パオと高床

あこがれの移動と定住

埴谷雄高『死霊』(講談社)

2020-05-31 14:44:52 | 国内・小説

読了。
すごかった。「形而上小説」か。
埴谷が圧倒的な影響を受けたドストエフスキーのように、とにかく語り合いで、思索と思索の交錯で、ほぼ全篇が貫かれている。
といいながら、とても詩的な情景描写や心象描写もあり、その文体のうねりにも酔えた。
今回の巣ごもり状態で埴谷の世界を堪能した。で、最後の2章の時に巣ごもり状態が終わり、それからが案外時間がかかった。
学生の頃知人は浪人生活の時に勉強しないで読んだよと言っていたけれど、そんな状況が読みを進めるのかも知れない。

太平洋戦争後すぐに書き始められ、長い中断を経て75年に5章が書かれ、9章は95年。そして未完で終わっている。
ほぼ50年。小説で描かれる内部粛正や活動家といった状況は時代の流れの中で変質したが、当初から作者が抱えていたであろう問題や
思索を一貫して壮大に描きあげていく驚嘆の小説。
そしてこの長いスパンによって、一貫する問題でありながら科学の進化深化に沿って、より新しい宇宙論や量子論が加わっているように思う。
散りばめられた観念を表すことばやイメージ、そして暗黒や深淵を思索しながらも随所に溢れる諧謔。
会話の途中に入る「あっは」や「ぷふい」という感嘆詞も含めて思わず笑ってしまう表現もたくさんあるのだ。

はじめのはじめの単細胞生物の語りから宇宙のみる夢までの極小から無限大へと駆けめぐる想念。
そして、その中のわずか200万年ほどの人類が生み出した誤謬の歴史。私は私を離れられるのか。
実体と虚体。虚在と虚無。我が我である自同律の不快。「我」に拘泥し、囚われたところで思考の袋小路に陥る現象世界を
超えることは可能なのか。そもそも可能は不可能、不可能は可能、「ある」は「ない」で「ない」は「ある」などなど。
窮極の革命、窮極の自己否定とは。思念が思念の宇宙をつくっていく。それこそがまさに虚体の宇宙になっていく。

ああ、これは案外、今のアニメ世代の人にも受けるのではと思った。
突き抜けていく小説はSFのジャンルにも入っていく。

検察庁法改正

2020-05-12 19:53:44 | 雑感
もう一度だけ政治の話を。

検察庁法改正はやはりおかしいだろう。えっ、結局審議入りさせたのかと驚いた。
確かに国民が選んだ国会議員が選んだ内閣が人事権を掌握することは仕方がないという意見もあるのだろう。
だが、その時に同時に三権はお互いを牽制抑制し合うことで権力の分立と独立性を保っていたのだ。
それが果たせない内閣によって出された、内閣に都合が良いとされる法を一気に数の力で成立させるのは、
そもそも前提への、三権分立への、暴挙だろう。
しかも、黒川検事長の定年延長のときに検察の定年に国家公務員法を適用するのは問題があるといわれれば、
閣議決定で定年延長をさせておいて、その後で、今回のように国家公務員法の改正と一緒に検察法も改正し、
いずれもの一体感を演出し後付けしようとしている。
この人事権への介入の強さと関心の高さを示すことでも、内閣の司法への圧力の強さを示すことが出来る。今の内閣の得意技だ。
官僚人事への強い圧力で官僚を動かそうとする。それと同じ構図なのだ。しかも、現在内閣がらみの不透明な事件が多発している中でのことだ。
つまり、疑惑の中心が疑惑を追及する人を選ぼうとしているととられても仕方がないだろう。
それは、この法がいつから適用されるのかの適用期間の問題ではない。すでに先行して、将来の法の適用へのあらかじめの抑圧を始めているのだ。
この法は成立するのだろうが、かりに成立しなくても、内閣の顔色への脅威は残り続ける。顔色伺い、忖度が横行する。
朝日新聞に紹介されていた芸人さんのツィッターの記事にあったが、「安倍政権は検察とのソーシャルディスタンスを」とうのは、
その通りで、国民とは国民の飛沫=意見が聞こえないほどのディスタンスを取りたがるくせに、司法やマスコミ、支持者、身内とは
信じられないほどの裏側での濃厚接触を求めるような姿勢はやめて欲しい。
また、国会での野党の追及に対する返答。私への疑惑はまったくあたりません。違います。といった発言も何回聞いただろう。

『司馬遼太郎と昭和』2(朝日新聞出版 2020年4月5日発行)

2020-05-05 17:36:53 | 国内・エッセイ・評論
真実は藪の中。それこそ芥川龍之介の小説あるいは黒沢明の「羅生門」ではないが、
この本に収録されている司馬遼太郎が直木賞を受賞したときの夜の話が面白い。
作家の三浦浩が、小説『菜の花の賦―小説 青春の司馬さん』に書いた受賞報告の夜の描写では、
会社の文化部に三浦浩と司馬だけがいたとなっているらしい。だが、妻のみどりさんは、「異論」があって、
発表の夜は二人で寄せ鍋をしていたと語っているとのこと。ところがさらに、本人の受賞のことばでは、
浴室で頭を洗っていたことになっているらしい。
この箇所を書いた記者は、こうまとめる。
「かくして直木賞の夜は、フィクションに包まれている」。
作家がフィクションに包まれているのはいいよな。そして、そのどれもが司馬遼太郎なんだろうな。

