パオと高床

あこがれの移動と定住

ヨン・フォッセ『三部作』岡本健志 安藤佳子訳(早川書房2024年9月15日)

2024-10-26 10:31:08 | Weblog

2023年ノーベル文学賞受賞のノルウェーの作家ヨン・フォッセの小説『三部作』。
1959年生まれだ。

彼は、ニーノシュクという「新ノルウェー語」とも訳されるノルウェーの二つの公用語の内の一つを使って
創作活動を行っていると解説に書かれている。
邦訳の『だれか、来る』の解説も懇切だったが、
この本の解説もそうで、この言語のことが書かれている。
それによると、もうひとつがブークモールといって
デンマーク語の書き言葉をノルウェー語の発音に合わせて変えていこうとしたもので、
ノルウェー人の9割程度はこちらを使用し、
残りが中世以来日常的に使用されていた言葉を基に創造されたニーノシェクを使っている
ということだ。

戯曲『だれか、来る』も、面白かったけど、この連作短編三つは、すごすぎる。
第一部「眠れない」では、十七歳のアスレとアリーダが、
部屋を借りようとビョルグヴィンの街をさまよう場面から始まる。
すでに演劇的な緊張感が漂い、なぜ2人がここにいるのかが語られていく。
第二部「オーラブの夢」では、第一部の謎の部分が解き明かされながら、過去が仮借なく2人を追ってくる。
そして第三部「疲れ果てて」は一部と二部が織りなした時間がさらに重層的に重なりながら、
一部と二部の先の時間が描かれる。

織りなされるストーリーの重なり、生者、死者の交感。時間の交錯。
そして、執拗に繰り返される自問と自答。そのモノローグによって起こった事態が読者に伝わってくる手法の見事さ。
モノローグでありながら繰り返される相手とのダイアローグ。
不思議なポリフォニーも聞こえる。
訳者は原文を考えながら、意図的に句点を排していく。
この自問自答の詩的な繰り返しは、流れを生むと同時に、
不思議な間、呼吸を生みだす。
そこにイメージが立ち現われ、演劇空間が築かれていく。
人物の移動や心理が観客に伝わるように文字で再現されていく、
で、文字の持つ想像力を喚起しながら余韻を残すのだ。
例えば、こんな

  アスレは二人の所有物のすべてである荷物を肩にかけ、フィドルケースを手に持つと、さあ出発しようと言い、
  ブローテを下って行くが、どちらもひと言も発せず黙々と進む、煌めく星と輝く月の出ている澄んだ夜気の中、
  二人はブローテの坂を下るとそこには船小屋があり、船の準備ができている
   船に乗ればいいのね
   そうだよ
   でも……
   安心して乗ればいい
   船に乗って、ビョルグヴィンまで行けるんだ
   心配しないでいいんだよ

と流れる。それから自問自答とダイアローグの心の中での交錯は、こんな感じだ。

  ありがとう、本当に心からありがとうと彼女は言う、あなたはとても優しい、私の素敵な人、アスレは答えて言う、
  これからは何もかもうまくいくよ、そして彼女は言う、もう横になったので眠るわね、寝る場所もできたし、しかも
  ここは暖かいの、私も小さなシグヴァルドもみんなうまくいっている、すべてがこの上なく順調だからとアリーダは
  言う、そしてアスレはさあもう寝ないとだよと言う、アリーダはではまた明日話しましょうと言うと、

これが、その場でではなく、時間と場所を越えて交わされている対話なのだ。しかもアリーダの心の中で。

北欧フィヨルドの空気が横溢し、その複雑な海岸線が人の心の襞や運命を表しているようで。
演劇的ダイナミズムと小説ならではの内面描写と飛躍を持ったお見事な小説でした。
是非ものの一冊です。
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エミネ・セヴギ・エヅダマ『母の舌』細井直子訳(白水社 2024年9月10日)

2024-10-13 10:38:07 | 海外・小説


作者は略歴によると、トルコ生まれで、65年の18歳の時にベルリンで2年働き、その後トルコに戻り、
75年、軍政を逃れて再びドイツへ。東西ドイツやフランスで舞台監督助手などをしながらドイツ語で作家活動を始めたとある。
1946年生まれだから、今年78歳なのかもしれない。

