JH5AVMを開局以来、2005年近くまでDXとのQSOを中心に運用をして来た私だったが此れ等がほぼ完成に近付いた所で新しいカントリーと交信やカードが到着するとハムログでチェックする機会が多くなった。決して国内QSOを軽んじて居た訳でなく、コンテストや通常交信も適時運用はしていた。前者の方に寄り興味が有った事と全市全郡は完成近いと思い込んでいた。ところがハムログでチェックすると2005年時点で全国で190箇所も交信が出来ていない事が判明、愕然とした。ちょうど平成の大合併があった頃だった。
全市全郡の交信を目標するならアマチュア局数の宝庫7MHz、当時、サンスポットは最低の時期で7MHzも例外では無くコンデションは良くなかった。其の為に此の年の5月にAFA-40、2エレの八木から短縮3エレの八木にアンテナを交換した時から全市、全郡、全町村への追っ駆けが始まった。
全市、全郡、全行政区分は1年位で交信し、カードもコンファームしたが全町村に関しては現時点で沖縄の島尻郡与那原町JCG-47002P、中頭郡北中城村のJCG-47003Cの二箇所が未交信に成っている。5年間かなり気合を入れて探したがタイミングが悪いのか?この地点からの電波を聞いた事が無かったので今年の5月に沖縄に渡り現地に行って運用、与那原町で379局、北中城村501局と交信した。与那原町は街中で運用地探しに苦労したが北中城村に関しては運用地には困らない。何方か行かれる人が有れば御一報戴ければ運用場所の情報はお送り出来ます。「何方か行って貰えませんか?」この二箇所は死ぬまでに交信を完成させたいと思っているので何方か宜しく御願い致します。
今朝は曇りの天気、昨晩の雨の影響か?朝から涼しい風が吹き込んでいる 昨日まで良い天気が続き連日30度を超える暑い天気が続いていた。ST0Rを求めて早起きしたがどのバンドも聞えていない。24MHzと18MHzは早々とQSO出来たが14MHzや21MHzでは長時間呼んだが応答無し、JAの有名なDXerが呼んでいる状態では私に出る幕では無い。
2日前の朝の7MHzは大変強力に入感していたがエリヤ指定をしていて3エリヤまでは良く聞えていたが4エリヤ辺りでジャミングが入り断片的にか了解出来ず5エリヤでは殆んど受信出来ない状態に 5エリヤはDX人口が少ないので「もしかしたら?」淡い期待をしたが残念、呼んでいる人も居たようだが殆んどQSO出来ていない様子で有った。
この前の台風でアンテナの方向がコントローラー指示とズレが有る為、朝の涼しい内に直そうと思い立ちタワーに上がることにした 最初に四角のタワーに8ヶ月振りに昇った此のタワーは4辺、2段にステーを張って有るので殆んど揺れない。上部で安全ベルトを掛け調べて見るとマストの固定金具(ローター)の部分でズレが有ったので(上がる前にコントローラー真北にセット)ナットを緩めフリーの状態でマストを両手でつかみ回そうとしたが回らず最上段まで上がりアンテナブームを掴みアンテナを真北に合わせ 固定金具のナットを締めた。今後の事も有るのでアンテナ・ポールの下側固定金具のすぐ上のマスト側に昇降用のステップを取り付け次からは此れをハンドル代わり回せば最上部まで上がらなくてもアンテナの方位を変えれる様に改善した。たかが3m位の身体の移動だが高所作業なので安全ベルトの架け替えや道具の移動など少しでも楽に成る様にした。
降りて一休みして、三角タワーに上ると、昇る振動に共振、此方は結構揺れた(自立でステーなし)このタワーには作業台が付いているので上部での点検や作業は楽なのだが揺れが有るので気色が悪い、久し振りなので踊り場で立上がるまでに一呼吸必要だった現在63歳、何時まで昇れるのだろうか?ふとそんな思いが頭をよぎったが作業を開始、見てみると此方は7MHzの3エレのマストクランプ側のズレだった(アンテナ自重70Kg 大きいアンテナなのでアンテナ側でずれた様子)2分程度で作業完了、冷汗は出るが20m以上では良い風が吹いている眺めも最高!
