黄昏叔父さんの独り言

 アマチュア無線と何でも有りのブログ

今朝の7MHz帯(2020/02/10)

2020年02月10日 | 四国88箇所霊場

 

 週末はRTTYやCWのDXコンテストが在り、今朝は余りは期待はして居なかったが04時頃から7MHz帯のワッチを始めた。矢張り予想通りで此の時間帯のCWモードの周波数帯はひっそりとした感じで殆どDX局の信号は入感しては居なかった。少し上のRTTYモードの周波数帯はコンテスト参加局の強くSメーターを振らす信号が聞こえて居たので念の為にトランシーバー内蔵のデコーダーで復調して見たが私が聞いた中では「珍しい此れは!」と思う様な局は聞こえなかった。

 

 SSBの高い周波数帯に私が狙って居る(CWモード)5I5TTがQRVして居たが信号は然程、強くは無くピークで43~44程度で受信出来たが此の周波数帯での運用は当局はアンテナの関係で出来ないのでワッチのみに終った。其の後にCWモードでTZ1CEが579で入感して居たが此の局は先日にQSO済みなので暫く聞いて居たが割りとユックリとした感じのパターンで運用して居た。

 

 

       今朝7MHz帯で聞こえたDX局

 

  5I5TT(43)      E44CC(43)      HZ1TT(59)

 

  HZ1SM(44)      LZ34WGI(579)   I5NIC(59)

 

  OE6TLF(59)     EW7LO(579)     TZ1CE(579)

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四国八十八箇所霊場・第八十八番札所『大窪寺』

2020年01月29日 | 四国88箇所霊場

 

        

 

 

 『大窪寺』(おおくぼじ)は、香川県さぬき市多和兼割にある寺院で医王山(いおうざん)遍照光院(へんじょうこういん)大窪寺と号し、本尊は薬師如来、宗派は真言宗大覚寺派である。

 

 寺伝に寄れば、奈良時代の養老年間(717年~724年)に行基が此の地を訪れたとき悪夢を感得し草庵を建て修行したのが開基とされ、弘仁年間(810年~823年)に唐から帰朝した空海(弘法大師)が現在の奥の院にある岩窟で虚空蔵求聞持法を修し、谷間の窪地に堂宇を建て等身大の薬師如来坐像を刻んで安置し、また中国で教えを受けた栄果和尚(アジャリ)から授かった三国伝来の錫杖を納めて、窪地に因み「大窪寺」と名付けたとされて居る。

 

 其の後の、真済僧正が住職の頃、寺領百町四方を結界とし大きく隆盛し、又、女人の参詣を許して観請を授けたので女人高野として栄えた。そして、天正の兵火や明治33年の大火で苦難を受けた時もあるが結願霊場としての法灯を守り現在に至っている。

 

 昨年の正月明けに私達の事では無く、「私達の二人の子供達や孫達の今後の幸せと健康を願う」事を思い、私が急に思い立って始めた四国八十八箇所霊場の巡礼の旅も、年の暮れの12月25日の午後に第八十八番札所の大窪寺で漸く結願した。香川県から直接、発願の地、四国霊場・第一番札所の「霊山寺」に再び立ち寄り納経を済ませ、後は真言宗本山の高野山に出向き納経を終えるのみだが、高野山の冬場は大変なので雪が無く成る此の春に出掛ける予定にして居る。

 

 

         

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四国八十八箇所霊場・第八十七番札所『長尾寺』

2020年01月28日 | 四国88箇所霊場

 

       

 

 

 『長尾寺』(ながおじ)は、香川県さぬき市長尾西にある寺院で四国八十八箇所霊場の第八十七番札所で本尊は聖観世音菩薩。

 

 寺伝に寄れば、天平11年(739年)行基が当地で揚柳に霊夢を感じ、其の木で聖観音菩薩像を刻み、堂宇に安置したのが始まりとされ、その当時は法相宗とされた。なお、寂本の『四国遍礼場記(1689年刊)』には、聖徳太子が創建し、本尊の聖観音菩薩像は空海作で同時に阿弥陀如来を造り当寺を再興したと成って居る。