「わたしの言葉で、舌は『言葉』の意味」と書き出される小説「母の舌」は、
どこで母は舌を無くしたのかと問いながら母語に向かうためにアラビア語を学ぼうとする。

また、その短編の次にくる小説「祖父の舌」では、そのアラビア語の師によって溢れるような文字に出会い、
アラビア語とトルコ語の類似と違いを見つめながら、師との愛情関係も描かれていく。
言葉と共に愛に出会い、その出会いは主人公の内面も目覚めさせていく。
師の持つアラビア語とイスラム教、アッラーの戒律、言葉と、主人公の持つ愛や内面との葛藤が、
詩語やダイアローグを含みながらイメージ豊かに描かれる。

文章はわざとのように辿々しいドイツ語で書かれているのだろう。
これを訳すのは、大変だっただろうと思いながらも、訳文のインパクトは強い。

  わたしはカーテンをわきに寄せて、文字たちと一緒にこのモスクの中に座った、文字たちは絨毯の上で寝そべってた、
 わたしは彼らのとなりに横になる、文字たちは休みなしにいろんな声でおしゃべりしあって、わたしの身体の中で眠り
 こんだ獣たちを目覚めさせた、わたしは目閉じる、愛の声がわたしを盲目にするだろう、彼らしゃべりつづける、
 わたしの身体がまるで真ん中で切られた柘榴みたいに開く、地と穢れの中、一匹の獣が出てきた。

と、こんな感じ。すごいでしょ。助詞をわざと省いたり、誤って使ったりしながら、訳しだす。
随所に思わずうなるような表現がある。

  愛は軽やかな鳥、いずこへもたやすく舞い降りる、されど飛びたつ翼のいかに重き。

とか。
あっという間に読める短編二つ。
読後感が印象深く残る。
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北村薫『慶應本科と折口信夫 いとま申して2』(文藝春秋 2014年11月25日)

2024-10-09 02:13:20 | 国内・小説

北村薫の『いとま申して』3部作の2作目。
北村薫の父が残した日記から掘り起こした、
1920年代後半から30年代への時代のある一場面。
一場面と書いたけれど、それもちろん一場ではなくて、いくつもの場面が織りなされながら、
どんな時代でも
そこに生きている自分自身の生活があって、それが時代の中での
実感を伴った「私」の生活であって。
それを評伝のように、日録のように記述していく。
時は世界恐慌から満洲事変、日中戦争へと流れていく。
不景気と不穏な空気。
それはそうなんだ。
けれども、
紛れもなく、こんな青春が、そこにあった、ということが、ふくよかに伝わる。
小説の魅力だ。
小説の主人公である作者の父が慶應でであった折口信夫、
すごかったんだろうな。
でも、そこに多様な価値はからまり。
うん、それに出会えたかけがえのなさもあって。
作者北村薫が何を慈しもうと思ったかが、直截に伝わる。

父の日記と作者が対話するように進む筆致が
いいな。
そして、日記の記述の背景を探る面白さは、著者の「私」シリーズをたどっている。
さあ、第3部に行こう。
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武田徹『神と人と言葉と 評伝・立花隆』(中央公論新社 2024年6月7日)

2024-09-28 08:35:00 | 国内・エッセイ・評論

立花隆の評伝。
どう捉えるんだ。
その好奇心、論理性、探究心、推進力、ケレン味を。
そうか、書名「神と人と言葉と」か。
NHK出版新書から出ている『哲学史入門Ⅱ』で、
上野修が、
デカルトやライプニッツらが中世以来の「「神ー世界ー人間」の関係を念頭に置いて」いたと書いていたが、
それと呼応する書名だ。
武田は立花の宗教との距離の取り方を本書のひとつの柱にしている。
それが、『宇宙からの帰還』や『臨死体験』などにつながっていったと考えている。
うん、この「神ー世界ー人間」を「神ー人ー言葉」にし、
言葉を生業にした立花が、言葉で、言葉そのものである世界と渡り合ったのは
当然であり、、それを書名はうまく表している。
これが、立花を作ったし、立花が求めたし、立花が描きだしたものなのかもしれない。
さらに上野は『哲学入門Ⅱ』で、
スピノザの言葉の「神」や「実体」を「現実」に「一括変換しても、そのまま読めます」とも書いている。
してみると、この書名はさらに、「現実」そのものとそこにある「形而上」的なものとの際を探った立花を
表しているのかもしれない。