たいした作業では無かったが降りるとびっしりの汗、すぐ風呂に飛び込んだ。安堵感と此れでアンテナが相手に正確に合わせられる事でホットした。風呂上がりに体を拭いていると手首の少し上が赤く成っている。大した傷は無いが何かで擦った様子、暑かったのと短時間の作業で終わると考え長袖でなく半袖スタイルで上ったのが失敗、やはり作業の基本は守らなくてはと反省した。
私がJH5AVMで開局した当時にはパソコンを遣っている人は周りに居ませんでしたし当然私もパソコンは持って居ませんでした。その業界に居ましたので興味は有りましたが高額で手が出せなかった事も有りますが私の仕事(テレビやビデオ・カメラやビデオ等家電商品の修理業務)では目が一番大切なので意識的に取組みませんでした。
私が40歳位の時、無線の世界にも業務日誌やQSLの印刷などに使用する人がボチボチ出始めました其の当時は富士通、NECのパソコンが全盛で国内では幅を利かして居ましたが将来を見据えた時、こんな事は何時までも続くはずが無いと考えた私はDOS V 機を購入、理由はウィンドウズ3.1が出た所で世界共通になり国産と操作性が変わらずアマチュア無線用の汎用ソフトやパソコンメーカー等 種類も豊富で世界の中でのパソコンの占有率を考えると比較に成らなかったし、また価格も同程度の能力機種に比べると約半分だったからです。
最初に購入したパソコンはCPUがペンティアム66DXで初めて二倍速のCD-Rが搭載されたモデルだった。当時の最速のパソコンだったが3ヶ月毎に新機種が発表(あとで解ったことだが色々なメーカの部品の寄せ集めの組立て商品)せれ以後、給料を貰うとパソコン屋に直行する様になった。此の時期はパソコンに大した仕事もさせないのに速さばかりを追っていた。パソコンの知識は何も無かったがヤル気と好きになれば何でも出来るが?授業料(パーツ代と本代)は随分掛った。無線機は15年位は問題なく使えるがパソコンは随分銭食い虫だったが反面アマチュア無線は収入に繋がら無いがパソコンは組立てをしてあげたりメンテをすれば少しは小遣いに成った。
やがてハムログのDOS版が世に出て初めてパソコンに無線に必要な仕事をさせる事が出来た 其の後QSLの印刷、DX及び国内のクラスター、人工衛星の自動追尾、アンテナシュミレーション、デジタル通信、電子QSL、書き切れないほどの仕事やインターネットを使った知識や情報の収集が可能に成った。これ等を使わない手は無いし使わないとすると不便な生活を強いられる様に成りそうだ。
無線の交信を聞いているとパソコンはしないとか、興味が無いとか言っている人を時々聞くが(私の家内もそうだが)そんな事が通用しない時代がもう目の前に迫っている 最近家内と回転寿司店に入ったら受付がタッチ・パネルで自動化されていて焦っている家内を見てつくづくそう思った。一般生活やアマチュア無線の世界も同様でパソコン無しでは十分楽しんだり運用できない時代が既に来ている。
タワー・セクションの繋ぎ手部分のタワー側の16mmΦの穴開け作業は順調に進み最後から2個目の穴あけになった時、握力も弱っていたしドリル刃の先も痛んでいたのか? 中々貫通せず刃が出た瞬間、刃がロックされ強く体重を掛けていたのでバランスを崩し脚立から落ちそうに成ったので思わず片手がドリルのハンドルから手が離れた瞬間、ガッンと額に衝撃が走った。やがて鼻筋の横が熱くなり手を当てると手が真っ赤に成ってタオルを巻いてしばらくするとタオルが真っ赤に成ったので直ぐ病院に走り手当てを受けた。担当医は「大した事は無い大げさな、消毒後バンドエイドで十分」と軽く受け流されたが此の事で以後、額に天下御免の向う傷を作る結果と成った。
後日、最後の穴をあけ完了セクションの積重ねに入るのだが重くて人力では吊上げる事が出来ない。毎日、色々考えたが最終的に一番大きいクレーン車をチャーターし、川向こうの中学校の跡地から吊上げる事に決定した。此の土地は市の土地なので使用許可や草刈などに走り回り庄野さんを仕事中、呼びに行き二人が上に上がりセクションを繫いだ。
タワー完成までには紆余曲折は有ったが『素人にもヤル気があれば何でも出来る。』と其の後の自信に成ったが部材の配達、継ぎ手の加工、祝儀の生コン、重機の手配や値引き折衝 垂直出し等、島さん、庄野さん、兄、父親に、そして何よりも家内に御世話に成った。
建設から35年間 此れ等のタワーにはTA-33 208U 7エレトライバンダーと載せ替えし現在は21MHz5エレ八木 24MHz 5エレ八木 18MHz 3エレ八木 144MHz 13エレ八木 スタックが取り付けられている。
穴掘り作業が完了すると穴底にアース工事を行い完了後に玉石を並べて其の上にコンクリートの仮打ちし、その中にタワーの下部のセクションを固定、愈々本格的なコンクリートの流し込みを猫車で始めた。何十回運んだろうか?兎に角大変な作業となった。