 

 空海(弘法大師)が渡唐前、入唐求法の成功を祈願し年頭七夜の護摩の秘法を修し、其の七日目の夜に護摩符を丘の上より人々に投げ与えたとの伝説があり、此れは毎年の1月7日の「大会陽福奪い」として今に伝わっている。天長2年(825年)唐より帰朝した空海は大日経を一石に一字写経の万霊供養塔(現存せず)を建立し伽藍を整え真言宗に改宗した。

 

 其の後、幾度かの兵火に寄り堂宇は失われたが、慶長年間(1596年~1615年)に生駒氏に寄って再興、長尾観音寺と呼ばれる。天和元年(1681年)には高松藩主・松平頼常が堂塔を寄進、翌々年には讃岐七観音の随一とし、真言宗から天台宗に改宗される。元禄6年(1693年)には寺領を賜り観音院長尾寺と改称する。

 

 又、静御前が源義経と別れた後に母親の磯禅師と共に此の寺に訪れ、得度したとの言い伝えもあり、静御前の位牌がが本堂の左脇陣にある。

 

  広い境内は手入れが行き届いて奇麗に掃き清められ、私達が訪れた時も6~7人の方々が各、お堂周辺を清掃される姿が見られ頭が下がる思いがした。

 

 

       

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四国八十八箇所霊場・第八十六番札所『志度寺』

2020年01月27日 | 四国88箇所霊場

 

        

 

 

 『志度寺』(しどじ/しどうじ)は、香川県さぬき市志度にある真言宗善通寺派の寺院で四国八十八箇所霊場の第八十六番札所で本尊は十一面観音菩薩である。

 

 藤原不比等に関わる伝説は謡曲『海人』で知られる「海女の玉取り伝説」が伝えられており、境内には「海女の墓」が五輪塔群として現存する。また、浄瑠璃の『花上野誉の石碑』などの舞台にも成って居る。また、江戸時代、当地の出身の平賀源内を長崎に遊学させる為に、当時の住職が尽力したという。本堂の背後で境内の北は瀬戸内海が広がり一つ前の札所である八栗寺のある五剣山と屋島が望める場所に志度寺はある。

 

 本寺の縁起に寄ると、志度浦に辿り着いた檜の霊木を智法尼が草庵へ持ち帰り安置し、其の霊木から本尊である十一面観音を造立し、小さな堂を建て祀ったという。推古天皇33年(626年)創建とされている。

 

 天武天皇10年(681年)藤原不比等が堂宇を増築し「死度道場」と名付けたという。また、持統天皇7年(693年)には不比等の子・藤原房前が行基と共に堂宇を建立し、寺名を「志度寺」に改めたと伝えられて居る。此の海辺は極楽浄土へ続いて居るといわれている。

 

 其の後、巡錫に来た、弘法大師が伽藍の修理に当たったのは弘仁年間である。室町時代には四国管領の細川氏が代々寄進を行い繁栄するが其の後の戦乱に寄り、寺院は荒廃する。藤原氏の末裔の生駒親正に寄る支援などを経て後、寛文10年(1671年)に高松藩主・松平頼重の寄進(本堂・仁王門)など高松藩主・松平氏に寄り再興された。

 

 広大な境内に大きい山門や五重塔や本堂が立並ぶ立派な寺院だが個人的な感想だが、境内に樹木が沢山在り境内の見通しが悪かったり順路が良く解からなかったりして、此れ等を整理したら寺院としての見栄えや立派さは数段アップする様に思い一寸残念な気がした。

 

 

 

        

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四国八十八箇所霊場・第八十五番札所『八栗寺』

2020年01月26日 | 四国88箇所霊場

 

       

 

 

