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パオと高床

あこがれの移動と定住

藤維夫「粗末な夕暮れ」(詩誌「SEED」33号 2013年10月31日発行)

2013-11-28 11:58:54 | 雑誌・詩誌・同人誌から
詩の言葉は、あっ、詩だけに限るのだろうか、まあ、一応、詩の言葉はということで、詩の言葉は、わかり得ることを書きながら、わかり得ないこととの境界を刻んで、わかり得ないことに至ろうとする軌跡を示すものではないのだろうか。その状態は倍数に似ているのかもしれない。公倍数を探しだしながら、倍数の無限の前に立ちつくす感じ、かな。公倍数は、常にそれぞれの数の勝手な倍数の可能性も孕んでいて、その暴走がスリルであったりする。何故って、公倍数は了解可能事項をなぞるだけの場合があるからだ。そうなると、倍数の飛躍がないとつまらない。詩が膨張し続けるのも仕方がないように思う。
で、一方で、言葉遊びのようだが、逆もあり得る。
わかり得ないことを言葉化しようとしながら、わかり得るところを顕わにしてしまう場合だ。なんだか公約数に似ているのかもしれない。削がれながら詩は凝縮する。しかし、この場合もそれぞれの約数の可能性がはみ出していないと、単に、わかり、納得する了解事項の公約数を示してみせるだけになるのかもしれない。共感とか同意とか、そこには常識という危険な地平が横たわっているのかもしれない。では、どこで共感し納得し、合点するのか。それは、もう共感し納得し、合点してみないとわからない。つまり、わからなさの快感が、わかりきったことの慰撫を超えることができるかだ。
そして、この境界の往還は、断念するしかないものと断念し得ないものとの間の振幅でもあるように思う。人間の知性はわかりたがりながら、わかることに退屈し続ける。つまりは百代の過客なのだ。と、わかりきったように書いて、実はこの見識が退屈なものになってしまうのだ。

と、こんな能書きとはお構いなしに、ただ断念と断念できないものとの狭間に峻烈な言葉を刻む詩があった。
藤維夫さんの個人詩誌「SEED」33号。あとがきの詩までいれると6篇の詩が掲載されている。すべての詩から部分引用したくなるのだが、冒頭の詩「粗末な夕暮れ」。あるとないの狭間を往還する感覚を感じた。
第一連でくっきりと境界が刻まれる。だが、この境界は、存在するわれわれにとっては、くっきりと峻別されているわけではない。ただ、時間は不可逆的にそこにある。それは「ありようのなさ」を描きだして、取り戻せない。だから現実として、くっきり、なのだ。

 いつまでも帰れない岸辺の水面
 わたしとあんたの面影を探す
 朽ちて行ったままのそれだけが日に照らされている
 広い世界の無名のなか
 ありようのなさの乾いた有無があるのみだ

「ありようのなさの乾いた有無」という詩句に引かれる。わかり得るものとわかり得ないものの拮抗線を感じる。で、第二連。

 ただ幻想のようにまっすぐひろがるだけの
 強引な始末
 新たな等高線をたどるにしろ
 あいまいに見入ってしまう劇の結末はなかった
 秋の台風に先だって強風が吹き
 帰る家とてなくの幻視の朝がやってくる
 ああ断層の巷というほどのこともなく
 なければないで粗末なままの夕暮れであろう
             (「粗末な夕暮れ」全篇)

