたんまり利益を得ることのできる、豊かな島でした。
杉元が訪れた頃は、樺太民政署が樺太庁に変わった頃と同時期と推察されます。
日本による統治が、進んでいった時期でした。
魚介類が豊富! ニシンが取れる
『ゴールデンカムイ』4巻収録。
37話から登場する辺見和雄は「ヤン衆」の一人です。
「ヤン衆」とは、北海道で盛んだったニシン猟に従事する、季節労働者のことです。
東北地方出身者が多く、辺見のようなおたずね者でも紛れ込みやすい労働現場でした。
当時の北海道でニシンは、猫でもまたぐ「猫またぎ」と呼ばれたほど。魚が好きな猫すら食べないほど、ニシンが大量に捕獲されたという意味がこめられています。
あまりの量の多さから、食料ではなく燃料として用いられたほどでした。
辺見のようなヤン衆が向かった先は、北海道だけではありません。
南樺太が日本領となると、まず注目を集めたのはその豊富な漁獲量であったのです。
南樺太が日本領となる前の明治20年代(1890年代)頃から、日本人漁業者が樺太へ進出。ロシア側でも、彼らに漁場を開放することが利益につながると考えるようになります。
漁獲されたニシンは、辺見の妄想でもおなじみの圧搾機「角胴」で肥料「鰊粕」にされ、日本に向けて送られます。
また昆布は、清国向けの輸出品として重視されておりました。昆布はアイヌ語由来の単語で、古来より北の味として和人に珍重されてきました。
清国が欲しい海産物としては、乾燥ナマコもあげられます。「海参(ハイシェン)」と呼ばれる乾燥ナマコは、中国料理の高級食材です。
こうした漁業は「薩哈嗹島漁業(サハリン島漁業)」、短縮して「薩島漁業」。
彼らは日本とロシア政府の狭間にありながら巧みに立ち回ります。
そんな状況ですから、南樺太が日本領となり、「薩島漁業」から「樺太漁業」に転換したことは、非常に喜ばしいことでした。
故郷でじっとしているよりも、漁業で発展する北海道や樺太で稼ぐ方がよい――。
東北地方の人々は、こうしてヤン衆となったわけです。
樺太漁業の行き詰まり
「樺太に行けば、鮭が食い放題で金もごっそり稼げるぞ」
ヤン衆の中には、そんな業者の甘言に釣られ、親の目を盗み実印を押す若者もいたのだとか。
『ゴールデンカムイ』12巻収録第114話では、アイヌのコタン(村落)が飛蝗(こうがい・バッタなどによる災害)により大打撃を受けます。結果、コタンに住むアイヌのキラウシは、和人の元で出稼ぎをすることになりました。
当時は、北海道のみならず樺太でも、アイヌやニヴフといった原住民たちが漁場で出稼ぎをしていたのです。
ただし、出稼ぎ労働者としての生活はバラ色ではありません。
劣悪な条件と寒冷な環境で酷使され、脱走を起こす労働者もおります。
不衛生で医師もいない労働現場では、病人も続出。あまりに劣悪な食事のため、彼らの間では脚気が蔓延し、集団逃走がしばしば起こったほどです。
時代が降ると、彼らは逃走とは別の手段で訴え出ます。
雇用主に訴え出たのです。
「こんな劣悪な労働環境じゃ働けない!」
「何の実入りもないようなもんだ!」
訴えるだけではなく、事務所を破壊することも……こうした労働者の蜂起以外にも、問題がありました。
北海道のニシン漁は、あまりの乱獲が祟り、昭和を迎えた頃から急激に数が減っていきます。当時の北海道や樺太でも、さすがにこれはやり過ぎではないか、と不安視する声があったのです。
さらに杉元らが樺太に渡った明治40年(1907年)頃ともなると、肥料業界に変動が起こり始めました。
満州鉄道を用いて、満州から安価な豆粕が輸入され始めたのです。
化学肥料も増加しています。
肥料としての鰊粕は、重要性が低下してゆきました。
・出稼ぎ労働者の反発
・ニシンの枯渇警戒
・肥料としての鰊粕の地位低下
こうした条件が重なり、南樺太では“次の産業”が求められることになりました。
パルプ生産一大地
杉元らは旅の途中、樺太の森林を通ります。
ヒグマのみならず、クズリにまで襲われてしまう一行。あの描写を読んでいると、樺太やべえ、森怖え、と思ってしまいます。
しかし、この森林こそ樺太の資源でした。
樺太の原住民は森林と共生して過ごしておりました。
ロシアによる支配中も、せいぜい燃料にする程度しか、森林は伐採されてません。
そのため日本が南樺太を手にしたとき、広大な森林が残されておりました。
樺太庁は明治43年(1910年)に「林産物大口売払内規」、翌明治44年(1911年)には「樺太森林原野産物特別処分令」が施工されます。
樺太で森林を伐採し、パルプ生産を開始するということです。
当時は、時代の状況もこれを後押しします。
ヨーロッパを巻き込んだ第一次世界大戦による輸出増加。
関東大震災の復興需要。
時代の要請に応えたのが、樺太のパルプです。
王子製紙の工場は9カ所に及び、現代でも7カ所の跡地が確認できるほどの隆盛となりました。
なお、こうした林業等に従事する季節による出稼ぎ労働者は「ジャコジカ」とか「ジャコ」と呼ばれました。