 『八栗寺』(やくりじ)は、香川県高松市牟礼町牟礼字八栗にある真言宗大覚寺派の寺院で四国八十八箇所霊場の第八十五番目の札所で本尊は聖観音像。

 

 八栗寺は、四国八十五番霊場と共に、歓喜天霊場として知られ、木食以空が東福門院から賜った伝・弘法大師作の歓喜天が祀られていて「八栗の聖天さん」と呼ばれている。

 

 寺伝に寄れば空海(弘法大師)が此処で虚空蔵求聞持法を修めた際、五本の剣が天から降り蔵王権現が現れて、此の地が霊地である事を告げた。空海は降って来た剣を中獄に埋め、岩盤に丈六の大日如来の像を刻んで山の鎮護とし五剣山と名付け天長6年(829年)に開基したと云う。

 

 五剣山頂上は眺望が良く八つの国が見えたので「八国寺」ともいわれた。唐から帰朝後、空海は再訪し唐に渡る前に入唐求法の前効を試みる為に、植えて置いた焼き栗八つが皆成長し繁殖して居るのを見て八国寺を「八栗寺」に改めた。

 

 八栗寺は天正の兵火で全焼したが、文禄年中(1539年~1596年)に無辺上人が本堂を再建した。更に寛永19年(1642年)に高松藩主・松平頼重が現在の本堂を再建して、聖観音を本尊ととし観自在院と称する様に成った。

 

 棟礼に寄ると二天文と本堂は三代藩主・松平頼豊が宝永6年(1709年)に再建とあるが、此れは宝永3年(1706年)五剣山の内、東峰が崩壊する大地震が影響して居ると思われる。

 

 八栗さんは「商売繁盛の御利益」でも有名で我が家も小さい商売をして居た関係で私が20代の頃は両親のお参りの運転手として何回か訪れた場所で今回は40年振り位に訪れたが其の頃の記憶は余り無く、初めてお参りした感じ・・・・ただ下の駐車場から山に上がる「八栗ケーブル」は可也古びれて居たが当時、其の侭の状態で懐かしかった。

 

 

       

    

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四国八十八箇所霊場・第八十四番札所『屋島寺』

2020年01月25日 | 四国88箇所霊場

 

        

 

 

『屋島寺』(やしまじ)は、屋島の南嶺山上、香川県高松市屋島東町にある真言宗御室派の寺院で四国八十八箇所霊場の第八十四番札所。

 

 律宗の開祖である鑑真が天平勝宝6年(754年)朝廷に招かれて奈良に向かう途中に当地を訪れて開創し、其の後、弟子で東大寺戒壇院の恵雲がお堂を建立し屋島寺と称し初代住職に成ったという。此の地から1Km程の北嶺山上に屋島寺前身とされる千間堂遺跡がある。

 

 其の後の時代の古代山城屋嶋城の閉鎖に伴い、南嶺の屋嶋城本部跡地に屋島寺を創建したとされる。弘仁6年(815年)嵯峨天皇の勅願を受けた空海は、お堂を北嶺から南嶺に移し、千手観音像を安置し本尊とした。天暦年間(947年~957年)明達が四天王像と、現在の本尊と成る十一面千手観音坐像を安置した。

 

 明徳2年(1391年)の西大寺末寺帳に屋島寺と屋島普賢寺の名があり、当時は奈良・西大寺(真言律宗)の末寺で在った事が解かっている。高松藩主・生駒一正は慶長6年(1601年)に屋島寺の寺領25石を安堵し、近世を通じ、当寺は高松藩の保護下に在った。現在も国有林の部分を除いて、屋島山上の敷地の殆どは屋島寺の所有と成って居る。

 

 此の辺りは『源平合戦』の古戦場があり、昔からの香川県を代表する観光スポットであったが此処を訪れた日が偶々、平日で在った事もあったのか?観光客も余り居らず、可也寂れた感じで屋島の展望台に至る道筋の土産物店の半分は閉店して居り観光客で何時も賑わって居た昔の面影は無かった。

