黄昏叔父さんの独り言

 アマチュア無線と何でも有りのブログ

 CQ WW Contest の結果 (2012/10/29)

2012年10月28日 | アマチュア無線

 昨日の朝の9時よりCQ WW Contestが始まり 御祭りに参加したが14MHzは余り海外の局が入って居なかったので21MHzで始めたが送信するとパソコンに回り込み誤動作を起こし正常に動作しないトラブルが発生した。(先日まで無線業務に使用していたパソコンが起動不良を起こし予備のパソコンを無線業務用に代用した)以前のパソコンは高周波の回り込み対策は徹底的にしてあったので問題は無かったが代用のパソコンは其れらの対応が全然出来ておらず、運用中に時々、フリーズしてしまう。コンテスト中なのでログはパソコンで遣っていたのだが再起動を掛けると時間が掛かるので運用上、都合が悪く手書きのログで対応、然しながら重複交信のチェックが出来無いので運用しながら彼是と対策を実施、パソコンのACライン、LANコード、モニターのライン等、各、場所にコアーを入れたが完全に直らずイライラ感が募る。



 最終的にキーボードのコードを(確認すると安物の小型のキーボード)確認すると何の対策もしていない安物、「如何かな?」とコードをメガネ・コアに2回程、巻き付けると症状がピタリと止まった。その後は快調に運用、最終的に21MHzのみで参加、610局との交信で終わった。海外もアマチュア無線は衰退しているのか?参加数は年々減少の傾向、珍しい場所からの運用も殆ど無く全体的に低調で有った。

 

 土曜日と日曜日の北米方面のコンディションはまずまずで07時jstから北米は聞こえているが此方の信号が飛んでいないのか?応答率が悪いが08:00~09:30jstの時間帯は平均で1分間に2局以上のペースに成るが長くは続かない。呼ばれなくなると21MHzを下から上へと入念にチェック21.450MHzまで行くと下の21.170MHzに下がり周波数を高い方に上がりながら聞いて交信していない局を見付けると呼ぶパターンを繰り返すこと6回、此の時はパソコンが無ければ重複確認が大変、流石に「文明の利器」は素晴らしい。 パソコンに入っている約15万以上の交信履歴を瞬時にモニターに映し出す。この様に呼び手側に成ると効率は極端に落ちるし3回目くらいに成ると下から上のバンド・エッジまで移動して聞いても有効な局は10局未満に成ってしまうがこの動作を怠る事は出来ない。



 北米方面に比較してヨーロッパ方面は飛んでいない感じ、何度もコールサインを送る様に催促されたり此方が根負けして呼ぶのを諦めるケースも有った。ただ全体的に北米に比較してヨーロッパの局は設備が非力(アンテナ系)な様に思えるので其れ等が関係しているのかも知れない。

 

 今年の春のWPXのコンテストは776局だったので少し実績的には落ちたが楽しむ事が出来たし、此のアマチュア無線を細々と30年間続けると春先のWPXと秋のCQ・WWコンテストで御互いの名前を呼び合い生存確認が出来る局も少しずつ増えている反面、お声を聞か無くなった局も有る。
 

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本日のDXの実績 (2012/10/26)

2012年10月26日 | アマチュア無線

 最近の24MHzのコンディションはソコソコ開けているが07時jstくらいが一番開けている様子で1時間くらいでコンディションは落ちる様に思う。最近は07:00jst頃から聞いているが少し遅い様に思え?明日からはもう少し早めに起きて聞いてみようと思っている。

 

 明日からDXコンテストが始まるが24MHzと比較すると21MHzや14MHzは余り良い様には思えない。周波数の高い24MHzや28MHzの方が安定している様に思える。最近CY0(セーブル島)が出ている。毎年1回程度は運用されるが意外と早くQRTするケースが多いので先手必勝、聞こえている内に呼ぶ事が重要である。