穴に生コンが半分くらい入った段階ではセクションを動かしても簡単に動いたが穴全体に生コンが入ると骨材が沈みセクションに力を加えても動かなく成った。此処らで最終的な垂直出しの作業が残って居るのにセクションが動かない「早くしないと修正が出来ない!」と思った私は父親の仕事場へ急行、現場に来て貰ったら「何かと思ったらこんな事やっとたんか?」と言いながら手早く垂直出しをしてくれた。
余談だが父親は私ら兄弟を「兄弟揃って無線の極道たれ!」と近所の人に言っているのは知っていたが私などは可愛い方で兄は私が大阪に居る間に無線のアンテナを立てる為に屋敷の近くのたんぼを一枚潰してしまっていた。どんな方法を使ったのか知らないが?昔堅気の田んぼが一番大事と思って居る父親を説得したのだから前にも書いたが其の方面では天才的な素質を持っている様だ。
そんな理由で御世話に成ると後々、煩いので頼まず内々で遣る積りが思わぬ所でバレテシマッタ、因みに父親は農業の合間にセメント二次製品を製造販売する仕事をしており其の道のプロだ。二人の兄が土木専門の技術者なのは そんな事が関係していると思う。
コンクリートの養生が終わるのを待つ間に庄野さん(JA5HT)の鉄工所に入浸り90度のアングルでセクション同士の繋手を作った。穴明け位置決めの後、段々と径の大きいドリルの刃で穴を大きくしていく作業だったが2日位掛かった。取り付ける亜鉛のどぶ付けのボルトやナット等は庄野さんが無償で提供してくれた。
養生が終わる頃、切断したセクションの上下が逆に成っており露出している上側に穴が開いていない事に気付き現場で穴開けをする事に成ったが(16mmの穴 32箇所)運の悪いことに地上に出ているセクションの高さが2.5mで私の背が届かずに仕方なく脚立に乗っての(足場の悪い状態)低速ドリルでの穴あけ作業をする事に成った。庄野さんに道具を借りる時、『ドリルを機械で固定出来ないので如何してもドリルを力強く押し付ける様に成るが、ドリルの刃の先端が貫通した時にドリル本体が必ず振られるので押し過ぎない様にくれぐれも注意する様に!』と言われた。
私の自宅が完成し1年位たった頃に島先輩から電話が有り「電力の変電所で使用していた四角のタワーのセクションが有るので要らないか?」と連絡を戴いた 1セクションの長さは7,5m 50cm角の亜鉛のドブズケとの事、現場に有るので個人での引取りに成るがワンセクション7Kで11個位有るらしい。家も完成し本格的に無線をこの地で始めるので「渡りに船」で3個欲しい旨、御願いした。
7.5mの3段つなぎで22.5m地下に2.5m埋めても20m高に成る胸算用だったが先輩は4本にしたらと進めてくれたが、その頃は25mHのタワーを立ち上げる自信も無かったし7MHzのビームアンテナを上げる事等、考えも及ばなかった。(我家の敷地内には4.5トン車までしか入らなかった為人力に頼るしかないと思い込んでいた)
3日位して「いるか」と先輩の声、出て行くと4トン半のユニック付の車にセクションが山積みされていた「何処に降ろすぞ?」と聞かれたので道路脇の自分の敷地内に下ろして貰った。配達料金を含む代金を払おうとすると「御前から配達料金を貰おうなんて思っていないセクション代金だけで良い」との事、帰り際に「此れで夢のアンテナが建てれるな」と言って帰って行った。良い先輩に恵まれて居る事を感謝した。
道路脇のセクションは其の後1年以上その場所に鎮座していた。其れには理由が有った。我家の場所は実家から4Km離れて折り 我家は世間で言うところの来たり人、この在所の生まれで無いので知人も居ないし何かと注目されていた。その為道路脇に長々と並べ世間の目になじむ様に考えた。案の定、事有る毎に道行く近隣の人が「これは何で?どないするんで?」と聞いてきたその度ごとに「今は出来ないが将来、これを建てて無線をするんだ。」と説明した。やがて1年も成ると質問が「言いよったけんど何時ごろ建つんで?」変った。私の中では直ぐにでも建てたかったが周りからクレームでも出ると以後の無線が出来なく成るし何よりも新参者、軋轢を作りたく無かった。やがて時節到来、スコップによる穴掘りから始めた。
穴掘りも大変だったが一番大変だったにはセクションの移動と土に埋まる部分のセクションの穴への落とし込みだったセクションは電力の変電所で使用されていただけに丈夫な作りではあつたが其の為に重量が有り家内と私だけでは持ち上がらなかった色々考えて残念だったが5m部分で切断した。穴の上部に三椏を組みチェ-ン・ブロックで吊り上げて穴に入れた。コンクリート打ちの知識を得る為、兄に相談すると色々教えてくれ「生コン代は祝儀で出してやる。」と業者を紹介してくれた。
私が最初のタワーを建ててから2年位しているとサイクル21に入ってくる兆しが出始めたので大型のアンテナを立てる目的でもう一基、タワーが欲しくなった。自立かクランクアップか随分迷ったが?、DXを本格的にやるには3基のタワーは必須と思い最終的に費用の安いメーカーの自立タワーにした。
其の当時は私は35歳位だったので仕事から帰った後、作業灯の下で穴掘り作業をした。季節は真冬だったが汗をかきながらの作業であった。我家の立っている場所は昭和の初めまで川原だった場所で1mくらい穴を掘るとその下は砂と大きい玉石の世界で有った。穴を掘れば掘る程上部の壁が崩れ始め、土止めに苦労しながら3mくらい掘るのに5日程掛ったと記憶している。毎晩22時くらいまで穴掘り作業をしていた。
