パオと高床

あこがれの移動と定住

ノーマン・ロック『雪男たちの国-ジョージ・ベルデンの日誌より』柴田元幸訳(河出書房新社)

2009-03-31 00:59:30 | 海外・小説
作家、劇作家であるノーマン・ロックが、サナトリウムの地下室にある古い資料の箱から見つけだしたのが、ジョージ・ベンデルによる『雪男たちの国』という日誌であり、ロックが編集したのが本書であるということになっている。そんな仕掛けの「偽書もの」と言っていいのかもしれない。そのベンデルは、どうやら「スコット、ウィルソン、バワーズを祀る記念碑を棚氷の上に建てる任を与え」られた建築家であり、氷の上で発狂していったらしい。その狂気の中で出会うスコットら南極探検隊との交感が、南極をめぐる思考や美しさを伴って、ひらめきのある文章で綴られる。

「スコットは南極に、意味を持たない場、象徴と無縁の領域に入る機会を見てとった」
とか
「私たちは見すぎて目が見えなくなった」
とか
「ここでは詩なぞ要らん! 私は解釈から逃れるために南極に来たのだ」
とか
「暗喩は混乱へと至る橋だ。ひとたび渡ったら、あと戻りできる保証はない」
などの実体としての世界をめぐる思索的警句や、
「外へ出ていって青氷河に触れられるというなら、月にだって触れられるのではないか?」
などの氷の世界を描写する詩的な表現や、
影さへ氷ってしまい、鳥の影やかつての人の影を袋に入れて収拾し、その影が暖かい室内で、再び動き出して立ち去ってしまうといった表現や、倦怠の中で無為な営みに没頭するしかなくなった人々が、スプーンで小さな穴を掘り続けるとか、皇帝ペンギンにワルツを教えるとか、何も見晴らせない氷の丘に見晴台を作るといった表現の面白さ。
ただ、ただ、その表現に魅了されてしまった。

清水勲編『ビゴー日本素描集』(岩波文庫)

2009-03-29 10:08:11 | 国内・エッセイ・評論
歴史の教科書や資料集で必ず目にするビゴーの素描。彼の素描の中から『日本人生活のユーモア』シリーズを中心に編集されたスケッチ60点からなるのが、この本だ。まず、史料的な面白さがある。それから風刺画としての面白さ、つまりスケッチの面白さがあるのだ。
西洋人から見たときに、日本人の顔はこうなのかというのが興味深い。では、「こうなのか」とはどうなのかと聞かれても困るのだが。
特に女性と男性の書き分け、強欲な者、愚かな者とけなげな者、ささやかな者との書き分けが、見る者をにんまりさせる。

全体は「東京・神戸間の鉄道」「兵士の一日」「芸者の一日」「娼婦の一日」「女中の一日」の五部に編集されていて、最後に「ビゴー小伝」と年譜、ビゴー紹介の変遷が書かれている。見開き左にスケッチ、右にその絵の解説や当時の時代背景が書かれている。
鉄道の等級の運賃や駅弁の始まりなどの記述が興味深いし、描かれた等級での車内の差や旅行風景も面白い。西洋では妻を気遣う夫が日本では逆に夫を気遣う妻となっていたり、車内で膝をつきお酌する女性と飲む男性の絵などもおかしい。また、「芸者の一日」のなかの男のやについたり、妙に冷静なまなざしも、何かいびつなものを感じさせる。洋風の下着に足袋をはいている女性の姿に、文明開化から明治半ばくらいまでの日本の姿が重なって見えるような気がする。

写真と闘うようにスケッチで瞬間切り取りの技を見せながら、絵の持つ風刺精神を生かした素描集。どこにでもスケッチブック片手に入りこんで行ったのだろうか、ビゴーは。
文字からだけではない歴史の重層的な世界が見えるような気がする。
外からの目が映し出すものは、大笑いできない厳しさも突きつけてくる。

司馬遼太郎『本郷界隈-街道をゆく37』(朝日文芸文庫)

2009-03-22 20:56:06 | 国内・エッセイ・評論
この本のラストは、漱石の『三四郎』論になる。
これは都市論であり、都市と田舎についての考察であり、知識人のそれに対する意識であり、中央集権的な都市を生みだした歴史論になっている。当然、漱石その人の考え方や小説に載せた思いへと言及する。その中で司馬は、『三四郎』の中の「偉大なる暗闇」広田先生のモデルと考えられる岩元禎という人物と漱石の違いに触れ、「岩元の関心は、羅漢がそうであるように学ぶという知的受容にとどまり、知的創造のほうには無頓着だったのかもしれない。いうまでもなく漱石は知的創造の人である」と書いている。
これは、そのまま司馬の知的受容から知的創造への姿勢と繋がる。司馬の蘊蓄が面白いのは、それが強烈に創造行為と結びついているからである。