          本日の実績



  CY0/AA4VK   10/26   07:39JST  24MHz  SSB

  HR5/W9LG    10/26   07:40JST  24MHz  SSB
  
  YV8AD       10/26   08:24JST  21MHz   CW

  WA4DAN/CY0  10/26   08:43JST  21MHz  SSB


          其の他



 24MHzで北米の局5局、北米の局は08:30JSTを過ぎると信号が可也落ちるので06:30から20:30JSTがベストタイムのように思える

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桜、御紋の真空管とアンプ

2012年10月26日 | アマチュア無線

 我家には兄が持って帰って来た桜のマークの入った真空管がゴロゴロしていた。言わずと知れた警察関係の放出品、この時代は警察関係の無線機器が真空管式からトランジスター式の機器に時代が大きく変わっていたし周波数関係も使用区分帯が変わっていたので放出品が可也有った様である。

 

 機械類は放出時に悪用防止の為、ハンマーを入れるので機械類は余り見掛け無かったが真空管は抜かれて放出されて居たのだろう6146やUY-807が出回って居たが、其れでも其の道に人脈が無ければ入手出来なかったのだが(古物商や解体処分屋さんに対して)兄には多分知り合いが居たのだろう。不思議とそれらが転がっていた。



 A3の電波形式の時代はリニヤ・アンプの製作も耐圧の高い高周波部品や容量の大きい電源トランスが必要で大変だったが電波形式がSSBに移行すると世の中は段々とハイ・パワー化してきた。当時は12BY7Aや6CL6の小型のMT管を複数本並べて規格外の高電圧を掛けてパワー絞り出す とんでもない製作記事が掲載されたりして水面下で其の様な事が行われていた。メーカー製のトランシーバーもFL-100B辺りから100W出力に成り少し後のFT-400DXに成ると出力は200Wを軽くオーバーする時代に段々と成ってきた。

 

 真空管が有ればリニヤ・アンプが作れるので兄と二人で実験して遊んでいた。この時代はGGアンプ全盛でしかも「ベタコンGGアンプ」全てのグリッド電極は接地し3極管として使用、電源も高圧とヒーター用とカットオフ用のバイアス電源だけでOK、グリッドがアースされる為に自己発信が発生しにくいので面倒な中和を取る必要も無いので回路は簡素化され誰でも簡単に製作出来た。6146の真空管は此の方式には余り適さなかったが其の当時に入手が簡単で有った。807系の真空管はパワーグリッドと言う電極が有り其の電極がカソードと接続されているのだが管内部接続で無く真空管からは独立して出て来て真空管のソケットピンの所でリード線がカソードと半田付けされているタイプの真空管を選びパワーグリッドを独立させアースに落としてベタコンGGアンプにする事を計画した。



 文章に書くと実に簡単だが真空管の球とソケットピンの台座は可也強固な接着剤で固められていて球の部分とピンソケット部を外すのは結構大変な作業で最初にピンに半田付けされている電極リード線をピン足から外し其れが終わると球の管壁とソケット部の接着剤を温めて少しずつ左右に動かしピンソケット部分と球側を外す作業に入るのだが此れは結構大変な作業で有った。うまく外れてもパワーグリッドのリード線が出ていないタイプも有ったが(球の中で接続されて居る)此れはベースを外さない事には解らないので「骨折り損のくたびれ儲け」に成る事も時々有った。

 

 確か1685の欧州品番の807は100%、O・Kで有ったと記憶している。(ひょっとすると1865の型式番号かも??)電極が分離出来ると後は接着剤で元の様にすると真空管の改造は出来上がり。UY-807は最大規格でプレート電圧は最大600V位で80W近い出力と思ったが此の球に1500Vを印加すると電波の質は別にしてパワーは可也搾り出す事が出来た。この球の3パラとか4パラをアルミのシャーシに組んで実験したが成功して其のリニヤで交信をした思い出は無いが、製作段階で色々な失敗をしながら少しずつ賢く成って行った。



 実験の機器の高圧回路の高圧トランスは2次側が1000V、1250V、1500Vの3段階のタップのある。両波整流タイプで電流容量は300mA程度の物で有ったが当時は、SSBの電波形式の場合は負荷電流は倍ぐらい流しても問題無く使える等と言われて居たのでトランスメーカーの標準在庫品を使用していた。

 

 当時、高耐圧大容量のシリコンダイオードは少なくセレン整流器を使用したのだが此の整流回路で電源スイッチを入れると瞬間に管ヒューズが溶断、ダィオードがショートする症状に悩まされた。私達の整流器使用にあっては データに書かれた対電圧と電流値だけしか考えていなかった。余裕の有るサージ電圧の対応策が出来て居なかったしサージ電圧の意味さえ十分に理解出来て居なかった事で、この原因を理解するまでに数個の部品を駄目にした。