 

 

          

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四国八十八箇所霊場 第八十三番札所『一宮寺』

2020年01月24日 | 四国88箇所霊場

 

        

 

 『一宮寺』(いちのみやじ)は香川県高松市一宮町にある真言宗御室派の寺院で、四国八十八箇所霊場の第八十三番札所で讃岐国一宮の田村神社に隣接する。本尊は聖観音像。

 

 寺伝に寄れば、義淵に寄り法相宗の寺院として大宝年間(701年~704年)に建立され、年号に因み、大宝院と称したと伝えられる。そして、和銅年間、諸国に一の宮が制定された際に讃岐一宮・田村神社の第一別当寺として行基が堂宇を改修し一宮寺と改めたという。其の後の大同年間(806年~810年)に空海(弘法大師)が伽藍を整備し、106cmの聖観世音菩薩像を刻んで安置し、真言宗に改宗した。

 

 天正12年(1584年)の兵火に寄り焼失するも、宥勢大徳に寄り中興される。

 

 延宝7年(1679年)に時の高松藩主である松平頼常に寄って田村神社が両部神道から唯一神道に改められたため、当寺以外に12あったと云われる宮寺は廃止される。唯一共存を許された当寺は、其れまでの神社とは一体で同一場所にあったが、分離され現在地に移転、別当寺は解職され、本地仏で在った聖観音像は当寺の本尊と成り、一国一宮として選ばれていた神社の四国八十八箇所83番札所は当寺が引き継いだ。明治初期の神仏分離より200年も早く神仏の分離が行なわれ現在に至って居ると云う。

 

           

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四国八十八箇所霊場・第八十二番札所『根香寺』

2020年01月23日 | 四国88箇所霊場

 

        

 

『根香寺』(ねごろじ)は、香川県高松市中山町にある天台宗単立の寺院で五色台の青峰(標高449.3m)の中腹(標高365m付近)に位置し四国八十八箇所霊場第八十二番札所で霊場中10番目の高さにある寺院で本尊は千手観音である。

 

 寺伝に寄れば、空海(弘法大師)が弘仁年間(810年~824年)に此の地を訪れ五色台の五つの峰に金剛界の五智如来を感得し密教の修行に相応しい台地であるとし、其の一つである青峰に一宇を建立し五大明王を祀り「花蔵院」と称し、衆生の末代済度を祈願する護摩供を修法をしたと伝えられて居る。

 

 其の後、円珍(智証大師)が天長9年(832年)に訪れた際に山の鎮守である市之瀬明神の化身の老翁に、蓮華谷の霊木で観音像を造り観音霊場の道場をつくる様に告げられた。すぐさま円珍は、千手観音像を彫像し「千手院」を建てて安置した。此の霊木は香木で切り株から芳香を放ち続けた事から、此の2院を総称して根香寺と呼ばれる様に成ったと云われて居る。

 

 後白河天皇から勅願所として帰依も厚く繁栄したが、戦国時代には兵火にあい衰微した、しかし、慶長年間に高松城主・生駒一正が復興、更に寛文4年(1664年)高松藩初代藩主・松平頼重が復興し、其の時に真言宗から天台宗に改宗された。

 

   牛鬼伝説  

 

 江戸時代の初めの頃、此の地には牛鬼(上段最初の写真)がいて、人や家畜に危害を加えていた。其処で弓の名手であった山田蔵人高清に退治を依頼した。高清は3本の弓で見事に牛鬼を退治した。高清は退治した牛鬼の角を切り取り、根香寺に奉納し菩提を弔ったと伝えられ、現在、根香寺には其の牛鬼の角と呼ばれる物と、牛鬼の姿を描いた掛軸が伝わっている。

 

        

  

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四国八十八箇所霊場・第八十一番札所『白峯寺』

2020年01月21日 | 四国88箇所霊場

        

 