「幻想」は「まっすぐ」に延びるのではなく、「ひろがるだけ」で、さらに「強引な始末」と繋がる。「まっすぐ」という言葉と「ひろがる」という言葉が出会う違和感がいい。
「強引な始末」も直線的な延びる時間ではないのだろうか。だが、藤さんは、それを「まっすぐひろがる」とイメージする。
で、面白いのは横に広がっているのかと思えば、その逆さ遠近法ではなくて、「新たな等高線」という言葉で、縦への空間的なひろがりを連想させるところだ。理屈っぽく、屁理屈っぽく、藤さんの言葉を追いかけているわけではない。言葉の位相転移は、面白さの一つだと思うから、ここは大切なことなのだ。「等高線」という言葉が生み出す曲線のイメージもここにはある。だから、作者は「等高線」のあとに「たどる」という言葉を書く。
で、曲線化は曖昧性と、案外、仲がいい。だから言葉は「あいまいに」という次の言葉を導きだしながら「劇の結末」へと至る。
もうひとつ、まなざしの移動もここにはある。つまり、「等高線」は地図を上から見ている感覚なのだ。「等高線」は地図を見下ろすことで存在する。「まっすぐなひろがり」を見ているまなざしは、ここで上からの視線に変わっているのだ。そして、すぐに「あいまいに見入ってしまう」と、もとの視線に戻る。
また、読んでいていいなと思うのは、ここで「始末」と「結末」がすり替わるところだ。「始末」はあるけれど「結末」は「なかった」と書く。清水邦夫という脚本家の名作戯曲『あらかじめ失われた恋人たち』の「あらかじめ失われた」という言葉を思いだす。つけられる始末があったとしても、結末はない。その中で吹き来る「強風」がボクらを連れ去ってしまったのだ。ただ、連れ去られたのはボクらか、「家」か。ボクらに帰還する「家」はない。そこに断念が宿る。ボクらには「の」朝しか来ない。さらに、「幻視」する朝しか来ない。ここで、「しか」と書いてしまうのは、ボクであって作者ではない。作者は、「しか」ではなく、「やってくるもの」として捉えている。「しか」を書くのは、あくまで読者であるボクの感慨で「しか」ない。ここにある断念は、「故郷」を「故郷」的な風景を失った者の断念である。大仰にいえば、「現代詩」が、時の流れの中で失った「故郷」への、そんなものはいつか失われたものであるし、あるいは「あらかじめ失われた」ものであったのだというような断念である。ところが藤は、それを指弾したり糾弾したり、慨嘆したりはしない。「しか」と書かない藤は、最終2行で受け入れる。

 ああ断層の巷というほどのこともなく
 なければないで粗末なままの夕暮れであろう

なければないで、見えるのだ。「粗末なままの夕暮れ」が。これだって、ボクらの風景だ。故郷なのだ。

他5篇にも立ち止まり、思考させる言葉が並ぶ。例えば、「さりげなく」の最終蓮。

 波は荒立ってきていて黒い沈黙がつづいている
 この世にわかりやすいものはなにも存在しない
 声を呑み込むほどの鬱がぐるぐる旋回している

「忘れられても」の第三連、書き出し。

 すぐ記憶になるわずかな遠さ
 風景は溶け出して恐怖の物量がはしってくる

「あとがき」の詩。第一連の、

 精神の示唆があっかたどうか
 たぶん知の揺籃
 無知の顰蹙を買っている

同じく、「あとがき」の第二連。

 まだはまだです すこしだけおくれているだけ
 やがて朝もゆっくりくる筈で
 透明な浅い夢が目覚めているだろう

このフレーズ、思わず口ずさみたくなる。
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パク・ソンウォン(朴晟源)『都市は何によってできているのか』吉川凪訳(クオン)

2013-11-21 13:11:50 | 海外・小説
クオン社の「新しい韓国の文学」の中の一冊。
八つの短編から成っている。それぞれの短編は独立して発表されたと紹介されているが、連作のような絡まりがある。
特に「キャンピングカーに乗ってウランバートルまで」という題名の2編と「都市は何によってできているのか」の2編はそれぞれの2編が連作であるだけではなく、4編で交錯する。
と、ここまで書いて、あっ、作者は都市の神話を描きだしたいのだと思う。登場人物同士が被っている場合もある。また、同じフレーズが他の小説でも登場し、これはもしかしたら、同じ人物なのかもしれないと思わせる。それから、象徴的に使われる台風という設定。これも時間が重なっているのではと連想させる。交錯する時間と人物のかすかな接点、それが生み出す同時性の中での多層性、これは神話への企図だと思うことができる。だが、その神話、なんとも孤独な空気が漂う。