武田徹は、立花隆をもちあげない。
なぜ書こうと思ったか、なぜそう書いたか、どこに問題があり、どこが問題を展開させたのかを探る。
それは、立花自身がその著書でやったことだから、
立花について書くためには、欠落させるわけにはいかないまなざしなのだ。
武田は、立花隆がやった手法で立花隆評伝を書こうとしたのかもしれない。
いやいや、面白かった。
うん、それでもこぼれる存在のすごさ。
両親のキリスト教、ウィトゲンシュタインの言語、記号論理学、小説や詩への思い。
立花隆が何に依拠していたのかを探す評伝は、
立花が圧倒的な影響を受けたと本書で語られたウィトゲンシュタインの
語りえぬことについては沈黙しなければならないという有名なことばのように、
この本は、語り得ることの境界を求めた立花隆という存在への武田徹の語りえる際なのかもしれない。
で、いつも、それから溢れてしまう人たちがいる。立花隆もたぶん、その一人と思う。

この本、立花隆の若き日の詩や文学への憧れ、キリスト教との関係などが興味をそそられた。
彼の自作詩も掲載されている。
好奇心と知性が論理の整合性を求めたらとめられない。それに無邪気さまで加われば。これは‥‥。
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北村薫『いとま申して 『童話』の人びと』(文藝春秋 2011年2月25日)

2024-09-05 11:00:37 | 国内・小説

北村薫が膨大な父の日記を資料として描きだした若き日の父。
雑誌『童話』に出会い、童話にあこがれ、戯曲や他ジャンルの小説へと広がり、進んでいく父の青春の日々が綴られる。
加賀山直三との出会いが父宮本演彦(のぶひこ)を歌舞伎へと連れだし、
通い続けるうちに父自体も歌舞伎と歌舞伎役者に対して一家言もつようになっていく姿など、とてもとても共感できてしまう。
おずおずと何もしらずに興味で読みはじめた小説から、いつのまにか考えの言い方や人の作品への批判の仕方を覚えていき、
自身への矜恃と他者への無力感を感じながらも、
こんなものじゃない、こんなはずじゃないと思って先へ進もうとする。
そんな姿が、作者北村薫のコメントを差し挟みながらも書かれていく。
日記と対話するような絶妙の距離感がさすが。
この距離感が評伝風の味わいと小説的な空気感を醸しだしているのかも。

歌舞伎、落語、文学様々、多様多彩な蘊蓄を持つ作者北村薫のルーツを探っていくようだ。

旧制神奈川中学(現希望ヶ丘高校)から慶応予科へ、単位を気にしながらも、学校へは行かず、電車に乗っては歌舞伎座へ行くというそんな青春。
小説、戯曲を練り、仲間の作品への感想を持ち、日記に記していく日々。かかわりあう人びととの交流が群像劇のように記されていく。
金子みすゞ、北村寿夫、奥野信太郎とかも現れて、横光利一や芥川龍之介などへの言動も入ってくる。そして、次作へと続くようによぎる折口信夫。
天皇崩御と即位の式典の描写も含めて大正から昭和へ移る時代の様相が浮かびあがる。
うん、時代の中の青春が書かれている小説なのだ。

北村薫は『太宰治の辞書』も面白かったな。
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ブリアンナ・ラバスキス『葬られた本の守り人』高橋尚子訳(小学館 2024年5月27日)

2024-08-24 07:14:52 | 海外・小説

この小説の作者、アメリカの作家ラバスキスは「あとがき」でこう書く。

  私が本書の執筆を始めたのは二〇二〇年のことで、当時はまだ、現在アメリカで加熱している禁書運動が叫び声というよりも
 ざわめきに近かった。 しかし、(マーク・トウェインも言ったように)歴史は繰り返さないとしても、確実に韻を踏む。私が調査に
 身を投じはじめていたナチス時代との類似点は目につきやすく、そのため私には、自分たちがどこにたどり着くのかがわかっていた。
  最も暗い時間の中でも、いつでも光は存在する。

作者は、描きだす。
1932年のベルリン、33年にヒトラーが権力を掌握するベルリンと、36年からのドイツによって占領されていくパリ、
そして44年のニューヨークという3つの都市、3つの時間のうごめきを交差させながら、焚書や検閲、発禁から本を守ろうとした3人の女性の物語を。
それは「最も暗い時代の中」に「光」を見いだそうとする物語だった。