 

 また同じ電源回路で使用する平滑用の高対圧オイルコンデンサー等は無かったので耐圧電圧の低い中古の500WV位のブロックコンデンサー数個を直列接続にして使用したが各コンデンサーに均等に分圧する対応が悪くパーンと言う大きい音と共に内部のアルミと絶縁物が飛び出しビックリしたが何よりも部屋中に臭いが充満し1日中強烈な臭いに悩まされる事等を体験した。



 リニヤアンプの製作に成功し交信に使用出来る程度に成ったアンプは3P50を使用した物、此の球は自然空冷で使用出来る本格的な送信管、船舶用の小型CW送信機に使用されA3電波の低電力変調(サプレッサー変調)が可能な様に真空管の頭にプレート電極とサプレッサー電極が飛び出した変わった格好の真空管で有った。

 

 この球は其のままの格好で使用出来たのでパラレルで組上げた。電圧は1200V位掛けていたので送信出力は200Wから300Wの間の出力であったと思うが?パワー計など有る筈も無く全て予測の世界、調子をこいて7MHzで運用していたらHL5COが呼んで来て交信が始まったが開口一番『貴方の電波非常に強いネ、でも電波汚いネ』と片言の日本語で言われて大変ショックを受け直に其のリニヤアンプ(ひずみアンプ)解体してしまった事が有った。

 

 其れ以降は572Bを使用したアンプに取組み3-500、そして8877と進み、段々と進化して行く事に成った。今思うと随分と無茶な事をしていたと思う。其の頃の私の事を知ってる人は居ないと思うが私が今のコールサインにした理由は少なからず其の事が関係している。
 

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ブログ書込み用パソコン不調

2012年10月25日 | 日記

 昨日夕方に10MHzで運用中にアンテナを切替間違いし18MHzの八木が接続されている状態で電信を打ったらパソコンに回り込んだ様でインターネットの画面でツールバーが消えたり、ターボ・ハムログの入力画面は出るのだが入力作業が終わると入力画面は消え、本体側のログ帳画面が出ず、おかしな動作をしていたので2回ほど再起動を掛けたが矢張り同じ様に上記の症状が出たので深く考えずにシステムツールの3日前に正常終了した状態に「システムの復元」を利用した。

 

 再起動してシステムの復元は「正常に復元されました」のメッセージが出たのでエンターキーを押すとウインドウズは立上がっている様なのだが グリーンの丘と、青空に白い雲の画面は出るのだがアイコン類が何も表示されず右下の「スタート」も表示されず バック画面の状態で先に進まない状態のトラブルが発生、数回、再起動を掛けても同じ状態で困った事に成ってしまった。OSを入れ直す事も考えたがOSのDVDが見付からずトラブルを解消出来ていない。従って午前中にブログを書くことが出来ず 急遽、別のパソコンを引っ張り出し各種設定を終えて漸くブログが書き込める状態になった。



 此処しばらくパソコンのトラブルは無かったのだが、思わぬ所でトラブルに遭遇し気持ちはブルー、明日は少し気合を入れて直そうと思うのだがOSの入ったDVDデスクを見付けるのが先決、日頃の保管の悪さを思い知らされた。しかしパソコンの配置換えを1年振りにして机の周囲が少し綺麗に成った。序でにSSTVとRTTYのソフトを入れ、何時でも運用できる体制に久し振りにしたがT30PYはQRTしたのか聞こえていない。一足遅かった様で残念、T30PYといえば18MHzのCW、コールバックが有ったのにオンライン・ログに印が付いて居ない。SSBも可也前に交信して居たのにログに載らず、念の為、保険QSOしてセーフと成ったがCWは出来なかった。今回は21MHzも同じ事が有り少しタイプミスが多いように思う。コールバックは確り確認出来たのでパソコンへのタイプミスと思われる。

