集英社 2024.11.25
現在、実写ドラマが放送され注目を集めている『ゴールデンカムイ』。同作には多くの名場面がありますが、ちょっとしたアイヌ文化の知識があると、より深く楽しめるようになることは間違いありません。
今回はドラマ第4話で初めて登場する謎めいたアイヌの女性、インカㇻマッに注目します。実はこのキャラクターの名前を付けたのは、アイヌ語監修を務める中川裕氏だったとのこと。同氏による新書『ゴールデンカムイ 絵から学ぶアイヌ文化』より一部を抜粋してお届けします。
インカㇻマッの名前の由来
インカㇻマッは私の考えたオリジナルな名前ですので、実のところ一番愛着のある名前です。ただ、この名前を考えた時点では、「ゴールデンカムイ」がアニメ化・実写化されるなどとは思ってもいませんでした。
『ゴールデンカムイ』7巻60話より(🄫野田サトル/集英社)
日本語のせりふの中でこの名前が入ってくると、アシㇼパやキロランケと違って、最後が「ッ」、つまり日本語にはないtの音で終わっている名前ですので、「インカㇻマッが」とか「インカㇻマッを」のように言おうとすると、非常に言いにくいのです。
アニメで彼女の名前を呼ぶ機会が一番多かったのは、谷垣役の細谷佳正さんだったので、だいぶ苦労したようです。一方、白石は終始「インカㇻマッちゃん」と呼んでいて、これは日本語の「マッちゃん」と同じ発音になるので、白石役の伊藤健太郎さんは非常に言いやすくて助かったようです。
なお、23巻231話でお産のシーンになった時、オソマのお母さんが「フチは歳の頃からお産を助けてる、百戦錬磨のイコインカㇻマッ(とりあげ女)なのよ」と言っています。このイコインカㇻマッとインカㇻマッが言葉として似ているのは偶然ではなく、ちゃんと関係があります。
インカㇻは「見る」という意味の自動詞。アイヌ語で自動詞と他動詞ははっきり区別されていて、同じ見るでも見る対象がはっきり決まっている場合は、他動詞のヌカㇻという形を使います。
それに対して、あらかじめ見る対象が決まっていない、つまり見てはじめてそこに何があるのかを知る場合は自動詞のインカㇻの方を使うのです。
インカㇻマッは未来に起こることや、行方不明になったもの、見ることによってはじめてそれがどういうものであるか、どこにあるかがわかるようなものを見通す力を持った女性ということで、そういう名前を考えました。
前著『アイヌ文化で読み解く「ゴールデンカムイ」』で説明したように、昔のアイヌは子供がある程度大きくなって、個性がはっきりとわかるようになってから、はじめて名前をつけました。だから、彼女も小さな頃からそのような能力で人を驚かせていたので、それで親がそのように名づけたという設定です。
そしてイコインカㇻマッの方ですが、コは「〜に向かって」とか「〜に対して」という意味で、コインカㇻは何を見るかは確定していないが、どこを見るかは決まっているということを表します。そのため「〜を見守る」と訳されます。
イはイオマンテのイと同じで、本来は漠然と「モノ」一般を表しますが、言わなくてもわかっているものを指すこともあります。この場合は後者で、イコインカㇻは「例のものを見守る」ということから、「お産を見守る」=「産婆する」ということになるわけです。
巫者(トゥスクㇽ)とは何者か
トゥスクㇽというのは、トゥス「巫術(ふじゅつ)を行う」クㇽ「人」という意味で、『ゴールデンカムイ』の中では、インカㇻマッがこのトゥスクㇽとして描かれています。
これは仕事というわけではなく、自分でなろうとしてなるものでもありません。トゥレンカムイ「憑き神」によって、「なってしまう」ものです。その憑き神は多くの場合は蛇ですが、『アイヌの民俗』(上、133頁)には「蛇だけでなく、熊、小蝦夷鼬(こえぞいたち)、蜂、蝙蝠(こうもり)などであり」と書かれています。
コエゾイタチというのは、日本語ではイイズナともいうイタチ科の小動物で、同じイタチ科のオコジョ(こっちはエゾイタチともいう)とともに、アイヌ語で「サチリカムイ」などの名で呼ばれるものです。
子供の頃に雷に打たれて、それ以来トゥスを行うようになったという人の話も聞いたことがあります。この人の場合はカンナカムイ「雷」が憑き神になっているということですね。
トゥスクㇽがトゥスを行う時は、普段は人間の心の奥にいる憑き神が表面に出て来て、そのトゥスクㇽの心と体を支配し、その口を借りて託宣(たくせん)を行います。多くの場合は病人の病気の原因を探り、その治療法を告げたりします。
この託宣を行っている間はいわゆるトランス状態で、本人は何を言ったか覚えていないということが多いようなのですが、自分の意識を保ったままでも、いろいろなことができる人もいます。