アシリパの父・ウィルクも、かつてそう呼ばれていたことがのちに判明します。
皆さんのご想像どおり、こうした林業は、環境破壊をもたらしかねないものです。
伐採すれば、それまで覆われていた地面が露出し、どうしたって環境に影響を与えてしいまいます。
かくしてパルプ産業が始まってから、大規模な森林を枯らしてしまう虫害が発生。山林火災も起こりました。
樺太庁は森林保護対策を取りましたが、それでも盗伐、誤伐といった計画外の森林消費は防ぎきれません。
林業は、樺太経済の大動脈となりました。
環境保護が大事といえども、こうなってしまっては中々セーブが利かないものです。
長いこと人の手が入らなかった、樺太の森林や、その環境は、日本領となることで大きく変化してしまったのです。
またパルプ工場は、大量の電力も消費しました。
そうなると必要とされるものが、発電所とその燃料です。
大正2年(1913年)、パルプ生産と並行して、樺太での炭坑が開封。
それまで樺太の石炭は保護のため封鎖されていたのですが、パルプ工場の発展は、樺太での炭坑だけでなく鉄道網整備も進めることになりました。
魚を捕り、森林を伐採していた樺太の生活風景が一変し、鋼業と工業へと変貌していったのです。すると……。
戦時体制での苦難
パルプを生産し、石炭を掘り、日本の経済を支えた樺太。
しかしその扱いは、公正とは言いかねるものでした。
島民の参政権は認められず、投票できる範囲は町村制度のみです。
国の中央に樺太の声を届けるためには、他の地方から樺太事情に詳しい政治家が議員となることを応援するしかありません。
樺太は、内地(日本)と外地(本土以外の日本領土である朝鮮半島や台湾)の中間にある位置づけでした。
政府中央は、樺太の工業や資源を期待するものの、支援や投資は限られたものです。
「犠牲的精神で日本に尽くせ」という傾向で、中央から一段低い冷たい目で見られていました。
そんな樺太は、戦時中の昭和17年(1942年)内地に編入されることになる一方で、厳しい目が浴びせられます。
樺太では稲作が出来ず、輸入米に頼っておりました。
しかし、日中戦争、そして太平洋戦争が始まると、日本列島全体が食料難に陥ります。
樺太では、農業生産よりも手っ取り早く現金を得られる林業が発展しておりました。これを転換し、自給自足せよとの方針転換が迫られたのです。
エンバクのようなものを食べて生きてゆけ、と樺太の島民は勧められたのでした。
昭和15年(1940年)に赴任してきた長官・小河正儀は失言を連発しました。
「そもそも樺太では食料を消費しすぎである」
「よく噛めば半分の量で済む」
侮蔑的な言葉に、島民は反発を見せたのです。
こうした危機感の中で、樺太では食料増産、備蓄を進めました。
昭和20年(1945年)8月のソ連侵攻時、樺太には8ヶ月分の備蓄食料があったほど。食料不足への危機感が、こうした備蓄を生んだのでした。
林業も、戦時下では変貌します。
パルプではなく、針葉樹林から絞った針葉油が生産されるようになっていったのです。
石炭も増産され、本州へ運ばれてゆきました。
資源提供源として期待される一方で、食料すら自力でまかなうしかない――それが戦時下の樺太でした。
失われた樺太
太平洋戦争が末期に入ってゆくと、日本政府は終戦を望むようになります。
昭和19年(1944年)、サイパンで日本軍が大敗、内閣は水面下で和平を検討し始めます。
仲介者として、ソビエト連邦へ目を向けられるようになりました。
その際は、見返りとして南樺太を譲渡する――そんな案が、進められていたのです。
日本がソ連に期待した根拠は「日ソ中立条約」にありました。
しかし、これを過剰に頼りにしたことは、さすがに甘かったのではないか?と思われる点もあります。
当時、ソ連を侵攻したナチスドイツと日本は同盟国。敵の敵は味方どころか、日本は敵の味方と言えるわけです。
ポツダム宣言にスターリンが署名しなかったことも、米英と対立しているのだと、日本政府を安堵させました。
ところが実際は、独ソ戦争を終えた後、スターリン以下ソ連が、極東へ侵攻する手はずを着々と進めていたのです。
昭和20年(1945年)、それまで比較的平和であった樺太にも、戦火が迫り始めました。
2月頃から、米艦が流氷の切れ目に出現。
5月29日「天嶺丸」、6月15日「第一札幌丸」が魚雷により撃沈されます。浜辺には「USA」と書かれた袋も流れ着き始めました。
7月2日、海豹島が米軍の砲撃を受け、海軍兵士5名が死亡します。
そして、これを皮切りに、米軍による砲撃や鉄道への地雷設置がなされるようになったのです。18日には「宗谷丸」が撃沈され、150名以上が犠牲となりました。
北樺太の国境付近でも、ソ連軍の動きが目撃されるようになりました。
海からはアメリカ。
陸からはソ連。
樺太にいた第88師団は、混乱するばかりです。
アメリカとソ連、どちらに備えるべきか?
