詩の言葉は、あっ、詩だけに限るのだろうか、まあ、一応、詩の言葉はということで、詩の言葉は、わかり得ることを書きながら、わかり得ないこととの境界を刻んで、わかり得ないことに至ろうとする軌跡を示すものではないのだろうか。その状態は倍数に似ているのかもしれない。公倍数を探しだしながら、倍数の無限の前に立ちつくす感じ、かな。公倍数は、常にそれぞれの数の勝手な倍数の可能性も孕んでいて、その暴走がスリルであったりする。何故って、公倍数は了解可能事項をなぞるだけの場合があるからだ。そうなると、倍数の飛躍がないとつまらない。詩が膨張し続けるのも仕方がないように思う。
で、一方で、言葉遊びのようだが、逆もあり得る。
わかり得ないことを言葉化しようとしながら、わかり得るところを顕わにしてしまう場合だ。なんだか公約数に似ているのかもしれない。削がれながら詩は凝縮する。しかし、この場合もそれぞれの約数の可能性がはみ出していないと、単に、わかり、納得する了解事項の公約数を示してみせるだけになるのかもしれない。共感とか同意とか、そこには常識という危険な地平が横たわっているのかもしれない。では、どこで共感し納得し、合点するのか。それは、もう共感し納得し、合点してみないとわからない。つまり、わからなさの快感が、わかりきったことの慰撫を超えることができるかだ。
そして、この境界の往還は、断念するしかないものと断念し得ないものとの間の振幅でもあるように思う。人間の知性はわかりたがりながら、わかることに退屈し続ける。つまりは百代の過客なのだ。と、わかりきったように書いて、実はこの見識が退屈なものになってしまうのだ。
と、こんな能書きとはお構いなしに、ただ断念と断念できないものとの狭間に峻烈な言葉を刻む詩があった。
藤維夫さんの個人詩誌「SEED」33号。あとがきの詩までいれると6篇の詩が掲載されている。すべての詩から部分引用したくなるのだが、冒頭の詩「粗末な夕暮れ」。あるとないの狭間を往還する感覚を感じた。
第一連でくっきりと境界が刻まれる。だが、この境界は、存在するわれわれにとっては、くっきりと峻別されているわけではない。ただ、時間は不可逆的にそこにある。それは「ありようのなさ」を描きだして、取り戻せない。だから現実として、くっきり、なのだ。
いつまでも帰れない岸辺の水面
わたしとあんたの面影を探す
朽ちて行ったままのそれだけが日に照らされている
広い世界の無名のなか
ありようのなさの乾いた有無があるのみだ
「ありようのなさの乾いた有無」という詩句に引かれる。わかり得るものとわかり得ないものの拮抗線を感じる。で、第二連。
ただ幻想のようにまっすぐひろがるだけの
強引な始末
新たな等高線をたどるにしろ
あいまいに見入ってしまう劇の結末はなかった
秋の台風に先だって強風が吹き
帰る家とてなくの幻視の朝がやってくる
ああ断層の巷というほどのこともなく
なければないで粗末なままの夕暮れであろう
(「粗末な夕暮れ」全篇)
「幻想」は「まっすぐ」に延びるのではなく、「ひろがるだけ」で、さらに「強引な始末」と繋がる。「まっすぐ」という言葉と「ひろがる」という言葉が出会う違和感がいい。
「強引な始末」も直線的な延びる時間ではないのだろうか。だが、藤さんは、それを「まっすぐひろがる」とイメージする。
で、面白いのは横に広がっているのかと思えば、その逆さ遠近法ではなくて、「新たな等高線」という言葉で、縦への空間的なひろがりを連想させるところだ。理屈っぽく、屁理屈っぽく、藤さんの言葉を追いかけているわけではない。言葉の位相転移は、面白さの一つだと思うから、ここは大切なことなのだ。「等高線」という言葉が生み出す曲線のイメージもここにはある。だから、作者は「等高線」のあとに「たどる」という言葉を書く。
で、曲線化は曖昧性と、案外、仲がいい。だから言葉は「あいまいに」という次の言葉を導きだしながら「劇の結末」へと至る。