それにしても、ボクらは都市の中で迷ってしまっている。特に、自分探しの濃密なテーマを持つ韓国小説は、その迷いに直接関わってくるように思う。ボクらはどうやってウランバートルに辿り着けるのだろうか。といっても、さらにウランバートルはモンゴルのウランバートルではない。いつかそれは、民宿「ウランバートル」になっているのだ。だが、しかし、そこが避難できる場所であり、草原の中に雑然と出現している都市ウランバートルは、小説では、逆に都市の中の避難所のような草原に変わっているのだ。都市という茫漠とした砂漠の中でのオアシスのように逆転して設定されているのだ。

それぞれの短編は、冒頭の小説「キャンピングカーでウランバートルへ」に登場する「父」が吐く言葉、「つくられた時間の中で飼い馴らされずに飛び出した人間は、狂人ではない。彼らこそ遊牧民だ。」というように、制度として存在する時間から飛び出そうとする。しかし、それは犯罪を起こすことと犯罪に巻き込まれるということの現代の危機の中にある。都市は欲望によって形づくられる。そして、都市はその欲望の中で欲望する者と欲望されるものとの迷路のような構図によって描きだされている。時間から逸脱しようとする者は、逆に直に囚われてしまう。

 すべてが時間との闘いなのだ。人は誰しも時間の中に留まっており、
 時間の外に出る人のことなど誰も気にかけてくれない。また、時間の外
 に出ることを認めもしない。なぜなら、時間が作りだされる体制や制度
 自体が脅かされるので、時間の外に出ることは絶対に容認されないとい
 うのだ。だから人は法律を破ることはできても、時間の境界を抜けるこ
 とはしないのだそうだ。

と父は語る。そう、

 人は自ら進んで、自分たちがつくったものの奴隷になっているんだ。

と。そして、これから逸脱できる者こそが「遊牧民」だと語る。つまり、キャンピングカーに乗ってウランバートルへとなるのだ。小説は都市神話の構造で時間から逸脱できない者たちを描きだしながら、小説という行為で時間を超える。なぜなら、小説の時空は円環できるし、組み替えできるからだ。しかし、その小説の人物たちは、「体制や制度」から逸脱してしまい、その「体制や制度」を「脅かす」様相を示す。

「キャンピングカーでウランバートルへ」では、宝くじの当たりナンバーを取るために死んだ「父」の死体を暴く姉弟が描かれる。
「都市は何によってできているのか」は、家を出た「彼」が、望遠鏡で「パパ」を探す少女に出会う物語である。路上をよぎる「毛深い象」のイメージが鮮烈な印象を残す。
「キャンピングカーでウランバートルへ2」では、同名小説の主人公であった「僕」の孫が、小説を書く人物として主人公になっている。
「都市は何によってできているのか2」では、「パパ」を探す少女は、「男」によって不特定の「パパ」の欲望の相手になってしまう状況が設定される。そして、この小説で、キャンピングカーと、民宿「ウランバートル」が濃密につながる。
また、台風が象徴的に絡まってくる「論理についてー僕らは走る 奇妙な国へ7」。
これまで父と思ってきた人物が父ではなく小説家Cという別の父の存在を知った「女」の物語「妻の話―僕らは走る 奇妙な国へ4」。この小説のCは、他の小説に登場する小説を書く主人公ではないのかと連想することができるし、「論理について」の男の妻でないのかとも思ったりする。そして、小説に表れる言葉、

 見に見えるものだけが真実ではない。見に見えるからといって、それが
 すべて真実ではないのだ。女は男の言葉を思い浮かべた。男は女の父親
 の言葉だと言っていたけれど、女はそれが事実でないことを知っていた。

から、この女が冒頭の小説で死体を暴く姉と重なってくる。もちろん、そうだと規定されているわけではない。それを連想させ、重なってくるように仕掛けられているのだ。では、この言葉を告げた「男」は誰なのか。
それぞれの小説の創造力の豊かさだけではなく、小説が構成される快感にも浸ることができる一冊だった。