憲法記念日に

2020-05-03 13:45:53 | 雑感
基本、読んだ本への感想を書いているのだけれど、新聞を読んでいて、思ったことを……。
少しだけ。

雨が降っている。さすが降雨確率が高い3日だけのことはある。
憲法記念日だ。相変わらず改憲を語る首相がいる。
このたいへんさの中、それどころじゃないだろうという意見と、いやそんなときだから議論を止めてはいけないという意見まで。
というより国民がそれほど望んでいないのに緊急性、優先性がある話か? 
それなら9月新学年のほうが、今語るべきより切迫した話ではないか。

それから常に変なのが、今回のような緊急な場合に国民の生活や権利についての規定が必要かもしれないといった動機が語られる。
憲法の本意はそこにはない。安倍政権や改憲論者は憲法を校則のように捉えている。憲法は政権者や権力にとっては行動規制であり
権力の行使に対しての方向性と足かせだ。一方、最大限に力を注いでいるのが、国民にとっては権利の保障である。
そして、権利を保障できるために、国家として必要な基盤を支えるための最低限の義務だけを国民に課している。
この義務はあくまでも国民が権利を行使できるための基礎エネルギーなのだ。
納税とそのための労働、そして教育。これによって社会保障と社会インフラが確保される。まちがっても政治家の生活を豊かにしたり
保障したりしているものではない。
ただ、現在、この義務(労働)が損なわれている。ゆえに納税の義務が果たせないのは当然なのだ。
だから、国は国民の権利を守るために補償を速やかに行い、国民に義務の遂行への道筋を作らなければならない。
でなければ、納税だけが存在してしまう。また、権利であり義務である教育も機会が奪われている。つまり、危機的状況なのだ。
であるから、改憲ではなく護憲のための政策が、行動が、必要なのだ。だから、多くの国民は緊急事態法を受け入れている。
それなのに、憲法に緊急事態条項をつけ加える必要を語る。改憲して、権利を規制する義務条項を増やそうとしている。
おかしいだろう。
緊急性が高いときに内閣の政令が力を持ちすぎることの危うさは歴史が証明している。忌野清志郎が語った、危機の後に戦争が来るだっかを
坂本龍一が以前紹介していた。
憲法には25条があり、国民の最低限度の生活は保障されるべきものと規定されている。だから、それを基にして緊急事態法などの法が、
現在かろうじて制定されたのだ。それでいいのである。常に憲法との整合性、合憲性を論じながら法を成立あるいは廃棄していくべきものであって、
あらかじめ憲法自体に国民の権利制限が起こりうるような規定を定めるのはおかしいのだ。
つまり、憲法に緊急事態条項が加わった場合、それからそれに基づく法が作られることになる。
ましてや、法なしで政令の権限をより上位に置こうとしてるのだ。間口をせばめてより強固な狭い法による規制を進めようとする。
ここにも火事場泥棒がいる。

『司馬遼太郎と昭和』(朝日新聞出版 2020年4月5日発行)

2020-05-02 13:48:56 | 国内・エッセイ・評論

昭和」に関しての司馬遼太郎の「発掘インタビュー」、講演録、「菜の花忌」シンポジウムや『街道をゆく』担当者座談会などを収めた一冊。
記者が司馬遼太郎の作品世界を旅しながら司馬が生きた昭和を、昭和を考え続けた司馬を描き出していく。「司馬MOOK」シリーズの一冊。
「早稲田文学」の発掘インタビュー「軍隊、悪の魅力、私の小説」が面白かった。
司馬がたびたび語っている戦時下の日本の軍隊の不条理をめぐる発言、思索から始まり、
時代をひっくり返す悪の魅力と力を斎藤道三から語っていく。
と思えば、司馬自身が持っていたゼロになりたいという子どものころからの衝動が、
空海が持つゼロを見つけたいという創作動機と結びついて『空海の風景』が生まれたということも語る。

または、本多秋五や加藤周一の批判にきちんと批判し返している痛快な場面もある。
本多秋五にとっては、司馬が歴史において相対化していく態度が不愉快なのだろうと語りながら、
司馬自身は絶対的なことが嫌いなのだと逆批判する。当時のマルキシズムを絶対視した批判に疑問を呈している。
「マルクスは僕にとって青春の頃から今に至るまで大事な隣人なんです。だけどもよくわからない隣人でもある」と語り、
それがローマ以来の神学と繋がっている感じがあるとして、本当かという疑問を持つと語っている。

また、加藤からの「民衆」と「経済的な要因」が書かれていないという批判には、自分が庶民だから、「庶民めかしく、
自分の庶民像の投影を再生産する形で書くというのは、僕の美的感覚からいえば余り好きではありません」と作家として
真摯に語っている。そして、「加藤さんは今はそんなことおっしゃられないと思います」とこの話題を結んでいる。

そうだ、司馬は膨大な座談、対話をこなしている。
そうか、司馬にとっては対談座談も歴史との対話と同じように現代との対話だったのだ。
書籍文献の森に分け入ることと街道をゆくように実地の地理的空間を歩くこと。
歴史上の人物と出会うように今、現在そこにいる人と出会うこと。これが司馬遼太郎という脳宇宙を創りあげたのだ。
そのすべてに司馬遼太郎は自身の身体から発するものを重ねていたような気がする。
だから、小説の人物は躍動するのだ。司馬の知性は闊歩するのだ。