もうひとつ、まなざしの移動もここにはある。つまり、「等高線」は地図を上から見ている感覚なのだ。「等高線」は地図を見下ろすことで存在する。「まっすぐなひろがり」を見ているまなざしは、ここで上からの視線に変わっているのだ。そして、すぐに「あいまいに見入ってしまう」と、もとの視線に戻る。
また、読んでいていいなと思うのは、ここで「始末」と「結末」がすり替わるところだ。「始末」はあるけれど「結末」は「なかった」と書く。清水邦夫という脚本家の名作戯曲『あらかじめ失われた恋人たち』の「あらかじめ失われた」という言葉を思いだす。つけられる始末があったとしても、結末はない。その中で吹き来る「強風」がボクらを連れ去ってしまったのだ。ただ、連れ去られたのはボクらか、「家」か。ボクらに帰還する「家」はない。そこに断念が宿る。ボクらには「の」朝しか来ない。さらに、「幻視」する朝しか来ない。ここで、「しか」と書いてしまうのは、ボクであって作者ではない。作者は、「しか」ではなく、「やってくるもの」として捉えている。「しか」を書くのは、あくまで読者であるボクの感慨で「しか」ない。ここにある断念は、「故郷」を「故郷」的な風景を失った者の断念である。大仰にいえば、「現代詩」が、時の流れの中で失った「故郷」への、そんなものはいつか失われたものであるし、あるいは「あらかじめ失われた」ものであったのだというような断念である。ところが藤は、それを指弾したり糾弾したり、慨嘆したりはしない。「しか」と書かない藤は、最終2行で受け入れる。
ああ断層の巷というほどのこともなく
なければないで粗末なままの夕暮れであろう
なければないで、見えるのだ。「粗末なままの夕暮れ」が。これだって、ボクらの風景だ。故郷なのだ。
他5篇にも立ち止まり、思考させる言葉が並ぶ。例えば、「さりげなく」の最終蓮。
波は荒立ってきていて黒い沈黙がつづいている
この世にわかりやすいものはなにも存在しない
声を呑み込むほどの鬱がぐるぐる旋回している
「忘れられても」の第三連、書き出し。
すぐ記憶になるわずかな遠さ
風景は溶け出して恐怖の物量がはしってくる
「あとがき」の詩。第一連の、
精神の示唆があっかたどうか
たぶん知の揺籃
無知の顰蹙を買っている
同じく、「あとがき」の第二連。
まだはまだです すこしだけおくれているだけ
やがて朝もゆっくりくる筈で
透明な浅い夢が目覚めているだろう
このフレーズ、思わず口ずさみたくなる。
で、一方で、言葉遊びのようだが、逆もあり得る。
わかり得ないことを言葉化しようとしながら、わかり得るところを顕わにしてしまう場合だ。なんだか公約数に似ているのかもしれない。削がれながら詩は凝縮する。しかし、この場合もそれぞれの約数の可能性がはみ出していないと、単に、わかり、納得する了解事項の公約数を示してみせるだけになるのかもしれない。共感とか同意とか、そこには常識という危険な地平が横たわっているのかもしれない。では、どこで共感し納得し、合点するのか。それは、もう共感し納得し、合点してみないとわからない。つまり、わからなさの快感が、わかりきったことの慰撫を超えることができるかだ。
そして、この境界の往還は、断念するしかないものと断念し得ないものとの間の振幅でもあるように思う。人間の知性はわかりたがりながら、わかることに退屈し続ける。つまりは百代の過客なのだ。と、わかりきったように書いて、実はこの見識が退屈なものになってしまうのだ。
と、こんな能書きとはお構いなしに、ただ断念と断念できないものとの狭間に峻烈な言葉を刻む詩があった。
藤維夫さんの個人詩誌「SEED」33号。あとがきの詩までいれると6篇の詩が掲載されている。すべての詩から部分引用したくなるのだが、冒頭の詩「粗末な夕暮れ」。あるとないの狭間を往還する感覚を感じた。
第一連でくっきりと境界が刻まれる。だが、この境界は、存在するわれわれにとっては、くっきりと峻別されているわけではない。ただ、時間は不可逆的にそこにある。それは「ありようのなさ」を描きだして、取り戻せない。だから現実として、くっきり、なのだ。
いつまでも帰れない岸辺の水面
