今日は私の母親の命日で昼過ぎに実家に行き仏壇に手を合わせて来た。母親が亡くなったのは平成4年の此の日で74歳だったので存命で有れば調度100歳を迎えていた事に成る。事実、私の知る限り母親は寝込んだ事等は一切記憶になく実に元気で寡黙な人だったが野良仕事をすれば近所の誰にも負けない仕事人であった。隣町の大きい農家の七人兄弟の長女に生まれ小さい時から腰まで浸かる水田が大半の農地での稲作仕事で苦労をして居た関係で我家の様な足首を取られる程度の水田での仕事は楽で幸せな事だと常々言って居た。大正の生まれなので舅や姑に逆らう事無く只管仕え頑固一徹な親爺に逆らう事も無く辛抱強く私達5人兄弟を育ててくれた。
祖父の放蕩生活で家が傾き掛けたのを両親が必死で食い止めて5人の子供達を一人前に育て(私だけは出来損なったが)一番年下の私が結婚して新宅した時には「私達の時代で漸く此の家の分家が出来た」と喜んでくれ私に男の子が生まれた時には一番喜んでくれた。そして70歳代に成ると生活も安定し結婚50周年を其々私達兄弟夫婦と孫12人の合計22人に囲まれて盛大に祝ったが数年後の此の日の夜に道路を横断中に交通事故に遭い其の侭帰らぬ人と成って仕舞った。元々元気な人だったので100歳は無理でも親爺以上の長生きは出来たのでは?其れを思うと残念で成らない。
私達が子供の頃は何処の家でも戦後の大変な時代で苦労をしたと思うが両親が特に苦労をして居た様子は子供心にも後姿を見て解かっていた。農家だったので食べる事の苦労は余り無かったが暮らし向きは周囲寄りは劣って居た様に思え質素倹約を旨とした生活であった。未だ此の時代は農家には良き時代であったが戦後の復旧と共に農家の良き時代は終わり農業の収入では限界を感じた両親は小さいながらもセメント二次製品を作る仕事を始めた。子供の教育費が掛かる頃は親父は農繁期以外は出稼ぎに行き、母親はセメント製品を作る家業を女手一人で守った。此の苦労が実を結んで生活は徐々に楽に成り両親がアルバイト的に始めた家業は「日下 巴商店」に成長し、やがて長兄の力で環境計測を行う「株式会社 日友テクニカル・サービス」へと発展し親父は初代社長に就任した。残念ながら母親は此の良き日を迎える事は出来なかったが91歳まで天寿を全うした親爺は親爺流の平静さを装っていたが此の良き日を迎え嬉しかったに違いない。
そんな事を考えて居たら私も後2週間もすれば70歳の大台に成る。私には此れと云う とり得は何も無いが両親の御蔭で体だけは丈夫なので親爺の寿命を抜く事は無理だが何とか母親の寿命は越さねばと思って居る。此れから先何が起こっても不思議でない年代の日々を迎えるに当り一日一日を大切にせねばと気持ちを新たにした。