ハッキリした命令は伝わらぬまま、結局、彼らはソ連の侵攻を迎えることとなりました。
そして8月11日。ついにソ連軍が国境越え。
彼らが自動小銃や大砲で武装していたのに対して、日本軍はわずかな小銃や機関銃、空き缶や瓶で造った手榴弾しかありません。
どうにか半日以上は持ちこたえたものの、国境は破られてしまいます。
8月15日。
日本本土で玉音放送が流れても、樺太の戦争は終わりません。
住民たちは、女性までもが義勇軍を組織させられることもありました。老人や女性と子供から避難が始まりましたが、取り残される人も大勢おります。
逃げ惑う人の頭上には、空爆が容赦なく降り注ぎますした。
逃げるために、足手まといとなる我が子を捨てる親。年老いた親を置き去りにする子すらいたほどでした。
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8月25日、ソ連が大泊を占領し、宗谷海峡が封鎖されました。
樺太の戦争は、こうして終わりを告げたのです。
逃げ切れずに残された人々もおりました。
シベリアの強制収容所まで連行されて、抑留された人も少なくない状況(シベリア抑留)。宗谷海峡封鎖後、密航して帰国できた人もおりましたが、全員がそうではありません。
終戦後、日本領南樺太からソ連領サハリン州なったこの地では、日本人が無国籍者として暮らすこととなりました。
公式引揚げと戦後
昭和21年(1946年)10月。
サハリン州民政局により、公式の引き揚げが始まります。それまで日本人は収容所に収監され、苦しい生活を送ることとなりました。
結局、この公式引き揚げは、昭和24年(1949年)まで続けられました。中には、帰国できなかった人々もおります。
病気に罹る等、様々な事情で残らざるを得なかった人々。
日本国籍を取得できなかったニヴフ、ウイルタの人々。
そして、朝鮮半島の人々です。
南樺太には、朝鮮半島出身の人々が多数おりました。
林業や炭坑採掘のために連れて来られた人もいれば、出稼ぎのためにやって来た場合もありました。
かように南樺太は、日本人のみならず、樺太アイヌ、ニヴフやウイルタといった先住民、朝鮮人、ロシア人と、様々な民族が入り乱れて発展してきた島なのです。
混乱と暴力の中、命を奪われてしまったのも、日本人だけではありません。
そして戦後。
残留した日本人と朝鮮人が結婚する例が、サハリンでは多く見られました。
現在でも、逃げられなかった日本人の子孫が、日系ロシア人としてサハリンに在住しています。
朝鮮系ロシア人はさらに多く、コミュニティが形成されております。
サハリンでは、コリアン料理店や食材が人気を集めているほど。絵葉書には、日本風の建物が印刷され、神社や製紙工場の跡が残されています。
それはこうした歴史をふまえたものだったのです。
エノノカのような樺太アイヌ。北方領土にいたアイヌは、敗戦により大きな打撃を受けました。アイヌは日本国民とみなされます。しかし樺太や北方領土はソ連領とされたため、生まれ故郷をあとにするしかなかったのです。
政治に翻弄され、故郷を失ったかれらの苦難を思うと、やりきれぬ思いがこみあげてきます。
★
最盛期、日本国籍を持つ人々が、実に40万人も暮らしていた――南樺太。
漁業や林業で、日本に資源を提供し続けた場所でありながら、戦争下では見捨てられたような扱いを受け、悲劇が起こっています。
そのことだけではなく、現在、樺太の存在感が日本で低いことも、虚しさを感じてしまいます。
『ゴールデンカムイ』は、そんな樺太を主人公たちが冒険する土地に選びました。
これをきっかけに、読者を中心として、樺太への関心も高まることを、切実に願います。
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