最近は日の暮れが随分早くなった。「秋の日は釣瓶落としが如く」の表現がぴったしの状況に成って来た。子供の頃に日が暮れるのも忘れて遊びに夢中に成り夕方薄暗くなり親に呼ばれて家に帰る時、西の空が茜色に燃えていた頃を懐かしく思い出す様な今日の天気であった。
私の子供の頃は、今頃が農繁期の最盛期で稲刈りの頃であった様に思われる。(今は8月の中旬に稲刈りは始まる)子供ながらも稲刈りの時期には田んぼの中に発動機や脱穀機を持ち込んでの脱穀作業時に脱穀機の傍に稲の刈り取った束を集めたり脱穀した籾を入れる畚の交換の手伝いをよく遣らされた。
子供の頃は遊びたいさしきで手伝いは嫌で堪らなかったが反面に刈入れが終われば家の近くの田んぼで籾の天気干しが始まるので田んぼ一面に藁を敷いた干し場が出来る。日中は籾の干し場と成り辺り一面に「筵(むしろ)」が敷き並べられ、其の上に籾が広げられて天日で乾燥させていた。そして其の作業は10月の後半頃まで続いた。今と違って随分手間隙を掛けた米作りがされていたように思う。秋は日が短いので夕方前には其れ等が俄か仕立ての小屋に取り込まれると後は子供達の格好の遊び場所に早代わりして、かけっこも良しドッチボールや三角ベース・ボール用の一寸した運動場に成った。一枚田が子供が独占できる遊び場に成るのだから此れ位楽しい事は無い。周りには甘柿が熟れて色付いているし金柑の実も実っているし廻りに其の他の結構な果物も有って楽しみでもあったし今と違って戦後の子沢山の時代で遊び相手に困る事は無かったので夕方の周囲が暗く成るまで遊び呆けられて良い時代であった。
此の時期の夕方に成るとあちら此方で小高く盛り上がった籾殻の山に火が着けられ燻りながら籾殻の燃える匂い等は秋の此の時期を一番感じさせる風景であったが最近は野火に対する規制が厳しかったり農業機械の発達で稲藁が無くなった事や区画整備や農面道路の整備に伴う軽トラの出現と普及で田んぼの中での脱穀作業が無くなり殆どが自宅や其の周囲の作業小屋で行われる為に此の時期の、正に秋を感じる風景は見られなくなった。籾の乾燥も機械乾燥に成り最近は天日での乾燥など見た事も無いし、其れに伴う子供達の遊び場も消えた。今日は夕方の景色を見ながら腑と子供時代の懐かしい思い出に耽った。