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無線再開と庄野さん(JA5HT)との出会い

2012年10月24日 | 日記

 1970年の9月頃からアマチュア無線を再開、FRー50BとFLー50Bのコンビで運用していたがこの時代はVHF帯での運用が多かった様に思う。勤務先は徳島市内であったので朝夕、其々40~60分の通勤時間があったので其の時間を利用してモービル運用を楽しんでいた。確かトリオのTRー1000やTRー5000の時代であった様に思うが私は仕事關係でタクシー無線(業務無線)の周波数が変わり廃棄処分の無線機を改造(水晶振動子を交換)して使用していた。終段は真空管で有った為、バッテリーからインバターで昇圧していたが其の頃のバイブレーター電源は接点を高速に切替ていたので(完全半導体化されていなかった)接点焼けが時々起きたり、作動中はピィ~ンと連続音が出て可也うるさかった事と電源S・Wを切り忘れたら直ぐに自動車のバッテリーをあげてしまう代物で有った。勤務先の技術職の先輩は全員アマチュア無線の資格を持って居たので通勤途上の道路の混み具合や警察の取締情報等を連絡し合っていた。



 其の頃、兄はJRCのタクシー無線機を改造して(同じく水晶振動子を送受交換したスポット周波数)144MHz帯で運用していた。当時はメーカー製の本格的なトランシーバーが出回って居なかったし徳島の田舎では144MHzで運用する人も殆ど居らず其の後に呼び出し周波数に成った周波数で夜な夜なローカル・ラグチューをしていた。其のメンバーの中に庄野さん(JA5HT)が居て話をする機会があった。この方は隣町の人であったが全市全郡のコンテストで全国で優勝したり準優勝する実力の人でお空で声は聞く事が有っても、お声掛け出来ない程の雲の上の人で有ったが兄と歳が近かった事もあって兄とは知合いだった。



 兄と庄野さんの接点は私が大阪に行っている間に知り合った様だが当時、各家庭には電話は引かれて居なかったが農協が推進していた有線電話(正しい字かどうか解らないが)が有り交換台を通して加入者同士の話が出来たり、町内の連絡事項を放送するシステムが有った。其の回線に兄の送信するA3電波が混入したか何かでの対応で地元の技術担当者では対応できず隣町の有線設備の技術面を担当していた庄野さんのお出ましで解決したらしく それ以来の付合いの様子、何かの機会に兄の車に同乗して御宅に伺い初めてゆっくり話をする機会が有り、それ以来親しい付合いが始まった。

 

 庄野さんは私の事を「太郎、太郎」と呼び捨てにしたが弟の様に可愛がってくれたし、ほかのアマチュア無線をやっている人にも「わしの舎弟」と紹介してくれた。何か最初は第三者がヤクザの兄弟分の様に思わないか?気になったが此の辺では自身弟の事を舎弟と言う人も居たし、庄野さんも自身弟を舎弟と表現していたので安心して納得する事にした。

 

 近所の局の噂話では気難しい人と聞いていたが気心が知れると何でも話が出来る人で有ったし、昔は叔父さんの経営する電気店で技術系の仕事して居たので共通の話題も多かったし其の時の取引の関係か?私の勤め先の会社の社長を「オヤジ、オヤジ」と呼んでいたし私としては少し有難迷惑であったが「彼奴はわしの舎弟なんで給料を上げてやって、宜しゅう頼むでよ」等と遠慮せずに平気で言っていた。



 初めてお逢いしてから休日などに近くを通ると必ず訪問していたが行くと仕事をしていても必ず中断して無線談義に花が咲き、特にコリンズとDxとリニヤアンプの話に成るとエンジンが掛かり昼訪問すると夕食を御馳走に成り帰りは10時~12時は常で有った。その為私が行くと奥さんは何時も「太郎さんが来たから今日はお父さん仕事に成らないね」とよく言っていた。庄野さんはドチラカト言えばブッキラボウな話し方で御世辞や上手を言う人では無かったので深く付合わない人は気難しい人と感じたのかもしれない。



 庄野さんのハイパワーは有名で其の信号を私が就職して居た大阪の寮で(21MHzで唸りっを上げて来ていたが)59プラスで聞いた事が有ったが私が大阪から帰った段階で(1970年頃)検証したら正体は4-1000Aパラレルの自作のアンプが部屋に鎮座していた。部品関係も倉庫の2階に上がると無線のジャンクが所狭しと並んで折、当時珍しかったセラミック球等、其処ら辺りに無造作に散らばっていた。しかし此の2階には誰でも入れず其処に上がれるまでに数年を要した。一度部品の入手先を聞いた事があったが其れだけは笑っただけで教えてくれなかった。