ハイネの言葉が小説の中を走る。「本を焼く者は、やがて人も焼くようになる」。
大学生が愛する本をベルリンで燃やし始めたとき、それがどういった事態になるかを、まだ人々は確実には理解していなかった。
そうして恐怖は、暴力は、私たちの日常を覆っていく。

  本への攻撃、理性への、知識への攻撃は、取るに足らぬ内輪もめなどではなく、むしろそれは、“炭鉱におけるカナリアの死”を意味するのです。

という、言葉が響く。カナリアを私たちは見失っているのかもしれない。
声高な激烈な、まるで大多数であるかのような発言を前にして、いつか「批判的思考や言論の自由を促すような、過激な考えや不愉快な議論を許容」することを
忘れてしまっているのかもしれない。
「自分の気に入らない、あるいは賛成できない言葉たちに火を放つことで、自分が〈正しい〉人間になれるのだと信じこませられた」ようになっていないだろうか。
これは確かに過去の「韻を踏」んでいる現在なのかもしれない。
しかも、最初は許容していた自由の中から危険な行為は生みだされる。民主主義的手段による圧倒的多数によって権力者が誕生したように。

小説は歴史的背景と合わさったストーリー展開の流れのよさで一気に読者を連れだしていく。
登場人物の毅然とした態度の心地よさ、散りばめられた言葉の決まり方がページを先へと進めさせる。
ミステリーの要素もあり、愛をめぐる物語も書かれていく。そして、何よりも本への思いが横溢する。
多くの本の作者たち、それを読む読者たち。消費され、あるいは消費されずに忘れられ、消えていく膨大な本。
少しでも、そんな本への思いが発せられるなら、この小説の中のこんな言葉も届いてくる。

  「いい戦いっていうのは、勝つことだけを指すんじゃない。世界中の人々に、挑戦することをいとわない人間がいることを思い出させること、それをいい戦いと呼ぶこともあるんだ」
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ハン・ガン『別れを告げない』斎藤真理子訳(白水社2024年4月10日)

2024-07-09 00:49:47 | 海外・小説

今、というか、ずっと、気になる作家の一人。
とにかく、翻訳されると思わず読んでしまう作家だ。

光州事件を扱った『少年が来る』も衝撃的だったが、
済州島四・三事件という国家的虐殺を扱ったこの小説も圧倒的だった。
暴力の時代の中での人間の尊厳とその暴力への人々の対応を考え続けるハン・ガンの作品は、
暴力に力で対峙するのではなく、新しい地平をどこに見出すかを問いかけてくる。
私たちはどう痛みを共有化できるのか。
その痛みの先にお互いがお互いを見出だす時、そこにあるのは愛の連帯性なのだろうか。
生者も死者も交感しあう。
その時、こうむった痛みは引き継がれ、今、私たちの痛みとなり、歴史の中に、未来の中に、
その痛みの先に辿りつける人々の状態があらわれるのではないか。
そこに暴力をふるう人間性ではない人間性のもうひとつの姿があるのではないだろうか。
ハン・ガンはそれを追い求めていく。

小説は
作家のキョンハがドキュメンタリー映画作家の友人インソンから頼まれて、
彼女が暮らした済州島に、彼女の飼っている鳥を助けに向かうところから始まっていく。
インソンは、済州島の家のなかで、自分の母親が体験した済州島四・三事件の話に向きあっていた。
そして、
雪に閉ざされたインソンの家にたどりついたキョンハの下には、
死んだはずの鳥や、インソンの母、そしてソウルに入院しているインソンが現れ、
何が起こり、何を感じたかが語られていく。
キョンハは、インソンの済州島の家で、それを追体験する。

  落ちていく。
  水面で屈折した光が届かないところへと。
  重力が水の浮力に打ち勝つ臨海のその下へ。

過去の出来事に出会うことは、暗がりに隠された暴力に出会うことである。
それは、人間の持つ暴力性の暗がりを垣間見ることでもあった。
その虚無の淵から、浴びせられた痛みだけが人を落下から拾いあげてくる。
インソンは語る。

  心臓が割れるほどの激烈な、奇妙な喜びの中で思った。これでやっと、あなたとやることにしたあの仕事が始められるって。

二人が計画した映画へのきざしが語られる。

「別れを告げない」は訳者によると「決して哀悼を終わらせないという決意」であり、
「愛も哀悼も最後まで抱きしめていく決意」という意味だと語られる。
ハン・ガンの作品では雪や鳥のイメージはよく使われるし、
『すべての、白いものたちの』などの他のハン・ガンの作品とも繋がっている。