「見てきたように語る」という言葉がある。現場にいないのに、現場を語る。これが創造の、小説の根本ではないだろうか。司馬の語りは、資料、史料の森から人が帰還してくるような出会いの快感がある。その出会いの場を歴史的事実とその時代的背景によって立体化していく。そこに司馬の想像力が介在して、人物は思考し身体を持ち、立ち上がり歩き出す。

『街道をゆく』シリーズでは、その司馬遼太郎の好奇心から思索に、思索から想像に、想像から創作への道程が、それこそ、その街道が、刻まれている。読者は、司馬が歩く街道を歩きながら、司馬という作家の中に広がる思索の街道を歩いてゆく。この本で語られる漱石、一葉、子規、鴎外らは、作家論として語られるのではなく、歴史的実在の人物として、作家論を含みながら、歴史の場所を動いているような気がしてくる。ただ、格別の資料読みである司馬ならではの巧みなテキストの使い方が酔わせてくれる。
「団子坂」の章。鴎外の小説を使いながら、漱石の『三四郎』に触れ、ここで二つの小説の時間を出会わせている。さらに、そこに今、現場を移動する司馬の時間が重なる。作家論から都市論、文明論へというような拡がりを見せながら、歴史小説の立ち上がる現場になっている。

一葉と漱石の絡まなかった絡みを語り、お互いの居住空間の近さを俯瞰し、子規と漱石の交流に触れ、さらに、明治の時代的空気を語り、モースなどの招聘された外国人の話も加える。明治の群像が現れる。さらに、そこから歴史を自在に駆ける。春日局、最上徳内、近藤重蔵、加賀藩、緒方洪庵などと本郷が抱え込み吐き出していく、歴史の集積を、司馬は代弁しているようだ。黙した場所に言葉を与える。その該博と創造が織りなす逍遙の快楽。『街道をゆく』シリーズを読んだのは久しぶりだったが、やはり、よかった。今度はどれを読もうかな。

松本清張記念館に行く

2009-03-13 09:43:52 | 雑感
先日(11日)、北九州市の松本清張記念館に行った。

記念館は小倉城の敷地の中にあり、周辺は紫川河畔が整備されて、ゆっくりと歩くのに適した地域になっている。また、川を渡れば、魚町銀天街という長いアーケードの商店街があり、さらに大きな道路をはさんで、旦過市場に繋がっている。この市場は面白い。清潔でありながら、アジアの市場の中にしっかり入っている。
紫川は、北に、海へと開けている川で、趣向を凝らした橋がいくつか架かっている。僕は鴎外橋を渡った。地図を見るとそれには、「水鳥の橋」という別名がついていて、たもとに鴎外の文学碑が建てられていた。

記念館では「1909年生まれの作家たち」という企画展が催されていた。今回、これを見たかったのだ。「清張生誕百年-同じ年に生まれた五人の作家の時間と軌跡」という企画で、松本清張、埴谷雄高、太宰治、中島敦、大岡昇平の五人が、同時期にどう生きていたかを比較検証するという企画である。最初に、この企画を知ったときは、また強引なと思ったが、各作家の個性と魅力が、興味をおこさせた。

会場中央に円形にパネルが立てられていて、その円の中に入るようになっている。中にはいると壁面には作家の顔が、自身の原稿を背景に大きく写っている。真ん中にいると、この五人の作家に見つめられているような感じになる。案外、ぞくぞくするものだった。
各手書き原稿の校正が面白いし、小学校の頃の太宰の作文には感心した。また、中島敦の教員の辞令や埴谷雄高の予審終結決定の資料、『死霊』の原稿、中島敦の『李陵』の原稿書き込み。大岡昇平の学友誌に載せた小説「我が輩は犬である」とか、太宰の同人誌「細胞文藝」の表紙や手帳。見ていて飽きなかった。

常設展示には、松本清張の住居が再現されていて、書庫、玄関、応接間をガラス越しに見ることができるようになっていた。ああ、イメージ通りの松本清張だなと思える感じだった。カメラや万年筆などの持ち物やメモ帳ノートなどと共に興味深いものがたくさんあった。絵が上手いんだよね。

テレビでの北九州市長会見は、清張生誕100年の似顔絵が碁盤の目の中に書かれている壁を背景に行われている等、北九州市はかなり生誕百年に力を入れている。よく「国民的作家」という言葉が使われるが、確かに、松本清張は、その量と質、また読者層の広さからも「国民的作家」の一人といえるのだろう。他は誰がそうかな、司馬遼太郎かな。