 

 巷では「米軍の飛行機が飛んできてパラシュートで落として行く!」等と誠しやかに冗談が流れていたが故人と成った今、其の入手方法を確認する事は出来ない。無線とお酒が大好きな豪快な実に愛すべき人で有ったが夜中に電話が掛かって来て酒の飲めない私に「舎弟、今・・・のスナックで飲んでいるので今から出て来い。」の電話が掛かるのだけには閉口した。若くして逝き今、存命ならもっと大人の御付き合いが出来たのではと思うと残念で成らない。とにかく庄野さんと出会わなかったらDxを遣る事も無線の奥深さを知る事も無かったと思う。私は其の意味で無線の世界で庄野さん(JA5HT)と学生時代からの島さん(JA5BIF)の二人の良い師匠に恵まれたと思って感謝している。



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徳島に帰っての就職活動と無線再開に向けて

2012年10月23日 | 日記

 私は徳島に帰ると先ず最初に自動車学校に入り運転免許証を取る事に、大阪で生活していると交通網が発達している為に運転免許証は必要無かったが徳島に帰ると何処に行くにも就職するにしても運転免許証は必須、毎日、自動車学校に詰めて車が空いていれば1日に乗れるだけ乗って最短で免許を取得したが大体約1ヶ月掛かった。

 

 此の時期、就職活動はしていたが自分の遣ってきた来た事が活かせる仕事は県外には有ったが県内は余り無かったので少し焦りもあったが次の就職先は定年まで勤めれる会社を条件に探したので実家で約5ヵ月間居候をさせて貰った。両親は何も言わなかったが此の間が私には一番辛い時期で有ったが8月の終わりに条件の良い会社の求人が有り、試験会場に向かうと20人以上の方が試験会場に来ていた。合否は面接試験だけと思っていたら一般常識と国語と数学と簡単な英語の試験が有ったのには恐れ入った。

 

 私は数学の解答用紙を提出する段階で諦めムードで有ったが最終の面接試験まで残れたので少しは明るさが見えたが面接室に入ると会社の幹部10人位ずらりと並んでいて矢継ぎ早に色々質問されたが前の会社での職歴の質問が多かった。私は歳は若かったが前の会社ではラジオの生産ラインの(80人位)NO-2を任され上司はいつも事務所の机に座って居たので現場の問題は殆ど自分が処理していたし毎日、朝礼では全員の前で話す事は日常茶飯事だったので臆する事なく仕事内容を説明すると皆さん驚いていた。

 

 後日解かった事だが此の会社の従業員は管理職を含めて160人位であったので21歳の若造から出た言葉が理解出来無かったと思う。部長クラスでも部下は10~15人位しか居なかったのだから・・・・・・・ただ会社の格とか人材の程度は天と地の開きが有った事は言うまでもない。流石、一流(徳島県内の話)と三流の差が有った。何はともあれハッタリが効いたのか?後日、出社日の記載された採用通知が届き徳島での会社勤めが始まった。



 初出勤の日、昭和45年9月9日は社会人に成って初めて背広姿での出勤、前は工場だったので会社に背広姿で出勤する事は一度も無かったので凄く大人に成った気がした。(前の会社は学生服で初出社した)採用人員は5名(男子4人女子1人)この会社には40年近く勤めたが其の後に本格的な試験付きの途中採用試験は一度もなかった。丁度この年の8月に新社屋が出来て人員の補充が必要に成った様で途中採用試験が偶々されたらしく此の時ばかりは『世の中に神も仏も居る事を実感した。』



 仕事内容は関西の家電メーカーのサービス・ステーションで配属は技術部、技術課、名前は仰々しいが全員で25人位の部所で有った。仕事の内容は取引先の販売店さんから持込まれた故障した商品の修理と販売店さんへの新商品の説明や技術講習会を開いたりする事が中心であったが需要家さんからのメーカーへの苦情の受付や現地対応も行っていた。翌日先輩から前の仕事を尋ねられて「ラジオの生産ラインで仕事をして居ました。」と答えたらラジオの修理品を指差し、「どれでも良いから修理してみろ」と言われた「腕試しだな」と思って此処は頑張らねばと2時間位で3台位直したら相手の私に対する態度が変わったのがハッキリと解かった。入社仕立てで商品のテクニカル・ガイドや部品センターの部品展示状況も慣れない中での修理なのでマズマズの成果、此の儘ラジオの修理担当かな?と思ったら2~3日後に花形の商品のテレビ担当に成った。