 『白峯寺』(しらみねじ)は、香川県坂出市の五色台の白峰中腹の標高280m付近にある真言宗御派の寺院で四国八十八箇所霊場の第八十一番札所で本尊は千手観音。

 

 すべての千支の守り本尊が各お堂に祀られており、四国で唯一の御陵である白峯陵が隣接し、古来より本尊千手観世音菩薩は身代わり観音として、鎮守白峯大権現(日本八天狗の一狗)は開運招福、商売繁盛、勝負事の神様として、崇徳天皇は悪縁切り、芸術、学業の神様として信仰されて居る。

 

 寺伝に寄れば、空海(弘法大師)が弘仁6年(815年)に此の地に訪れ、白峰山頂(標高337m)に如意宝珠を埋めて、仏に供える水を汲む井戸を掘り、衆生救済の請願をした。また、円珍(智証大師)が定観2年(860年)に山頂に輝く瑞光を見て登頂、其の時、地主神である白髪の老翁よりご神託を受け、瀬戸内海に現れた光明に輝き、芳香薫ずる可思議な光を放つ霊木で千手観世音菩薩を刻み、当寺本尊として安置し、仏堂を創建したと伝えられて居る。

 

 後に、長寛2年(1164年)崇徳上皇が讃岐流刑地で没し、遺詔に寄り当寺上の稚児獄上で荼毘に付され陵墓が作られた。其の3年後には西行法師が詣で慰霊の為に法楽を行なった。其の後、建久元年(1190年)後鳥羽上皇に寄り、慰霊の為、陵墓近くに、崩御までの6年間を過した鼓岡の御所である木の丸御殿を移築し法華堂が建てられ、更に応永22年(1415年)に後小松天皇は上皇の成仏を願い自筆の「頓證寺」と書かれた勅額を奉納し頓証寺殿となった。そして延宝8年(1680年)には高松藩主に寄り頓証寺伝と勅額門が再建された。

  

  

          

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四国八十八箇所霊場・第八十番札所『讃岐国分寺』

2020年01月20日 | 四国88箇所霊場

 

        

 

 『讃岐国分寺』は、香川県高松市国分寺町国分にある真言宗御室派の寺院で四国八十八箇所霊場の第八十番札で札所寺院としては「国分寺」と称するのが通例である。奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺の内、讃岐国分寺の後継寺院にあたる。

 

 現在の境内は、創建当時の国分寺の伽藍と重複している。伽藍跡は全国に残る国分寺跡の中でも保存状態が良く、国の特別史跡に指定されている。尚国分寺跡で特別史跡で在るのは、此の寺と遠江国分寺跡と常陸国分寺跡の三箇所のみで、其の他、本堂、本尊、銅鐘が国の重要文化財に指定されて居る。

 

 国分寺は天平13年(741年)に聖武天皇が発した国分寺建立の詔に寄り日本各地に建立されたとされ、此の国分寺も其の頃の創建と推定されている。寺伝では、行基が千手観世音菩薩を本尊として開基したとされるが現存する本尊は創建当時のものでは無く、江戸期以前の作で丈六仏は善通寺の薬師如来坐像と此の本尊のみで、然も立像で在るので四国では最大の大きさと成って居る。史実としての具体的な創建年は定かでないが『続日本書紀』には天平勝宝8年(756年)に「讃岐国を含む26か国の国分寺に仏具等を下賜」との記載が在る事から此の頃には既に整って居たと考えられて居る。

 

 

        

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四国八十八箇所霊場・第七十九番札所「天皇寺」

2020年01月19日 | 四国88箇所霊場

 

    

 

 『天皇寺』(てんのうじ)は香川県坂出市西庄町八十場にある真言宗御室派の寺院で山号は金華山。過去の経緯から院号の高照院(こうしょういん)で呼ばれて居た事もある。本尊は十一面観世音菩薩で四国八十八箇所霊場の第七十九番札所。

 