ハン・ガンはこの小説を「究極の愛についての小説であることを願う」とあとがきに書いている。
常に光へのベクトルを見つけていく作品は、そこにある暗がりを徹底的に追体験しようとして真摯だ。
広大な小説の森の中にしっかりとした丸太が埋め込まれていくようだ。

斎藤真理子の懇切丁寧なあとがきが読者を助けてくれる。
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阿津川辰海『黄土館の殺人』(講談社タイガ文庫2024年2月15日)

2024-07-06 02:03:53 | 国内・小説

この人の小説、面白い。って言っちゃえば。それで終わるのだが。
〈館四重奏〉シリーズと名づけられた3作目。
『紅蓮館の殺人』『蒼海館の殺人』に続く作品だ。
山火事、水害と限界状況を設定しながらのクローズド・ミステリイの3作目は
地震。
かなりの配慮があっての刊行だったのだろうと思わせるし、実際「あとがき」にも
書かれている。

とにかく王道を歩く探偵小説。
だから、歩きながら、これまでの探偵小説へのオマージュになりパロディーになる。
でありながら、新奇な何かがあるのだ。

「名探偵」を自称し、名探偵の宿命をも引き受けようとするかつての高校生探偵、葛城。
同じく、かつて高校生探偵と言われながら、苛酷な状況から、
探偵であることの一切から逃れようとしながら逃れられない飛鳥井光流。
そして、語り手である助手の田所とその友人三谷。
探偵とは何か、真相を暴くことと事件の解決との違いは何か。
登場人物は悩み、戸惑う。自負、自信とそれへの不安を語っていく。
明確に見えている事件の真相。だが、それに自分たちはどう対処するか。
それが、青春小説のテイストや成長物語の趣を生みだしていく。
地震による土砂崩れで閉ざされた—あちらとこちら—。
土砂越しに提案される交換殺人から事件は始まる。
名探偵は、その土砂崩れによって事件が起こる現場には行かれない。
だが、起こり続ける連続殺人。
並行して流れる時間の中で
推理は推理を誘いだす。

この作家の小説では、『星詠師の記憶』がすごいなと思ったけど、
〈館四重奏〉、3作目まで十分満足。
4作目、期待。
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木下龍也『あなたのための短歌集』(ナナクロ社2021年11月11日)

2024-06-29 13:43:43 | 詩・戯曲その他

数年前、歌人の木下龍也と岡野大嗣、それに詩人の平川綾真智という3人によるトークイベントに参加した。
そのとき木下龍也が、他の仕事をせずに短歌だけで生計を立ていると語り、その一つとして、依頼者からのお題をもとに短歌をつくり、
封書にして送るという個人販売を行っていると語っていた。
この本の扉書きによると、4年間で約700首。その中から依頼者から提供を受けた100首によってできた一冊。

 例えば表紙。
 お題「まっすぐに生きたい。それだけを願っているのに、なかなかそうできません。
    まっすぐに生きられる短歌をお願いします。」
 それに対する短歌。
 「まっすぐ」の文字のどれもが持っているカーブが日々にあったっていい

 本文冒頭。
 お題「自分を否定することをやめて、一歩ずつ進んでいくための短歌をお願いします。」
 短歌。
 きつく巻くゆびを離せばゆっくりときみを奏でゆくオルゴール

たいへんな作業でありながら、楽しい仕事でもあるのかもしれない。
料理の提供と同じで、依頼者の満足を得られなければ、成り立たない。
依頼者がどう思ったかは、想像するしかないが、本書の読者であるボクは、うまいなと唸ってしまう。
お題との寄り添い方、離れ方、裏切り方、共感度が抜群の距離にある。
で、でてきた短歌はいい具合に直裁でありながらも、べたじゃない。
また、作っている作者の側から考えると、お題があり、その依頼者である「あなた」がいることで、「私」から離れられる。
その分、ただ、空想でなりきる他者ではない、ある程度のリアリティを担保しながら、「私」語りからは開放される。
実際書いている本人はヒヤヒヤの緊張感を持っているのだろうが、やはり愉しさがあるのではないのだろうか。
ことばは、相手に対して投げだされるものである。と、考えれば、表現の自然な状態が依頼者と提供者の契約の中で実現されているのだろう。
そして、そこに貨幣価値が伴えば商取引は成立する。
多大な付加価値があるのは、創りだされた短歌の魅力によるのだろう。