 

 この頃はカラーテレビが普及し始めた頃で、全数真空管で組み上げられたテレビとハイブリッドタイプ(高圧回路のみ真空管で其れ以外はトランジスターで組立られた製品の切替わり時期で有った為、年配の人がトランジスター技術に追従しづらく成って来て居たので若い人を補充する事が今回の採用目的であったらしい事が其の後に何と無く理解出来た。



 会社務めが始まると無線機の箱の封印を解き、親に気兼無しにアマチュア無線を再開する道が開けた。此処から29歳まで結婚もせずにアマチュア無線を楽しんだ。

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本日の24Mhzコンディション (2012/10/22)

2012年10月23日 | アマチュア無線

 本日の24MHzのコンディションは全体的に昨日程は聞こえ無かったが反面カリブ海方面は昨日よりは良く聞こえた。日々のDXコンディションは細かい上下の変化はあるが比較的良く聞こえているので要注意である。

 

    今日聞えたDX局



 V31MW      06:59j    24MHz   SSB

 WP4U       07:03j    24MHz   SSB

 CX3AT      07:13j    24MHz   SSB

 KP4BD      07:17j    24MHz   SSB

 YN2N       07:19j    24MHz   SSB

 8R1AK      09:56j    24MHz   SSB


 その他にアメリカを10局ばかり24MHzのSSBで交信したが昨日の様な強力な信号は少なかった。8R1AKは各バンドで時々聞こえるが信号は此の地区からは珍しく強力に入っていた珍しのでは?
 
 

 
    

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 就職とアマチュア無線

2012年10月23日 | 日記

 昭和43年就職先の大阪にある会社に入社、社会人に成ったが当時の会社の寮生活は一部屋で3人の生活、田舎で自由気侭に過ごした私には窮屈な事も多かったが楽しい事も多かった。クリスマスパーティや慰安旅行は大勢で盛上り特に女子社員が80%以上だったので男社会の工業高校時代と違い華やいで居たが仕事の面では可也厳しい会社で有った。

 

 私の配属された本社には白黒テレビの製造ラインが2本とラジオの製造ラインが4本有り、私はテレビ部門の配属と思って居たが(卒業研究がテレビの回路解析)予想外にラジオに配属されたが此の事は私には幸運で有った。当時の白黒テレビは真空管で構成されていて当時はトランジスター化されていなかったので真空管の技術で有ったがラジオ部門はトランジスター化され一部、集積化が始まって居たので学校で勉強しなかったトランジスター回路やIC回路の勉強が出来た事と技術的に優れたI先輩と一緒に仕事が出来た事、先輩は同じく趣味としてアマチュア無線をしていたので仕事には厳しい人で有ったが個人的には50MHzの移動運用に一緒に出掛けたり何かと目を掛け可愛がってくれた。

 

 最初の段階では別の部所で有ったが先輩が退社する前の数ヶ月間はマンツーマンで工場内NOー1の技術を授けてくれた。先輩によく言われた言葉は『お前は感覚と経験で修理をしている事が多い、其れも必要だが一番大事なのは基礎的な理論、難故障や設計不良による回路対策はそれが無ければ行き詰まるぞ』であった。先輩の技術の如何程を吸収出来たか?甚だ疑問では有るが其の後42年間、家電のサービスに身を置いて恙無く過ごせたのも先輩の御蔭と今でも感謝している。私が此の世界に身を置いて多くの技術者と御縁が有ったが学校の島先輩と最初の会社の池田先輩、そして転職した家電のM社(現在はP社に)のサービス会社の上司の加藤さんには技術面で多大な影響を受けたが皆さん三人三様、アマチュア無線をこよなく愛する人達で有った。