わたしとあんたの面影を探す
朽ちて行ったままのそれだけが日に照らされている
広い世界の無名のなか
ありようのなさの乾いた有無があるのみだ
「ありようのなさの乾いた有無」という詩句に引かれる。わかり得るものとわかり得ないものの拮抗線を感じる。で、第二連。
ただ幻想のようにまっすぐひろがるだけの
強引な始末
新たな等高線をたどるにしろ
あいまいに見入ってしまう劇の結末はなかった
秋の台風に先だって強風が吹き
帰る家とてなくの幻視の朝がやってくる
ああ断層の巷というほどのこともなく
なければないで粗末なままの夕暮れであろう
(「粗末な夕暮れ」全篇)
「幻想」は「まっすぐ」に延びるのではなく、「ひろがるだけ」で、さらに「強引な始末」と繋がる。「まっすぐ」という言葉と「ひろがる」という言葉が出会う違和感がいい。
「強引な始末」も直線的な延びる時間ではないのだろうか。だが、藤さんは、それを「まっすぐひろがる」とイメージする。
で、面白いのは横に広がっているのかと思えば、その逆さ遠近法ではなくて、「新たな等高線」という言葉で、縦への空間的なひろがりを連想させるところだ。理屈っぽく、屁理屈っぽく、藤さんの言葉を追いかけているわけではない。言葉の位相転移は、面白さの一つだと思うから、ここは大切なことなのだ。「等高線」という言葉が生み出す曲線のイメージもここにはある。だから、作者は「等高線」のあとに「たどる」という言葉を書く。
で、曲線化は曖昧性と、案外、仲がいい。だから言葉は「あいまいに」という次の言葉を導きだしながら「劇の結末」へと至る。
もうひとつ、まなざしの移動もここにはある。つまり、「等高線」は地図を上から見ている感覚なのだ。「等高線」は地図を見下ろすことで存在する。「まっすぐなひろがり」を見ているまなざしは、ここで上からの視線に変わっているのだ。そして、すぐに「あいまいに見入ってしまう」と、もとの視線に戻る。
また、読んでいていいなと思うのは、ここで「始末」と「結末」がすり替わるところだ。「始末」はあるけれど「結末」は「なかった」と書く。清水邦夫という脚本家の名作戯曲『あらかじめ失われた恋人たち』の「あらかじめ失われた」という言葉を思いだす。つけられる始末があったとしても、結末はない。その中で吹き来る「強風」がボクらを連れ去ってしまったのだ。ただ、連れ去られたのはボクらか、「家」か。ボクらに帰還する「家」はない。そこに断念が宿る。ボクらには「の」朝しか来ない。さらに、「幻視」する朝しか来ない。ここで、「しか」と書いてしまうのは、ボクであって作者ではない。作者は、「しか」ではなく、「やってくるもの」として捉えている。「しか」を書くのは、あくまで読者であるボクの感慨で「しか」ない。ここにある断念は、「故郷」を「故郷」的な風景を失った者の断念である。大仰にいえば、「現代詩」が、時の流れの中で失った「故郷」への、そんなものはいつか失われたものであるし、あるいは「あらかじめ失われた」ものであったのだというような断念である。ところが藤は、それを指弾したり糾弾したり、慨嘆したりはしない。「しか」と書かない藤は、最終2行で受け入れる。
ああ断層の巷というほどのこともなく
なければないで粗末なままの夕暮れであろう
なければないで、見えるのだ。「粗末なままの夕暮れ」が。これだって、ボクらの風景だ。故郷なのだ。
他5篇にも立ち止まり、思考させる言葉が並ぶ。例えば、「さりげなく」の最終蓮。
波は荒立ってきていて黒い沈黙がつづいている
この世にわかりやすいものはなにも存在しない
声を呑み込むほどの鬱がぐるぐる旋回している
「忘れられても」の第三連、書き出し。
すぐ記憶になるわずかな遠さ
風景は溶け出して恐怖の物量がはしってくる
「あとがき」の詩。第一連の、
精神の示唆があっかたどうか
たぶん知の揺籃
無知の顰蹙を買っている
同じく、「あとがき」の第二連。
まだはまだです すこしだけおくれているだけ
やがて朝もゆっくりくる筈で
透明な浅い夢が目覚めているだろう
このフレーズ、思わず口ずさみたくなる。