 境内は崇徳上皇を祀っていた白峰宮に隣接し、白峰宮が崇徳天皇社であったとき其の別当寺であった。現在は、崇徳上皇を祀っては居ないが歴史的経緯から天皇寺の名称を持つ。

 

 伝承に寄れば、古代に南海の大魚を退治しに向かった讃留霊王ら88人の兵士が大魚に船を呑まれて倒れた時、横潮明神が金山の麓にある泉の水を持って現れ、其の水を兵士に飲ませた。すると、全員が命を吹き返して助かったという。其処から此の泉は「八十場(やそば)の霊水」と呼ばれる様に成ったと云われて居る。

 

 其の後、寺伝に寄ると、天平年間に行基は、カナヤマビメカナヤマビコが鎮座される金山に薬師如来を本尊とした堂宇を開創した。さらに後、空海(弘法大師)が八十場の泉を訪れたとき、金山権現の化身である天童が現れ、金山中腹より湧き出る御神水を大師に給仕し、此の山の 仏法を守る様にと宝珠を預けた。大師は此の宝珠を峰に埋め、荒廃して居た堂舎を再興し、其の寺を『摩尼珠院妙成就寺』(まにしゅいんみょうじょうじゅじ)と号した。また大師は、其の霊域にあった霊木で本尊の十一面観音、脇侍 阿弥陀如来、愛染明王の三尊像を刻造して安置した。そして、金山ノ薬師は札所と成り、其れ等の霊験は著しく七堂伽藍が整い境内は僧坊を二十余宇も構えるほど隆盛した。

 

 時代は下って、崇徳上皇は、保元の乱(1156年に起こった皇室の皇位継承問題で対立した崇徳上皇と後白河天皇の対立から起きた京都での武士を巻き込んだ内乱)で敗れ讃岐国阿野郡西庄町に配流となり、長寛2年(1164年)に死去した。其の年の内に、上皇の霊を鎮めるため二条天皇は、十一面観音が本尊であった事も在り、其の跡で此所に崇徳天皇を勧請し御廟が建てられた。また、後嵯峨天皇の宣旨に寄り摩尼珠院は崇徳院永代供養の寺という役割を担わされ別当寺となった。そして、何時の頃から札所は金山ノ薬師から崇徳天皇社と其の別当摩尼珠院となった。故に人は皆、摩尼珠院を「天皇寺」と呼び、崇徳天皇社は「天皇さん」と親しまれる様に成った。また、此の辺りを「天皇」と云う地名で呼ぶように成ったが、恐れ多いので「八十場の霊水」から名をとり、現在は「八十場」と呼んでいる。

 

 明治初年の「神仏分離令」に寄って摩尼珠院は廃寺と成り、79番札所は筆頭末寺の奇香山・高照院が引き継いだ。崇徳天皇社は白峰宮と改称し、また明治天皇の宣旨に寄り崇徳御霊は京都白峰神宮へ戻られた。

 

 私達は立派な鳥居がある『白峰宮』は直ぐに解かったが此の札所の場所が解かり辛くて、可也道に迷った挙句に白峰宮の北側に札所がある事が漸く解かり納経する事が出来た。

 

 

 

 

 

 

 

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四国八十八箇所霊場・第七十八番札所「郷照寺」

2020年01月18日 | 四国88箇所霊場

 

        

 

 郷照寺(ごうしょうじ)は、香川県宇多津町にある時宗の寺院で山号は仏光山。四国八十八箇所霊場の第七十八番札所で本尊は阿弥陀如来。

 

  寺伝に寄れば、行基が神亀2年(725年)に一尺八寸の阿弥陀如来を本尊として道場寺の名で開基した。大同2年(807年)に空海(弘法大師)が伽藍を整備した。其の時に厄除けの誓願を修し大師像を納め、其れが「厄除けうたづ大師」として信仰されていると云われてい る。

 

