パオと高床

あこがれの移動と定住

詩誌「饗宴」65号(2012年秋号)

2012-11-18 11:17:00 | 雑誌・詩誌・同人誌から
冒頭、短い詩論だが、荒巻義雄さんの「ヌーヴォ・ロマンの文体」が、ある感興を呼び起こしてくれた。何度でも、時々、不意にここに連れていかれる契機。ヌーヴォ・ロマンといわれる小説たちが、それこそ、ぐいぐい読める小説だったかといえば、決して、全部が全部そうだったわけではない。だが、つねに刺激を与えてくれて、時々、不意に、そこに立ち至ろうという気持にさせるのだ。何故か、何故って、そこには次の創作への刺激にみちた契機が豊穣にあるからだ。
ロブ=グリエ、ナタリー・サロート、クロード・シモン、ミッシェル・ビュトール、モーリス・ブランショ、ジュリアン・グラックについての短評がこちらの感覚を呼び覚ます。
要約された言葉。

  とりあえず、代表的作家の傾向を要約すれば、①小説内世界から人間
 を消し去ったアラン・ロブ=グリエ。②人物のありふれた瞬間を写し取
 るナタリー・サロート。③内的心の動きを追跡するクロード・シモン。
 ④都市生活が人間の意識にどう現れるかを描くミシェル・ビュートル。
 その他である。

あるいは、ブランショについての要約。

  〈世界〉の無意味性、むしろ空無性をブランショは見抜いているのだ。

など。

村田譲さんの詩「円環の音」。空から宇宙へと向かうものを追いかけていた村田さんの詩は、帰還してくる。おそらく、村田さんの中に、空と地上との往還運動のように上昇と下降は存在していて、根を探る作業は、村田さんの詩の大切な動きなのだと思う。
詩は、父と私の置かれた状況から詩語を懸命に探っている。いや、詩語を探っているのではない。言葉が探られることで詩語になろうとしている。

 廊下を渡り
 案内する看護婦の後ろから見える病室には
 鼻に管を差し込んだままある
 ベットに父の閉じた眼
 開いた口からは
 コオオオオオオオ、と
 溺れる音

切迫した状況がある。これが第三連で

 明るい昼になってみれば
 父が意識を取り戻すことなどないと
 この試みが無駄に近いことが
 はっきりとする
 今となっては、そうなのだが
 止めることは出来ない
 窓の外の雪に
 降り積もる執着の影が広がり
 母の空洞が響いてくる

痛みの先で言葉を動かそうとしている。「今となっては」のあとの読点に、作者の無意識かどうかはわからないが、言葉化へのそんな間(ま)が現れている。
そして、第四連で、ある「円環」が語られるのだが、最終連、詩は、

 真昼の虚ろな光景に飲まれぬよう
 走り抜けた昨夜に
 思わず俺は
 止めてしまえ、と
 固めたはずの無表情が
 弾けそうになるのだが
 しかし、まだ
 口は閉じておく

封じこめられた憤りや、やるせなさの気配で閉じられる。私の「音」はまだ、閉じられているのだ。母の息と重なる父の口からの「溺れる音」を前にして、閉じられて口は、まだ言葉を内包している。そこに、切迫が宿る。


『短歌』編集部編『決定版短歌入門』(角川学芸出版)

2012-11-10 11:42:05 | 国内・エッセイ・評論
ホント、たまに、短歌についての本を読む。
読むのは、短歌論というよりも入門書や歌評の本かな。定型の中での表現の可能性について語られ、各歌の独創性に触れ、また、時に、その歌の問題点の指摘もあって楽しめる。様々な技術について実際の歌を例示しながら語られるのも魅力的だ。
と、いっても、魅力的な語り口で語られたときに、であるのは当然。ただ、テレビの短歌番組なども含めて、歌人の語りは、短歌への愛情が溢れ、また、技術を個人で専有化せず公有化していこうとするような開かれた部分があって、入りやすい場合が多いように思う。

で、この本、『短歌』編集部の編集で、監修者が、秋葉四郎、岡井隆、佐佐木幸綱、馬場あき子というメンバーである。お馴染みのというか手練れのといった方々。また、それぞれの項目に執筆者がついていて、30名の歌人の文章からできている。

まず、現代短歌中心に豊富に歌が例示されている。そして、「短歌の魅力」から始まり、「作歌の基本」「何を詠うか」「表現するために」などと具体に即しながら短歌表現に肝要な部分が語られていく。そのなかには「スランプからの脱出法」といった章もある。また、古典、近代、現代の各名歌鑑賞の章も設けられ、さらに、「三分でわかる短歌史」や「短歌名言録」「読むべき歌集歌書リスト」といった項目もあって、ある意味、遊び心満載でありながら、痒いところに手を届かせようとしている姿勢が新鮮だった。

ひとつだけ、例を引く。「表現するために①」という小島ゆかりが書いた文章。

 「よく見る」ことが大切、と多くの入門書に書いてあると思います。し
 かしじっさい、「よく見る」とはどういうことなのでしょうか。「見る」
 と「よく見る」の違いは、何なのでしょうか。

と、問いを立てて、具体的に「見る」歌と「よく見る」歌を例示する。

  ランドセル背に揺らしつつ走り行く男の子に会えり駅までの道
  女の子らの持つアップリケの手提げ見れば子に縫いやりしむかしなつかし
 ところが、もっとよく見てみると、ひざ丈ズボンの男の子の靴下が、

と、さらに見た場合へと書き続け、「よく見て」作り直すと、

  ランドセル揺らして走る男の子右片方の靴下ゆるみ
  布製の手提げみな持つ女の子のひとりは指に包帯をせり

となって、個別化からくる生活感、現実感へと語り進める。そして、さらに、窪田空穂や与謝野晶子、斎藤茂吉らの歌が引かれ、齊藤史、馬場あき子、河野裕子から岡崎桂一郎、水原紫苑などにも及びながら、「見る」「感じる」と「表現する」ということが、実作を通して語られるのだ。

また、「てにをは」に触れた章では、島田幸典が斎藤茂吉の歌を引き、その特異な助詞の部分を空けて、さてそこに、「どのような助詞が入ると思いますか」と語ってくる。

なかなか、楽しい一冊である。
もちろん、異ジャンルと照らし合わせた場合の差異を考えるのも面白い。
例えば、吉川宏志の書いた「比喩は直感が命です。」という言い回しには納得する。また、確かに、「いろいろと考えて作った比喩は、わざとらしくなり、つまらないことが多い」というのもその通りであり、「比喩とは、一種の〈賭け〉のようなものかもしれません」というのもその通りである。ただ、例えば、詩は比喩を単発するだけで作品が完結することは難しい。その場合の比喩の関連が問題になってくる。比喩が比喩になる痕跡を残すといった手法も存在してきたりする。そんなことをあれこれ考えて読むのも、また読書の時間である。