休みの日の昼間に畑で2.5mの各セクションを組立て生コン会社の関係から平日の午後、猫車でコンクリート打ちを家内と私でやった。以前の経験から垂直出し作業も順調に終わった。今思うと2人とも随分元気が有ったんだと思う。
一基目のタワーは大型クレーンでセクションを吊り上げ各セクションのジョイント部だけのナットを締めるだけの作業だったが以前、大型クレーンの入った場所には当時県の3階ビルが建ちクレーン車を使うことが出来ずに一段一段、吊り棒の先に滑車を取付け2人で各セクションを吊り上げ下側のセクションに仮止めされたジョイント部の中に落し込み歪みを取りながら人力で一段一段と積上げて行く方法を取った。タワー基礎の穴掘りからタワーが完成し上部へのアンテナ取り付けまで2ヶ月を要した。
新しいタワーには7MHzの2エレ八木を其の上部に50Mhzの7エレ八木アンテナを取り付け古い方には7エレトライバンダーを取付けた。当時の私には此れ等に必要な専門的な知識は何も無かったが『門前の小僧 良く経を読む』とはよく言ったもので兄のアンテナ作業を見ている内に何時の間にか覚えていた。
ある先輩の話だが電波の飛びは其の危険度(高さ)と努力の度合に比例する。(お金を掛けるか体を使うか)まさに名言で其の通りの世界が広がった。
私のローカルの先輩の影響でDXに興味を持ち始めた私は無線機をTS-520Dに交換、アンテナはモズレーのTA-33にして気分一新の為、JH5AVMで新規開局申請をして電監の落成検査を受け合格ボツボツDXをやり始めたがアンテナの地上高が無かった為、飛びはイマイチだったが28MHz辺りでロシヤ局を相手に遊んでいた。
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日本も高度成長時代で近隣で新しい局が次々と開局していて夜に21MHzでローカルラグチューをしていると6~7局集まってワイワイガヤガヤと騒いでいた。サイクル20の頃だと思ったが、ロカールラグチュー中に急にコンデションが上昇、1エリヤのグループと合同ラグチュウーが出来たりする良いコンデションが時々あった。其の時のメンバーは高校生や大学生が大半でやがて進学や就職で其々に徳島を離れて行った。
やがて私も結婚、徳島市内で1年間アパート暮らしでやむなくQRTしたが 如何しても無線が遣りたくて場所を探していたが土地を購入して家を建てる馬力も無かったので実家から4Km位離れた(子供の時はサツマイモを栽培していた)畑を譲り受け其の場所に家を立てた。すぐ横に徳島では2番目に大きい川が流れ昔は遊水地帯で一般の人が今後、家を建てる事が出来ない場所なので将来KW局を開局する場合にも都合が良いなと考えたからだ。ただ交通の便が悪く家内の通勤に不便だったので了解してもらう為に初めて此の土地を見せた時、背丈程の葦が鬱蒼と生えていたので徳島の街中育ちの彼女は「此処で生活するの?」と半泣き顔に成っていた。
最初は心配していた彼女だったが新しい家とバッグンの日当たりの良さや5月には蛍が飛ぶ自然環境、何よりもすぐ隣に家が建っていないので気遣い無しの生活に直ぐに馴染んだ。子供達にも私が育ったと同じ様な環境で子育てが出来た事は本当に良かったと思っている。
現在、無線的には3.5MHzのフルサイズのアンテナを東西に張れ2本のタワーと1本のルーフタワーに全バンドのアンテナがあがっている。無線機は此れまでにTS-520D IC-750 TS-940S IC-756ProⅡへ替り ハイバンドはTS-790とIC-970を使用している。
アンテナは 7MHz 3エレ 10MHz 3エレ 14MHz 4エレ 18MHz 3エレ
21MHz 5エレ 24MHz 5エレ 50MHz 7エレヤギ
144MHz 12エレヤギ スタック 430MHz 15エレヤギ スタック
を使用している。
徳島に帰ってから実家で5ヶ月に渡り間居候をしたので就職先が決まり仕事へ行き出すと 大手を振って無線の再開準備が可能に成った。実家に居るとはいえプー太郎の身分で無線三昧とはいかなかった。兄が張ってあるアンテナが有ったのでFL-50BとFR-50Bの封印を解き机の上に並べた。受信してみると学生時代とうって変り 全数に近い局が電波形式がSSBに移行していた。
兄は徳島県の那賀奥の道路やトンネルの現場へ技術担当者として4年程、山篭りしていたが夜な夜な3.5MHzで面白い話をしていた。大人の話なので私は御付き合いが出来なかったが高知のJA5BFMさんJA5DOAさんと毎夜危ない話を全国放送していた。当時兄は確かTS-510を使用していたと記憶している。
兄も時々、家に帰ると144MHz帯で私の工業高校時代の恩師のJA5AKD 川原先生や 先輩の島さんが(JA5BIF)JA5APTさんの活弁の後にギターを弾きながら歌って居た。川原先生のギターが上手なのは在学中から知っていたが先輩がアコーデオンやギター演奏しながら演歌を歌うのは初めて聞いた。