 仁寿年間(851年~854年)には理源大師が阿弥陀三昧の行を修した。寛和年間(985年~987年)には恵信僧都が釈迦如来の絵図を納め釈迦堂を建立した。正応元年(1288年)には一遍上人が遊行の折に3ヶ月間逗留し「踊り念仏の道場」を開いたと云う。

 

 其の後も栄えたが天正の兵火(1576年~1585年)で堂宇を焼失するも寛文4年(1664年)に高松藩主、松平頼重に寄り復興、其の時の住持と徳川家の関係に寄り、時宗に属し郷照寺と改称した。しかし『四国遍礼名所図会』にも1826年の納経帳にも道場寺と成って居り、四国八十八箇所では珍しい異なる二つの宗派が共存する寺と成って居る。

 

 四国八十八箇所の各寺院の大半は境内全体が掃き清められて奇麗に整備されて居るが特に此の寺院は景観を落とす様な樹木が全く無く、しかも境内に雑草の一つも見当たらず境内全体が非常にすっきりとした感じで素晴らしく、また本坊の裏に池を配した庭園は写真の様に見事に管理、手入れされて居て巡礼者の目を和ませていた。

 

 

        

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四国八十八箇所霊場・第七十七番札所「道隆寺」

2020年01月16日 | 四国88箇所霊場
        


 「道隆寺」(どうりゅうじ)は香川県多度津町にある真言宗醍醐派大本山の寺院で詳しくは桑田山 明王院 道隆寺(そうたざん みょうおういん どうりゅうじ)と号す。本尊は薬師如来で四国八十八箇所霊場の第七十七番札所


 古く天平時代の頃、此の付近は桑園であった。寺伝に寄れば、和銅5年、当地の領主であった和気道隆が桑の大木が夜毎に怪しい光を放ったので其の方向に矢を射ると、矢が乳母に当たり誤って殺してしまった。此れを悲しんだ道隆は桑の大木を切り、薬師如来を刻んで堂に安置したのが起源であるという。


 道隆の子の朝祐は、大同2年(807年)唐から帰朝した空海に頼み、90cm程の薬師如来を彫像し、其の胎内に道隆の像を納め本尊とし、また空海から受戒を受け、第二世住職となって、七堂伽藍を建立し父の名前から「道隆寺」と号した。


 そして、第三世は空海の実弟の真雅僧正(法光大師)が継ぎ23坊を建立、第四世は円珍(智証大師)で五大明王を彫像し護摩堂を建立し、第五世の聖宝(理源大師)の代には大いに栄えた。しかし、貞元年間(976年~978年)の大地震に寄る被害や、康平3年(1060年)の兵火や天正の兵火に寄る災難に在って興亡を繰り返した。


        



  


    
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四国八十八箇所霊場・第八十二番札所「根香寺」

2020年01月15日 | 四国88箇所霊場

 

          

 

『根香寺』(ねごろじ)は、香川県高松市中山町にある天台宗単立の寺院で五色台の青峰(標高449.3m)の中腹(標高365m付近)に位置し四国八十八箇所霊場の第八十二番目札所で霊場中10番目の高さ、本尊は千手観音。紅葉の名所で、其の期間は沢山の人で賑わう。

 

 

 寺伝に寄れば、空海(弘法大師)が弘仁年間(810年~824年)に此の地を訪れ五色台の五つの峰に金剛界の五智如来を感得し密教の修行に相応しい台地であるとし、其の一つである青峰に一宇を建立し五大明王を祀り「花蔵院」と称し、衆生の末代済度を祈願する護摩供を修法したと伝えられて居る。其の後、円珍(智証大師)が天長9年(832年)に訪れた際に、山の鎮守である市之瀬明神の化身の老翁に、蓮華谷の霊木で観音像を造り観音霊場の道場を作るよう告げられた。すぐさま円珍は、千手観音像を彫像し「千手院」を建てて安置した。此の霊木は香木で切り株から芳香を放ち続けた事から、此の二院を総称して根香寺と呼ばれる様に成ったと云われて居る。