かつて、どこかで谷川俊太郎が、自分は自分のために詩を書くというより相手や依頼があって書いている
というようなことを語っていたような気がする。
「私」性は、創造の場において濃淡を変えていく。拠って立つ場所は「私」にのみあるわけではないのだろう。
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キム・フン『ハルビン』蓮池薫訳(新潮社2024年4月25日)

2024-06-22 08:16:13 | 海外・小説

図書館で「ハルビン」という書名を見て、手に取った一冊。
1909年に伊藤博文を銃撃した安重根について書かれた小説だ。
韓国で33万部のベストセラーになったらしい。

作者キム・フン(金薫)は1948年生まれの作家。
最近読んでいた韓国の小説家の中では年長者になる。
韓国小説が訳され出した頃から翻訳された作家だと思う。
漢字名を見たときに、ああ、彼か、と思ったからだ。

そのキム・フンが2022年、長い年月の思いを込めて書き上げたのが、この小説。
歴史で習った人物が、どう育ち、何を憤り、何を願って、
あの銃撃、射殺という行為に至ったか。
そして、その行為に人々は何を思い、また、作者は何を託そうとしたのか。
情感を抑え込んだ筆致が、読者を誘いだしながら、読者に考える時間を与える。

伊藤の時間と安重根の時間を交互に重ねながら、小説はハルビン駅に向かう。
そこがクライマックスかと思って読みすすめていたのだが、
周到に背景を書き込みながらも、展開は速い。
半分を過ぎ、3分の2ぐらいになりそうなところで、一つのピークは訪れる。
そして、そのあとは
捕らえられた安重根と取調官との相克や、神父、司教の態度、安重根の妻や周りの人々の話が書かれていく。
そこにも時代の力関係の動きとそれへの抗いが現れている。

安重根は、獄中で墨を擦って、獄吏に頼まれた文字を書いたとされている。
その文字が「弱肉強食 風塵時代」。この時代の中の青春が刻まれた言葉なのだろう。
作者はあとがきで書いている。


  安重根の輝く青春を小説にすることは、私の辛かった青春の頃からの願いだった。

と。そして、

  私は安重根の「大義」よりも、実弾七発と旅費百ルーブルを持ってウラジオストクからハルビンに向かった、
 彼の貧しさと青春と体について書こうと思った。彼の体は大義や貧しさまでひっくるめて、敵に立ち向かって
 いった主体である。彼の大義については、後世の物書きが力を込めて書かなくても、彼自らの体と銃と口がす
 でにすべてを話しており、今も話している。

と、続ける。
周到で隣接していく調査や研究の果てに、作者は安重根という人物を、その出来事を小説にした。
そこには、大義だけへの言及ではない、生きた人間の、若者の青春そのものがあった。
そこが、小説だなと思わせる。小説の持つ力だなと思わせる。
常に変わらない敵との対峙の仕方。暴挙か、義挙か。
それよりも、そこから発せられる主体の強さが迫ってくる。

小説にこんな場面があった。
安重根が家を去り、ロシア領に向かう旅に出るとき、彼はウィルヘルム神父に挨拶に行く。
そこで、彼は火炉の灰の中をほじくりながら、

  この世の一方の彼方でウィルヘルムが祈禱をし、その反対側の彼方で伊藤が白い髭を撫でている。そして、
 その間の果てしない原野に死体が折り重なっている幻影が、その灰の上に浮かんだ。死体は飛び石のように、
 その両端を繋ぎ合わせていた。

おそらく、彼は、その飛び石を踏みしめるような思いをしながら、光のウィルヘルムから離れ、
伊藤へと向かって、翔んでいったのだろう。

キム・フンは、あとがきをこう終わらせている。

  安重根をその時代に閉じ込めておくことはできない。(略)安重根は弱肉強食の人間世界の運命に立ち向かいながら、
 絶えず話しかけてきている。安重根は語り、また語った。安重根の銃は言葉だった。

作者は、そこにあった行為としての銃撃を、言葉に託す思いに賭けて、必死の変換を試みている。
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