此の時代の事は可也過去の話なので時系列がハッキリしないが?この頃から144MHz帯の電波が聞こえる様に成った 最初はメーカー製の機械など無かったのでタクシー無線に使用していたJRCの無線機などを改良、水晶発振子を交換、調整した無線機を使用してローカルQSO(内内の話)をしていた。
此の時期に144MHzの交信を通じてJA5HT庄野さんと知り合う事が出来た(初対面は学生時代に全市全郡コンテストで那賀郡のマルチが必要で交信依頼が有りログを出すため用紙を貰いに行った事があった。)一応、面識は有ったが無線の上では雲の上の人だった。兄と年恰好が近かったので後日親交があり遊びに行くから一緒に行こうと誘われた。学生時代はローカル局に怖い人だと聞いていたが兄の同行もあり色々と見せて貰ったりした。それ以来25年間親しく御付き合いして頂いたが私に無線の上で大きな影響を与えた1人である。DXやコンテストに対する興味やコリンズの無線機に関してなど、書き切れないほど影響を受けた。
庄野さんはコンテストにも取組まれて居て全市全郡コンテストでは優勝や準優勝の経験が有ると聞いていた。ハイパワーでは全国で有名で私が徳島に帰った当時で(40年前)4-1000Aパラレルのリニヤがシャックに鎮座していた。武勇伝も色々有って私が高圧トランスを巻いて貰って受取りに行った時(1次の電圧タップを沢山 出してもらった)2次側の巻線を素手でつかみ「よお 来よるわ、合格!」言った時は流石に唖然とした。最低でも電圧は400Vは有ったと思う。亡くなる少し前、沖縄の嘉手納に有ったログペリ・オーデックアンテナを手に入れられ3.5MHzでDXをやるので舎弟(何時も私をそう呼んで可愛がってくれた。)手伝いに来いと呼出され一緒にタワーの組立てやアンテナの取付に行ったのが此れが最後の御付き合いに成った。高さ25mHのタワーの上に完成したアンテナを見上げて居た時の嬉しそうな顔は今でも忘れられない。(アンテナは24エレ ブーム24m アンテナ重量が350Kgのビッグアンテナだった。)その後、全国級の人が解体し持ち帰ったらしいが私は其のアンテナが上がった話は聞いていない。
私の無線の師匠は、お酒が大好きで無線の話と成ると時間を忘れ熱く語る実に愛すべき人であった。一度、朝から遊びに行き昼御飯、夕御飯まで御馳走に成り帰して貰えず午前様に成った事が有りました。其れ以後は奥さんから「太郎さんが来たから今日は仕事に成らないね」と笑いながらよく言われた。
生前に二人の間に約束事が二つ有った。一つは私の結婚が決ったら結婚式には必ず呼ぶ事、2つ目は私が世界の全カントリーと交信出来たら庄野さんが一席設ける事、一つ目は達成できたが二つ目は御元気な内に報告する事が出来なかった。後5年ほど御元気だと、きっと喜んで貰えたであろうに此の事は残念でならない。当時の私は「井の中の蛙大海を知らず」状態で未だ大海は知らなかったが知ろうとする所にまでに私を引上げてくれた無線関係の大恩人である。
私は徳島に帰り就職活動に入ったが まず自動車免許を取らないといけないと思い自動車学校に入校、1ヶ月程で免許を取得、仕事探しを始めたが転勤の無い自宅から通勤可能で今までの経験を生かせる職場と成ると殆んど無かったが職安に登録したら県外は結構有ったが それではアマチュア無線を再開出来ない。新聞だけは毎日見ていると8月の或る日、関西の家電メーカーのサービス・ステーションの正社員募集の広告を発見、何とI先輩の勤務していた会社と同じ系列の会社、すぐ履歴書を書き上げ直接会社に持ち込んだ。会社もピカピカの3階建て正面から入ると美人の社員が対応してくれ好印象を受けた。
1週間後に試験をする旨の案内が有り会社に出向くと行き成り数学、国語、英語、社会、一般常識の試験が始まりビックリした。数学は方程式を解く問題だったので自信が無かった。3時頃から面接が始まり社長を含めて7人位が陣取る部屋に入ると色々質問されたが工場では毎朝80人位の人前で喋るので臆することは無かった。私の仕事経歴に付いて聞かれたので正直に答えると皆さんビックリしていた。前の会社を辞めた理由を聞かれた時、まさかアマチュア無線がしたい為とは言えず「家庭の事情」とかわした。最後に人事部長が「数学のテストはどうでしたか?」と聞かれたので来たな!と思い破れかぶれで「出来なかったです。でも今回の募集は技術員(サービスマン)の募集と聞いています。御社の業務内容は熟知していますので技術の方で評価戴ければ有り難いです。」と答えると社長がにやっと笑い顔に成ったので受かったな思った。
直に合否の発表が来ると思ったが4日くらい立つと興信所の人が我が家を訪れ私に直接色々質問して帰り際に「良い様に書いときますから!」と言って帰って行った。「一体何だろうか?」本人に聞いて調べても意味が無いように思ったが途中採用の社員に此れだけの費用を掛け調べる会社に逆に此方としては信頼感を持った。9月に入りやっと合格通知「9月9日出社されたし」これで両親に遠慮する事無く実家で無線が出来る環境が出来上がった。万歳!