 入社して2年目に成ると同期の長谷川君と二人部屋に、そして次の年には室長に成り後輩と二人部屋に成ると晴れて思う様に寮生活が送れる様に成り少し蓄えも出来たので無線病が再発し大阪の日本橋の電気街に行きFLー50BとFRー50Bを持って帰り当時、寮内では御法度のアマチュア無線を隠れて始めた。最初はコソコソ遣っていたが調子に乗って活発に遣り始めたら隣の小父さんから「テレビから変な声が聞こえる!」とクレームが入り寮長が調査して遂に御用と成った。

 

 当時、以前の寮友の長谷川君と私は自他共に認める優良寮生?軍隊上がりの酒を飲んだ寮長に期待を裏切った事で、こっぴどく怒られた。隣の小父さんとは其の後、仲良く成り御夫婦にお子さんも居なかったので食事の招待を受ける仲に成ったが寮での無線運用は厳禁で解禁される事は無かった。



 一度再発した無線病は治る事なく病状は更に悪化、彼女でも居たら踏み止まったのだろうが、最終的に私から無線を取ったら「生きる屍状態」抑も都会生活は私にはソグワナイと思い始め退社する気持ちを固めた。そして丸三年勤めた3月25日会社を退社、一週間の信州を一人旅をし、リフレッシュした後、徳島に帰った。「若気の至」と言えば其れまでだが、ある意味大きい人生の梯子の掛け替えで有ったが今の私には自信を持って良き選択だったと思うし後悔も無い。

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 開局後の受信機の変遷

2012年10月23日 | アマチュア無線

 昭和41年(1966年)8月15日に個人局を開局して運用を始めたが何故か8エリヤだけは交信する事が出来なかった。当時は空中線電力は10Wで運用周波数は3.5~7MHzの2バンドだけ、アンテナはフォールデッド・ダイポールで非力な設備では有ったが北海道との交信は実に3ヶ月近くを要した。

 

 ローカルの局に其の事を話すと暫くの間、私の運用を同時に聞いてくれて数日後の運用時に「北海道が呼んでるよ」教えてくれた。当時はVFOも無く3.5MHz帯は3.25MHzの水晶振動子のスポット周波数のみ7MHz帯は2逓倍した7.050MHzのみで有った事も理由の一つで有ったが本当の原因はもっと本質的なもので有った。受信機の感度が悪かった為、呼んでくれる人は居たのだが聞えなかったのだ。

 

 其処で対応策としてRF増幅付きのコンバータを兄が自作する事に成り二人で回路を探したがクルスタル・コンバータータイプと自励式タイプとあったが多バンド(7、21MHz)と成ると水晶振動子が2個必要で田舎で特殊な周波数の水晶振動子は入手困難で入手が可能でも高額で、かつ納期までの期日が必要で有ったので自励式のプラグイン・タイプを製作する事にした。

 

 此の装置はRFコイルと局発のコイルをバンド毎に差替え周波数変換し1.5MHzで出力、親受信機は1、5MHzに固定し自励式のコンバーターのダイヤルを回して各バンドの目的の信号を受信する(ダブル・スーパーにする)方式、早速、兄がコイルを巻いて回路を組んだら即、正常に動作したが、当時はシグナル・ゼネレーターやデップメーター等は持って居なかったので信号の受信は出来るのだが製作記事の通り回路を組みコイルも記事通り製作してもバラツキによる誤差で現在受信している周波数が解らず取り敢えず強い海外放送にチューニングし1時間以上聞いてID信号と周波数のアナウンスで受信周波数が初めて解かった時は万歳三唱もの、確か12MHz帯の周波数で有った事を記憶している。後は7MHz帯で送信し周波数目盛盤にマークを入れ完成した。



 翌日からは此の受信体制で臨むと自力で8エリヤとの初交信に成功、其の後、開ける時間帯さえ合わせれば面白い様に北海道との交信は出来た。そして其の後、デリカから出ていた自励式の(箱に入ったバンド毎のコイルパック入れ替える)コンバーターを誰から借りたか忘れたが使用したりした。

 

 そして其の年の10月には兄も国試に合格したので気合が入り、ある日、突然にテン(神戸工業)のプロ用の受信機(船舶で使用していた)を持帰り、それが机の上に鎮座すると重厚感が有りTXー88Dが可也貧相に小さく見えた。開局して僅か4ヶ月で可也のスピードで無線設備は進化し前後して自作のVFOが完成し、バンド内で何処でも出られる様に成ると共に待望の21MHzや28MHzでも十分実用可能な無線設備と成った。