大江健三郎『臈たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつ』(新潮社)

2009-03-08 22:35:40 | 国内・小説
散文精神というものがあるとして、それは時間と密接に結びつき、案外、時間への敬意とでもいえるものに貫かれているのではないだろうか。そこには、時間への悔いがあり、憎しみがある。が、同時に、時間への持続し続ける希望がある。このアンビバレンスな感情の先に、むしろ情感だけで時間を瞬間に封じ込めはしない、時間をめぐる思考の、時間から溢れ出す思索の、強靱な意志が漲っている。それが散文精神なのかもしれない。なかでも、小説は、その時間を組み替え、平行し、直立させて、流れと淀みを、連続と断絶を作り出しながら、立体化=空間化するものではないだろうか。

仮借なく責めてくる過去。人はそれを忘却しつくせるのだろうか。仮に、忘却できたとして、それは忘れることでの現在の喪失に結びつかないのか。もちろん、人は今に向けて投企し続ける自己であり続ける。しかし、今ある自己に繋がる自分自身の時間を忘却しつくすことは、実は自らの存在基盤の喪失に繋がるのではないのだろうか。存在忘却は-今よりその時-という以前にすでに始まってしまう。それは、あり得べき明日の喪失へと連結してしまうのかもしれない。もちろん、苛烈な今しかない人生もある。その一瞬には忘却される存在はない。なぜならすでにその一瞬は記憶される鮮烈な「今」なのだから。でも、その一瞬に賭けるより前に、すでに人は人としての時間を生きてしまう。どんな日常でも、人は軌跡を刻む存在なのだ。ただ、そこに記憶の亀裂が刻み込まれている、としたら、これが、想像力の母体なのだ。その根に眠る傷の所在と、その処遇。現代小説は、そこに向き合うことで、現代の小説なのだ。どうやって仮借なき過去を乗り越え、自己の回復にそれを繋げるか。また、いわれなき暴力の介入に対して、僕らはどういう自らであり得るか。これは、アーヴィングなどを連想しながらも、現代の小説が引き受けざるを得ない「状況」なのだ。ただ、この仮借なき過去を乗り越え、恢復し、時間の流れの中で、全体を、自身の全体を、構築し直すことは、自己の再生として可能だろうか。そこに可能を見いだすことは作家の力業なのだと考えられる。小説とは、その構造自体が、こうなのではないだろうか。そう、構築し直す、時をその恢復への道程と考える、など。

大江健三郎は、強く、時間にこだわっていく作家だと思う。彼は、小説をその可能性の側において、人間の知の作業として絶対的に愛しているように感じる。小説への信頼と強い思いが、彼の小説の強度を支えている。

この小説は、大江健三郎の他の小説と同様に、個人的時間と彼が共時的に過ごした時間とが重なり合っていく。その時間は彼自身の過去を経てさらに大きな過去に連なる。それが、今現在の「時代の病」とでもいえるものと交錯する。この交錯点に小説の想像力が跳躍する。発想の起点は「現在」である。それが「現在」から逸脱していく小説の醍醐味。過去は大江健三郎自身の過去の作品とも呼応する。自らの小説を引き合いに出しながら、過去の小説を繰り返す。語り直す。レヴィ・ストロースは『みる きく よむ』という本の中で、「時間においても空間においても、周期性はひとつの役割を果たす。なぜなら反復は、象徴的な表現―それは対象と直観的には一致しながら、決してそれと混じりあうことがない-に本質的なものだからである。象徴によって示される物との関係において、象徴は、その物のなかにある諸要素とは異なる諸要素から構成された集合体であるが、それら異なるふたつの集合体には同じ関係が存在する。そのため象徴が象徴として持続的に成り立つためには、それに加えて、象徴される物との物理的な連関が必要になる。つまり、同じ状況下で、それは規則的に反復されるものでなければならない。」と書いている。反復されることでの象徴の一体化。大江健三郎は繰り返すことで、混淆された「時」を神話化しようとしているようだ。「口説き」という語りで、伝承や出来事を「語り物」にしていく。それが小説なのである。語りの共有空間が場を喪失してしまう活字空間に変わるとき、なお、語りの場を記述し続ける「祝祭空間」への願望。それが、映画化という、シナリオ作成の二次的創作を記述していくこの小説の構造を支えている。ここには、また、大江健三郎の時間意識があるのではないのだろうか。創造は常に創造されてきたものへの敬意である。そこに「時」を繋ぐ普遍の創造力が宿る。『ロリータ』と「アナベル・リイ」が鮮烈な結託を果たす場所、そこに立ち上がる小説の創造力。小説は溢れるような力強さを持っているのだと感じ取ることができる一冊だった。