私の大阪における寮生活は楽しかったがアマチュア無線が出来ないのが難点だった。先輩から貰ったTRー1000で移動運用を時々していたが此れで満足出来るものではなかった。寮に入って2年目位に成ると先輩達も大半の人がアパートに引越しして行ったので私も寮の室長に成り徳島の後輩と二人部屋に成った。自由が効く様に成ったので夏のボーナスが出たところで日本橋で八重洲のFL-50BとFR-50Bの無線機を購入した。
寮では無線は御法度だったが受信して聞こえれば送信したく成るのが人情、3階の物干し場に解らない様に21MHz帯用のダブレットを張りコソコソと無線をやっていた。2ヶ月程は何もなかったので調子に乗って運用していたら隣の叔父さんが「テレビから変な声が聞こえる。」と寮長の所に申し入れが有ったらしく犯人探しが始まった。寮長は警察のOBで大柄な迫力のある人で酒が入ると人柄の変わる人で運悪く自首した時間帯が夕方だった 1時間ほど御説教を聞いた後、隣のお宅に御伺いし御詫びし後日、対応をさせて貰いたいと申し入れると何とか了解が取れた。
対策の為に何度か訪門する内におじさん夫婦には子供が居ない事もあって親しく成って行き、お茶を戴いたり食事を御馳走になる間柄になれた。私も徳島に帰省の折には必ず御土産を持っていく親戚付合いになったが何せ人口密集地帯この場所での運用を諦め無線機を封印した。
無線熱が再発すると我慢することが出来なくなり大阪で生活をする限り無線運用は不可能と思い段々と会社を辞める事を考え始めた。当時は移動用の無線機など無かったし自動車を持つ事など考えも及ばなかったし大阪で無線を再開出来る可能性も無かった。生付きの田舎育ち やはり自分には田舎生活が向いていると考えたが「若気の至り」とでも言うべきか?其の延長線上に無線再開の思いが強くあった。
次の年の正月、徳島に帰省の際、両親に気持を打ち明け辞める事を決めた。正月明けに出社して直に辞表を提出した。保留されたが私の意思が強いことが解ると3月まで務めることで受理された。自分の中にも「石の上にも3年」の思いが有ったので丸3年務め 3月末日で退社した。
3年間の短い期間では有ったが仲間と別れる最後1週間は後ろ髪を引かれる思いをした。最終日には胸が熱くなり「二度とこんな思いはしたくない」次に就職したら定年まで務める事を強く心に誓った。
其の年の3月25日に退社後、気持の整理の為長野県へ1週間一人旅をした後に徳島に帰った。
或る日、I先輩が私の横に来て「今日から一緒に仕事をする事に成った厳しく扱くぞ」と言った。其の時は詳しくは言わなかったが次の日から向かい合った机でマンツーマンでの仕事が始まった。当時の私はトランジスターの修理は、経験と感覚で修理していたが一週間位すると「そんな事では何時までも通用しないぞ もっと理論を勉強しないと駄目だ!」と言われてトランジスターの基礎から教えてくれた。学生時代、学校や趣味の無線で真空管の動作や回路は勉強したがトランジスターの詳しい事は習わなかった。電気科と電子工学科では科目の配分が全然違うのだ。
I先輩は電子工学科の卒業、当時学生で1アマを持ちメーカー製のリニヤが無い時代にセラミック球の自作リニヤで落成検査をパスするだけあって流石に博識で有った。3ヶ月くらい一緒に仕事をして色んな事を指導戴いたが先輩は先を見たのか?美人で一番性格の良い子と結婚、退社された。別れる時、TR-1000を記念に頂きその後大事に使った。
その後、しばらくして専務室に呼ばれ「近い内に初めてFM付きの3バンドラジオの半完成品を作るラインを立ち上げる予定だ。大変だがやってみる気持はないか?」と打診された。工場が手狭で全ラインが作れないので完成品には別の工場を使う予定とか?色々説明を受けたが「海のもんとも山のもんとも解らないな?」と思ったし自信も無かったので明言を避けた。後で考えて、是はI先輩の予定で始まった計画だが退社してしまったので私に回って来たなと理解出来た。I先輩も其の事も有って前もって私を親切に指導してくれたのだと感じた。
最終的には本人の意思には関係なく辞令が下った。50人位の部隊で基板からの組立て工程は問題なくスムーズに立ち上がったが出来上がった物の特性のバラツキが大きく修理担当者としては可也苦労した(この問題は修理の問題ではなく設計部門や部品の品質管理の問題なのだが彼らはプライドが高いので認めようとせず立証する事に苦労した。)3ヶ月程掛って変更や対策でラインが軌道に乗ると全ての工程が別工場に移動、部隊は解散した。
私は元のラインの半完成品までの責任者に成ったが当時、労働組合運動が活発な時代でライン長辺りと会社側でトラブルが有り次々と製造ラインの年上の責任者が辞めた。運悪く私の所属するラインのライン長と完成工程の責任者が辞めてしまいトコロテン方式に私にライン長の大役が回って来てしまった。本来なら喜ぶべき事だが前任者は40歳位の人だったのにペイペイの21歳の私に此の重責が務まる筈が無い。この時に将来に不安を感じI先輩もこの辺を見抜いたのかな?と思った。