 

 後に、後白河天皇から勅願所として帰依も厚く繁栄したが戦国時代に兵火にあい衰退した。然し、慶長年間に高松城主・生駒一正が復興、更に寛文4年(1664年)に高松藩初代藩主・松平頼重が再興した。そして此の時に真言宗から天台宗に改宗された。

 

  牛鬼伝説

 江戸時代の初め頃、此の地には牛鬼(上段最初の写真)が居て、人や家畜に危害を加えていた。其処で弓の名手であった山田蔵人高清に退治を依頼した。高清は三本の矢で見事に牛鬼を退治した。高清は退治した牛鬼の角を切り取り、根香寺に奉納し菩提を弔ったと伝えられて居る。現在、根香寺には其の牛鬼の角と呼ばれる物と、牛鬼の姿が描かれた掛軸が伝わっている。

 

 

         

 

 根香寺の大きい山門を潜り25段の石段を下がり進むと今度は上がりの石段(上段最後の写真)があり、上がって行くと右側に大師堂、左手に納経所があり更に其の先の石段を登り詰めると本堂が見えるが左の薄暗い回廊の中を巡って合計135段上がると本堂に至る他では無い構造に成って居る。

 

 下段3番目の写真は樹齢1600年とも言われ樹幹は7mもあるケヤキの老木であり、香川県の天然記念物に指定されて居たが昭和50年頃に枯死した。平成3年に根切りし、屋根を付けて元の場所に保存されて居る『はっこうけやき』で名前の由来は智証大師が寺院創建の折に此の樹を伝って下りて来た白い猿が大師を手助けしたと言われる伝説に由来する。

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四国八十八箇所霊場・第七十六番札所「金倉寺」

2020年01月12日 | 四国88箇所霊場

 

        

 

 「金倉寺」(こんぞうじ)は、香川県善通寺金蔵寺町に在る寺院で鶏足山宝憧院金倉寺(けいそくざん・ほうどういん・こんぞうじ)と号し四国八十八箇所霊場の第七十六番札所で本尊は薬師如来、宗派は天台寺門宗。

 

 寺伝に寄れば、宝亀5年(774年)に景行天皇の子孫の和気道善(円珍の祖父)が金輪如意(如意輪観音)を祀って一堂を建立し自在王道と呼ばれていた。仁寿元年(851年)道善の子である和気宅成の上奏に寄り、自在王道を官寺とし道善寺と名付けた。其の後、宅成の子である円珍が承和元年(846年)に入唐、天安2年(858年)帰朝した後、故郷の当寺に訪れて長安の青龍寺に倣した伽藍を造営、薬師如来を彫像して本尊とした。861年、伽藍の造営を終え、落慶の斎会に円珍が再訪する。延長6年(928年)醍醐天皇の勅命に寄り金倉郷(かなくらごう)から名前をとり現在の「金倉寺」、山号は釈迦十大弟子の釈葉尊者が入定した山名の「鶏足山」と改め隆盛をきわめた。

 

 其の後、幾多の兵火に寄り重要文化財の自画像と本尊などの宝物以外は焼失、慶長11年(1606年)其れまで無住寺と成って居たが、近くの真言寺院に後見して貰い一時期、真言宗に成るが、窮状を知った高松藩主の松平頼重に寄り、天台宗に戻り再興、慶安4年(1651年)には、智証大師御影堂を始め、諸堂や客殿、庫裏に至るまで再建し現在に至る。

 

 此の地は入唐8家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)で讃岐5大師(弘法・道興・法光・智証・理源)であり延暦寺第五代座主を868年より24年間務め、天台宗寺門派の宗祖である円珍(智証大師)の生誕と知られ、また乃木希典が明治31年(1898年)から3年間、当寺の客殿を仮住まいして居り乃木所縁の品々が展示され、境内には銅像や乃木将軍妻返し松などがある。

 

 

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