文体は、訳者あとがきによると「ユーモラスでスピード感のある文章」だということだ。それは十分に伝わってくる。ユーモラスで軽快で、展開力のある文で、都市の迷路を彷徨っていける。
この作家の他の小説も読みたくなった。
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申京淑(シン・ギョンスク)他『いま、私たちの隣りに誰がいるのか』安宇植(アン・ウシク)訳(作品社)

2013-11-16 12:34:10 | 海外・小説
7篇の短編が収められている韓国現代小説アンソロジー。その中の2篇。

このアンソロジーの表題にもなっていて、日韓の地理的関係を考えるとなかなか意味深な題名の小説、「いま、私たちの隣りに誰がいるのか」。
発行所の「作品社」が紹介している「子をなくした夫婦の断絶と和解」という短文通りの小説である。短編にうねるようなストーリーはいらない。もしかしたら長編にだって不要な場合がある。この小説の面白さは、その予想通りの展開をどうしっとりと捉えるかだ。「なくした子」を幻視する。夫婦揃って、失った子に出会うことで再生を果たす二人を描きだす小説は、胸に迫る。ドラマでもそうだが、韓国の表現活動が示す抒情は、しなやかな強靱さを持っていて、持続性が強いように思う。その抒情性を滲ませながら、小説はすれ違い断絶している二人の気持ちが動いていく過程を描きだす。気配となって現れるなくした子ども。展開次第では、そのままスリラーかホラーになる設定だが、シン・ギョンスクはそれを困難を乗り越える契機にする。
解説で中沢けいが「予定調和」という言葉を遣っていたが、この小説には「予定調和」のもたらす沁みるような情感がある。どこぞの脚本家や小説家が書く「予定調和」という名の「ご都合主義」とは一線を画している。作者は1963年生まれで、『離れ部屋』(集英社)などの日本語訳もある、日本でも知られた韓国の小説家だ。

この小説の次に収録されている小説が、「嬉しや、救世主のおでましだ」。作者は河成蘭(ハ・ソンラン)、1967年生まれ。こちらは、読者を裏切る小説かもしれない。救世主は、どこにおでましするのだろうか? 祝福すべき誕生日の出来事が、その誕生日を破綻させ、クリスマスに破局が訪れる。乾いた抒情が、日常の中に潜む暴力の奇妙な軽さを伝えてくる。中沢けいも指摘しているが、シン・ギョンスクの小説の持つ「予定調和」にひっかき傷を入れる別のタイプの小説。その裂傷にしたたるものは何なのだろうか。現代が持っている欲望の暴力。その暴力に打ちのめされながらそれでも、生きていくということのなかに救済の可能性はあるのかもしれない。共犯性によって維持される仲間がいて、社会がある。小説はそんな共有された欲望社会を暴き出そうとしている。共犯社会では、共犯者同士がお互いの救世主になってしまうのかもしれない、常に被害者を生み出しながら。『6stories』という別の出版社から出ている「現代韓国女性作家短編」というアンソロジーがある。そこに、ハ・ソンランの別の小説が収録されている。その本の訳者は、あとがきでハ・ソンランの「現代的な暮らしの裏面に陰険にとぐろを巻いている下劣な欲望と身の毛のよだつ暴力の影」ということばを引きながら、彼女がそれを暴きたいとしていると書いている。このアンソロジーの訳者も同じアン・ウシクである。
面白いのは、この『6stories』に収録されているハ・ソンランの小説は「隣の家の女」という題名で、シン・キョンスクの小説の逆をいくように、隣りに女が住むことで破綻していく夫婦を描いている。その中で静かに壊れていく「わたし」が、「わたし」の独白で描かれているのだ。

シン・キョンスクとハ・ソンラン。展開と結末は当然真逆なぐらいに違っているが、どちらの小説も、一人称の立場に寄り添った語り口が、疎外を生みだしている。

ふー、久しぶりのブログだー。
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