 翌年の昭和42年(1967年)3月、無事卒業、同月、就職先の大阪に向かったが家を離れる寂しさも有ったがそれ以上に無線が出来無く成った事が悲しかった。其の後に初めて実家に帰省した8月にはFLー50Bと小林無線の船舶用受信機が机に鎮座していた。流石、世界の小林無線、前面パネルの面構え、ダイヤルの回転のフィーリング、そしてSSBの信号を捉えダイヤルの回転に伴う復調音の素晴らしさ、神戸工業も其れ成りに良かったが世界が違っていた。


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学生時代の頃

2012年10月22日 | 日記

 先日、開局当時の事を思い出しながらブログを書いたが開局時期が間違っている可能性を感じたので古い免許証を探し出し確認すると電話級が昭和41年5月25日、電信級が42年1月7日付の交付に成っている。やはり個人局の開局は高校三年生の夏休み中の8月15日に間違いが無い様である。(開局日が終戦記念日だった事はハッキリ記憶していた。)少し疑問を感じたのは この時期の開局とすると学生時代に個人局を運用したのは約7ヶ月しか無く、その割にはアマチュア無線を謳歌した思い出が有るので其の様な短期間で色々と行えたのか?疑問があったからである。



 とにかく無線部に入部してからは勉強はした記憶がない、アマチュア無線の国試に合格する為の勉強はした記憶が有るが自慢には成らないが他の専門科目は試験前の一夜漬け専門、当然ながら成績は並、低空飛行の連続で有った。ただ当たり前の事だが授業は人並み以上に熱心に聴く方で有ったと思う。ただ同級生は90人位居たが「どうしても電気科に行き電気を勉強したいとかアマチュア無線を遣りたいので電気を勉強する、電気しか考え無かった」との気概を持って入学して来た生徒は少なかった様に思う。(気概を持って居たが其れが表面に出なかったのかもしれないが)

 

 その中で樫福君(JA5BRN)と栗本君は(JA5CBA)特別な存在で有った。その他にオーディオ・アンプを弄る組みが2~3人いた様だが其れ以外は電気を勉強の対象と捉えても真空管で回路を組む様な連中は少なかった様に思う。2年生から実習が始まり5~6人のグループに分かれて行うのだがグループ分けは出席順でしかも「あいうえお」順に成るので3人は同じグループで喧々諤々で大変楽しかった。

 

 3年生に成ると其々の自分のやりたい課題や就職に関係ある課題に取組み其々、個人課題に取組んだ。樫福君は就職先から与えられたマルチバイブレーダに取組んで居たが時々徳島県で初めて出来た無響室(音の反射が無い部屋)に閉じ篭り催眠術の研究をしたり心理学的な事に興味が有ったようだ。栗本君は無線通信関係の会社に行ったのでアンテナ関係に取組み屋上を走り回っていた。そして彼だけは柔道部にも在籍し確り汗を流して体を鍛えていた。

 

 私はテレビとラジオを生産する会社に内定していたので白黒テレビの廃品倉庫に入浸りテレビの構造や回路動作に付いて取り組んでいた。授業以外の昼休みや放課後は無線室に直行しマイクの取合いをしていた事が懐かしい。樫福君は就職後、自分で自動制御の会社を設立し社長に、栗本君は無線通信の会社に就職後、大学に進み、学校の先生に成ったと聞く、其の意味では私が一番落ちこぼれと言えよう。



 私の場合、成績から言っても一流企業を受ける資格も無かったし中堅か三流クラスの会社が分相応と思っていたし入れば学業に關係なく人並みに遣って行くだけの自信は不思議と有った。



 私が今、学生時代を振返ると学校行事での思い出など殆ど思い出せない、唯一、ハッキリ思い出すのは東京への修学旅行の自由行動の日に例の三人組で秋葉原の電気街を見学に行った事、まだまだトランジスターの時代では無く屋台で真空管を売っていた事を思い出す事くらい。学生時代は「無線三昧」で過ごした。とにかく思い出すのはアマチュア無線の事ばかりである。

コメント (1)
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