たとえば、インカㇻマッが23巻227話などで披露している、相手の未来を見たり、遠くで起こっていることを見通したりする、いわゆる「千里眼」にあたるウエインカㇻや、10巻96話で超能力者である三船千鶴子の居場所を当てるのに使った、行方不明になった人や物の場所を体全体で感じて告げるイフミヌなどがそれで、インカㇻマッにこの能力があるということは、本物のトゥスクㇽということになります。
トゥスクㇽには女性だけがなるというわけではなく、『アイヌの民俗』(上、133頁)には「男でも巫術をする者があり、とくに東方系(メナㇱウンクㇽ)の中に見られ、阿寒では近年までやる人があった」とあります。メナㇱウンクㇽというのは「東の人」という意味で、日高東部から釧路・根室あたりまでの人を指します。
しかし同書ではその一方で、「樺太でも北海道でもアイヌの巫術は女性が主で」(132頁)と書いてありますし、『アイヌ民族誌』(483頁)でも「なおツ゚スグル【トゥスクㇽのこと】はたいてい女がすることになっている」としています。私自身も女性の話しか聞いたことがありません。
英雄叙事詩の中に登場するトゥスクㇽも基本的に女性ですが、お話の中の世界だけあって、さらにすさまじい能力を持っています。
たとえば、死んで骨だけになった人間に息を吹きかけて蘇生させたり、家の中に居ながらにして、はるか海の向こうから攻めて来る大船団を、大風を起こして吹き戻したりする人物がいたりします。
極めつけが、金成まつさんの語る「虎杖丸(いたどりまる)の曲」という物語に登場する虚病姫(ニサプタスム)で、主人公ポイヤウンペの一族が毒使いに皆殺しにされたのを、彼女は海の彼方にある自分の国から見通し、毒で死んだ者は生き返ることができないと言われているのに、あの世に行こうとしているその魂をかき集めて、全員生き返らせます。
しかもそれを自分の家で仮病(けびょう)を使って寝たふりをしながら(だから虚病姫というあだ名をつけられています)、魂だけ抜け出してやってのけるという、ちょっとチートすぎる能力の持ち主です。
インカㇻマッが使う「シラッキカムイ」とは何か?
インカㇻマッは7巻60話で初登場しますが、その時からよく占いの道具として使っているシラッキカムイというものがあります。これは動物や鳥の頭骨を、ヤナギなどの木から削り出したイナウキケという「削りかけ」でくるんだもので、持ち主の守り神となるものです。
一見、2巻12話でヌサ「祭壇」に祀られている熊の頭骨と同じようなものに見えますが、実は熊の方は、その魂をカムイの世界に送り返してしまっていますので、頭骨自体はその抜け殻にすぎません。
それに対して、シラッキカムイは魂を送り返さずにイナウキケで包んで、家の一角に大事にしまっておくものです。つまり魂がその頭骨の中に居続けているので、直接的な力を所持者に与えることができるというわけです。
インカㇻマッはキツネの下顎の骨を頭に載せ、それを下に落として、その時の骨の向きで占いをします。この占いのやり方自体は北海道全域にあるのですが、実はキツネの骨を使うのは北海道の西側のやり方で、東側ではイトウやイトヨといった魚の下顎の骨を使って同じことをします(『コタン生物記』299頁、『アイヌ民族誌』615頁)。
更科源蔵(さらしなげんぞう)氏は「特に下顎を使うのは、下顎がはずれると話せなくなるので、特別の力があると信じていたようである。なんど殺されても生き返る魔物も、下顎を失うと再生の力を失う物語がよくある」(『アイヌの民俗』上、135頁)と言っています。
またシラッキカムイと呼ばれるものはキツネに限りません。アホウドリの頭骨を同じようにイナウキケでくるんだものも、シラッキカムイと呼ばれます。キツネをキムンシラッキ「山のシラッキ」、アホウドリをレプンシラッキ「沖のシラッキ」と呼ぶこともあります。
ウミガメもまたこのような形でしまっておき(12巻114話)、日照りが続く時に、雨乞いに使われました。もっともそのやり方は、川の中に棚を作ってその上に上げておき、「ここまで水を呼ばないと、いつまでもそのままにしておくよ」という、つまり脅迫して雨を降らせるというものでした。
いささか乱暴ですが、アイヌはカムイを自分たちよりはるか上位にあるものと見ているわけではないので、このようなやり方でカムイと駆け引きすることはよく見られます。
こうしたものとはまた別に、チコシンニヌㇷ゚と呼ばれるお守りがあります。ウパㇱチロンヌㇷ゚「オコジョ」などの、めったに捕まえられない動物を捕まえた時に、それをやはりイナウキケにくるんで、誰にも言わずに箱の底の方などにしまっておきます。そうすると災いを避けたり、いいことが起こるといわれています。
この場合も魂をカムイの世界に送ったりなどしないで、自分のそばで見守ってもらうわけです。
中川裕