無線三昧の生活が終わり就職先の大阪に行くことに成った。就職先はテレビとラジオを生産する会社で私の配属された工場で従業員が400人位だった。同期入社は50人位い居たが何故か?九州の人(鹿児島県)が多かった。社員教育が終わり適正テストが有り最終的にラジオ部門の修理担当に成った。同期で最初から修理部門に入れたのは3人位で他は検査、調整やラインに入った 無線をやっていた御蔭で楽な部署だったがテレビ部門に配属かな?と思っていたので残念な気がしたが最終的にはラジオの配属でラッキーだった。
テレビの製造ラインは真空管式の小型白黒テレビの生産をしていたが、ラジオの生産ラインはトランジスター式だったので新しい技術を学ぶ事が出来た(学校では真空管の勉強はしたがトランジスターの回路などは学んで居なかった)同期は(工業高校の電気関係の卒業生)50人も居たのにアマチュア無線の経験者は一人も居なかった。学問的に優秀な人も居たと思うが製造ラインは即、戦力に成る者を優先した様な気がした。
修理部門はシャーシ完成(動作はするがケースに入っていない状態の半完成品)と完成品修理と2箇所有り私は前記の方の担当、ラジオが鳴るか鳴らないか?程度の故障修理なので楽勝だった。ただ私の前の30人位のラインの人が部品を差し違えたりすると流れてくるラジオは全て鳴らなくなるので 人為的なミスによる症状や設計に関わる(発信や音声のひずみ)問題点は早く見付けて対応しなければ大変に成るのでその意味では重要な場所であった。
私の仕事で一番大変だったのはラインは一定の速度で流れるので製品の流れが一定になる様にしなければ成らない事で、最初はラインの子に同数の部品を持たすのですが其々に能力が違うので一定の流れをキープするには能力の有る子には負荷を掛け能力が劣る子には負荷を軽くして対応するのですが時として「えこひいき」と誤解される事だった。パートのおばさんは ハッキリと言うのだが若い子は「不協和音状態」でギクシャクした。出来るだけ能力の劣る子のレベルアップ図るのだが其れが達成出来るとラインのコンベアの速度を上げるので何処まで行っても際限の無い「鼬ごっこ」状態でした。
入社して3ヶ月位したとき「君が日下君か?」とI先輩から呼び止められ「はい」と答えると「アマチュア無線をしていたんだって?」聞かれたので「はい」答えると「今晩 良かったら遊びに来ないか?」と誘って戴き夜、部屋に御邪魔した。佐賀県出身で私より3歳位年上だったが修理部門ではNo-1の実力の持主との噂の人だった。話を聞くと佐賀では500Wの局を開いていた様で大手家電メーカーのサービス・ステーションに勤務していたが仕事上の事で部長と喧嘩し相手を殴って会社を辞め大阪に出て来たとの事だった。
其の時に無線談議に花が咲き、それ以後の御付き合いが始まった。社員寮は無線は御法度なのでI先輩はトリオのTR-1000を持って時々移動運用をしており比叡山移動に同行した事がある。出力は1W程度だったが高い山に上がると1や2エリヤとQSO出来た。先輩は頭の切れや技術力は抜群だが技術屋に有りがちな頑固さが有り女性にも人気が有ったが上司と時々衝突していた。
私は夏休み前に就職先が決まったので夏休みは此の世の天国だった。工業高校では就職が決定すれば落第は無いと言われていたので長い夏休み、無線三昧だった。する事が無くなると友人とクロスバンドQSOで将棋をやった。当時の機械はトランシーバーなど無くセパレートタイプ(送信機、受信機が独立していた為)3.5MHzと7 Mhzを使い私が3.5MHzで送信し7MHzを受信、相手側は7MHzで送信して3.5MHz受信するとクロスバンド交信で同時通話が可能に成る芸当が出来た(当然両者の送信機は送信しっぱなし状態アンテナも受信用に独立した物が必要)この準備が出来ると双方、将棋盤に駒を配置、私が「1-3歩」と言えば相手側が自分側の将棋盤の私側の駒を進める 次に相手側が「2-3歩」と言えば私側の将棋盤の相手側の駒を進める この事により双方の将棋盤に勝負が展開出来る時間は掛るが暇潰しにはもってこいの遊びだった。
とにかく2学期以降は中間試験や期末テストが有っても事前勉強など殆んどしなかった様に思う。唯、新設校だったので卒業レポートとして(大学での卒論の様な物)1年間、課題に取組み3学期にまとめ、同級生全員の前で発表する大変な作業が有った。これさえ出せば卒業は可能だった。入学時90人の定員だった電気科だったが卒業時は80人を割っていたように思う。強電が主体の学科で有った為、「K 無線3馬鹿トリオ」は其の意味で電気科では異端児だった。
