音楽コーナーで本を漁っていたら「・・殺した」なんて、物騒な表題が目に入ったのでつい手に取ってみた。
ベルリンフィルの常任指揮者として音楽界に君臨し帝王とも称されて絶大な権力を振るった「ヘルベルト・フォン・カラヤン」(1908~1989)が亡くなってからもう30年余が経った。
古来「人の評価は死して定まる」とあるが、現在クラシック愛好家の間で「カラヤン」という名前から連想されるイメージとはどういうものがあるんだろう・・。
もちろん ”人それぞれ” だが、この場合演奏の良し悪し云々というよりも、感情的な面から「好き」か「嫌い」かと単刀直入に問いかけた方が適切のような気がする。
で、「嫌い」という中には当時のあまりの人気の高さゆえに、クラシック音楽に似つかわしくないポピュリズム(通俗性)に対して苦々しいイメージを連想される方もいるのではあるまいか。実は自分がそう・・。
たとえば、一曲通しての演奏よりも以前に「アダージョ カラヤン」というCDがよく売れたそうだが、ああいったヒーリング向きのハイライト盤みたいなのがピッタリ合っている感じ。
もちろん、これはあくまでも主観的な見方なので「そんなはずはない、そもそもお前の聴き方が悪い」という意見があっても当然で音楽鑑賞にルールはないし、どんな感想を抱こうと個人の自由。
因みに現在、カラヤンが指揮したCDをどのくらい持っているのか調べてみたところ、膨大な録音をしている割には意外と手持ちが少ないのに改めて驚いた。やっぱり「カラヤン嫌い」を反映しているといえそう。
1 チャイコフスキー 交響曲第六番「悲愴」
2 モーツァルト 「大ミサ曲ハ短調 K427」
3 モーツァルト 「クラリネット協奏曲 K622」「交響曲第39番 K543」
1は音楽評論家の評判が良かったし、チャイコフスキーの楽風となら相性がいいかもと思って購入したもの。
2は曲目が好きなのでいろんな演奏者を物色したがピタリとはまる演奏がなかったのでやむなく消去法で選択したもの。
3はカラヤンの若い頃は一体どういう演奏をしていたのだろうと1946年と1949年の録音をあえて買い求めたもの。
そのほかモーツァルトのオペラ「魔笛」については「収集狂」なので彼が指揮した1950年盤、1953年盤(ライブ)、1974年盤(ライブ)、1980年盤と4つの版を保有しているがこのうち一番のお気に入りは1950年盤(アントン・デルモータの快唱!)である。
盤が新しくなればなるほど冴えなくなってくるのが不思議(笑)。因みにこの1950年盤はピンチヒッターで指揮棒を振ったもので皮肉にも彼の個性を発揮しようにもできなかった盤だ。
さらに追い討ちをかけるようだがベルリンフィルの旧楽団員(コントラバス奏者のハルトマン氏)が「カラヤンは没後まだ20年も経たないのに忘れられつつあるような気がする、それにひきかえフルトヴェングラーは没後50年以上も経つのに・・・」とのコメントもある。
さて、前置きが長くなったがカラヤンへの個人的な感想はこのくらいにして冒頭に戻って肝心の著書「カラヤンがクラシックを殺した」に移ろう。
著者は國學院大學文学部教授で「宮下 誠」氏。ご専攻は20世紀西洋美術史が中心。本書の「巻頭言」をそっくり引用させてもらう。
「20世紀のある時点で、クラシック音楽は見紛うことなく、一つの”死”を経験した。その”死”は人類という種の、今日における絶望的状況の一断面を鮮やかに浮き彫りにする。
このような事態を象徴的に体現したもののひとりが、ほかならぬ、指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤン、その人である。彼、あるいは彼を取り巻く状況は、時代の病理を理想的に映す鏡である。私たちは、そこに己の姿を映し、見つめ、考えなければならない。」
みなさん、この文章を読んでみて意味が分かります?
率直に言って自分はこういうご大層な御託を並べた文章が一番苦手である。大嫌いと言ってもいい。この調子で本書は延々と展開されていくのだがとうとう内容がきちんと把握できないままに終わった。
どうやら著者は指揮者のオットー・クレンペラーとヘルベルト・ケーゲルがお好きのようで、両者の紹介にかなりの頁を割かれており、カラヤンと対比させようという狙いがあるようだ。
ともあれ、もうちょっと誰にも理解できるように分かりやすく書けないものかな~。
「音楽云々」以前の問題だね、これは・・(笑)。
ちなみに、著者の「宮下誠」氏をググってみると、
宮下 誠(みやした まこと、1961年 - 2009年5月23日)は、日本の美術史家。専門は20世紀西洋美術史、美術史学史、画像解釈学、一般芸術学。
あれえ・・、何と48歳で早世されている!
「死者に鞭打つ」ようなことを言ってゴメンね・・。
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