樫福君は就職先から課題を与えられマルチ・バイブレーターの実験をしていた。栗本君は船舶関係の無線機器の会社に決まっていたので屋上を走り回ってアンテナを作って実験をしていた様な気がする。私は、テレビの回路動作解析をしていた。下の倉庫には白黒テレビの残骸が50台位有ったので バラバラに分解、再度アルミの平板に組立て直し各回路別の波形観測し回路部品でどのような変化をし最終的な波形になるのか調べることが課題だった。私は学業成績は常時、低空飛行だったが他の2人は優秀だった様に思う。唯、弱電の回路関係、真空管の動作説明や回路を組む様な芸当が出来る者は同学年で無線3馬鹿以外には2~3人しか居なかったように思う。表面に出なかったのかも知れないが、此れが遣りたいので電気科に来たとの意欲を感じる同級生は少なかった。自慢には出来ないが私が電気科に進んだ動機はやはりアマチュア無線に有ったし十分楽しむ事が出来たし卒業したら其の分野の技術で飯が食える自信は有った。
後で解った事だが或るメーカー会で出会った13回生卒の後輩から彼が3年生の時、模範研究レポートの中に日下さんのレポートが有り参考にさせて貰ったと聞いた時は3年生の時の苦労が報われ、何がしかの足跡が残せた事が非常に嬉しかった。彼も又テレビの回路に取組み私と同じ様に家電メーカーのサービス・センターに勤務する同業者に成って居た。
私がアマチュア無線局を開局した時代は国試を受けて合格してから無線局の免許状が届くまで約6ヶ月を要した。申請も複雑で自作機が多かった事も有り メーカー製で有っても送信機のブロックダイヤグラムは必須で たしか最寄りの駅から自宅までの地図も書いた記憶が有る。戦後のアマチュア無線再開当時寄りは遥かに開局申請書類が簡単に成ったとはいえ初心者には大変な作業であった。その意味ではまったくの初心者は少なく、私の先輩や同期の人達を見回しても全数と言って良いほど受験前に電波が発射出来る すなわちアンカバーの経験者だった。国試も全問記述式で教科書は有ったが現在の様に問題集も出回っていなかった。即ちズブの素人は殆んど居なかった様に思う 逆に素人では国試は受からなかった。試験会場も高校生が9割以上で工業高校の電気の専門課程の生徒が大半で有った 当時の国試の合格率も40%の前半だったと記憶している。
私の場合は当然、設備は有るのだから電波を出したくてウズウズしている所に免許状が届かない。免許状の届く日を千秋の思いで待っているのだが・・・・・アンカバーでの運用の方法も有ったが当時はアマチュア無線の局は少なかったので試験電波を発射する程度なら解らないが長時間の運用をしていると近所のOMに直ぐに見付かって仕舞うし、其れより何より当局に挙げられ折角のアマチュア無線局開局がパアーに成るのが一番怖かった。
当時は電監の免許課に電話すれば免許状の発給状況を教えてくれるとの情報を得て私は待ち切れず電話を掛けた確か免許状が届く10日位前だったと記憶しているが、其の時の遣り取りは詳しくは覚えていないが要約すると『免許状は10日程度で御届け出来る コールサインはJA5CBAと聞いた。』其れが解れば此方のもんと勝手に解釈し 其の日から其のコールサインでどんどんQSO,約30局程度交信した。
後日、免許状が郵送されワクワクしながら開封、免許状を確認すると「なな、何と呼出符号がJA5CBBと刻印されていた」ワクワクどころか膝や体全体に震えが来た 血の気が無くなるとはこの事で60年の人生経験の中でベスト3に入る出来事だった。
其の頃は真面目だったので2日ほど色々考えたが電話では恐ろしくて上手く説明出来ないと思い長文の手紙を書いて電監に送った 内容の要約は 「電話で確認はしたが前者の呼び出し符号で免許状の到着前に全国の30局程のアマチュア無線局と交信した 之は電波法違反で有り、この件に関しては如何なる裁定にも異議は申し立て無いので判断を御願いする。御迷惑を掛けた免許人には当方から謝罪したいので免許人の住所と名前を御教え戴けないでしょうか?」だった。
後日、封書で返信が有り恐る恐る開封し内容を確認すると「当局は罰則は考えていない ただ相手の免許人には迷惑が掛かっているので当事者間で御相談下さい」との事、2枚目の便箋には相手の住所と名前が書き込まれていた 其の相手の局とは・・・・・・・・・何と同級生の栗本君の住所と名前が書き込まれていた。今風に言えば「ラッキー」の一言だが親しい友達だからこそ気を使う面も有った。取敢えずQSOリストを渡しこの件に関しては責任を持った対応をするので許して欲しい申し訳なかったと謝罪した。すると彼は気持良く了解してくれた。
後日、交信した局には事情を説明QSLを発行し了解して戴いた。私の知る限り現在この時交信して御迷惑をお掛けしたOMが1局だけ現在も御元気に活躍されている。もう45年も昔の話だが其の人の御元気な声を聞く度、学生時代の大失敗を毎回思い出す。