パオと高床

あこがれの移動と定住

エミネ・セヴギ・エヅダマ『母の舌』細井直子訳(白水社 2024年9月10日)

2024-10-13 10:38:07 | 海外・小説


作者は略歴によると、トルコ生まれで、65年の18歳の時にベルリンで2年働き、その後トルコに戻り、
75年、軍政を逃れて再びドイツへ。東西ドイツやフランスで舞台監督助手などをしながらドイツ語で作家活動を始めたとある。
1946年生まれだから、今年78歳なのかもしれない。

「わたしの言葉で、舌は『言葉』の意味」と書き出される小説「母の舌」は、
どこで母は舌を無くしたのかと問いながら母語に向かうためにアラビア語を学ぼうとする。

また、その短編の次にくる小説「祖父の舌」では、そのアラビア語の師によって溢れるような文字に出会い、
アラビア語とトルコ語の類似と違いを見つめながら、師との愛情関係も描かれていく。
言葉と共に愛に出会い、その出会いは主人公の内面も目覚めさせていく。
師の持つアラビア語とイスラム教、アッラーの戒律、言葉と、主人公の持つ愛や内面との葛藤が、
詩語やダイアローグを含みながらイメージ豊かに描かれる。

文章はわざとのように辿々しいドイツ語で書かれているのだろう。
これを訳すのは、大変だっただろうと思いながらも、訳文のインパクトは強い。

  わたしはカーテンをわきに寄せて、文字たちと一緒にこのモスクの中に座った、文字たちは絨毯の上で寝そべってた、
 わたしは彼らのとなりに横になる、文字たちは休みなしにいろんな声でおしゃべりしあって、わたしの身体の中で眠り
 こんだ獣たちを目覚めさせた、わたしは目閉じる、愛の声がわたしを盲目にするだろう、彼らしゃべりつづける、
 わたしの身体がまるで真ん中で切られた柘榴みたいに開く、地と穢れの中、一匹の獣が出てきた。

と、こんな感じ。すごいでしょ。助詞をわざと省いたり、誤って使ったりしながら、訳しだす。
随所に思わずうなるような表現がある。

  愛は軽やかな鳥、いずこへもたやすく舞い降りる、されど飛びたつ翼のいかに重き。

とか。
あっという間に読める短編二つ。
読後感が印象深く残る。
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ブリアンナ・ラバスキス『葬られた本の守り人』高橋尚子訳(小学館 2024年5月27日)

2024-08-24 07:14:52 | 海外・小説

この小説の作者、アメリカの作家ラバスキスは「あとがき」でこう書く。

  私が本書の執筆を始めたのは二〇二〇年のことで、当時はまだ、現在アメリカで加熱している禁書運動が叫び声というよりも
 ざわめきに近かった。 しかし、(マーク・トウェインも言ったように)歴史は繰り返さないとしても、確実に韻を踏む。私が調査に
 身を投じはじめていたナチス時代との類似点は目につきやすく、そのため私には、自分たちがどこにたどり着くのかがわかっていた。
  最も暗い時間の中でも、いつでも光は存在する。

作者は、描きだす。
1932年のベルリン、33年にヒトラーが権力を掌握するベルリンと、36年からのドイツによって占領されていくパリ、
そして44年のニューヨークという3つの都市、3つの時間のうごめきを交差させながら、焚書や検閲、発禁から本を守ろうとした3人の女性の物語を。
それは「最も暗い時代の中」に「光」を見いだそうとする物語だった。

ハイネの言葉が小説の中を走る。「本を焼く者は、やがて人も焼くようになる」。
大学生が愛する本をベルリンで燃やし始めたとき、それがどういった事態になるかを、まだ人々は確実には理解していなかった。
そうして恐怖は、暴力は、私たちの日常を覆っていく。

  本への攻撃、理性への、知識への攻撃は、取るに足らぬ内輪もめなどではなく、むしろそれは、“炭鉱におけるカナリアの死”を意味するのです。

という、言葉が響く。カナリアを私たちは見失っているのかもしれない。
声高な激烈な、まるで大多数であるかのような発言を前にして、いつか「批判的思考や言論の自由を促すような、過激な考えや不愉快な議論を許容」することを
忘れてしまっているのかもしれない。
「自分の気に入らない、あるいは賛成できない言葉たちに火を放つことで、自分が〈正しい〉人間になれるのだと信じこませられた」ようになっていないだろうか。
これは確かに過去の「韻を踏」んでいる現在なのかもしれない。
しかも、最初は許容していた自由の中から危険な行為は生みだされる。民主主義的手段による圧倒的多数によって権力者が誕生したように。

小説は歴史的背景と合わさったストーリー展開の流れのよさで一気に読者を連れだしていく。
登場人物の毅然とした態度の心地よさ、散りばめられた言葉の決まり方がページを先へと進めさせる。
ミステリーの要素もあり、愛をめぐる物語も書かれていく。そして、何よりも本への思いが横溢する。
多くの本の作者たち、それを読む読者たち。消費され、あるいは消費されずに忘れられ、消えていく膨大な本。
少しでも、そんな本への思いが発せられるなら、この小説の中のこんな言葉も届いてくる。

  「いい戦いっていうのは、勝つことだけを指すんじゃない。世界中の人々に、挑戦することをいとわない人間がいることを思い出させること、それをいい戦いと呼ぶこともあるんだ」
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ハン・ガン『別れを告げない』斎藤真理子訳(白水社2024年4月10日)

2024-07-09 00:49:47 | 海外・小説

今、というか、ずっと、気になる作家の一人。
とにかく、翻訳されると思わず読んでしまう作家だ。

光州事件を扱った『少年が来る』も衝撃的だったが、
済州島四・三事件という国家的虐殺を扱ったこの小説も圧倒的だった。
暴力の時代の中での人間の尊厳とその暴力への人々の対応を考え続けるハン・ガンの作品は、
暴力に力で対峙するのではなく、新しい地平をどこに見出すかを問いかけてくる。
私たちはどう痛みを共有化できるのか。
その痛みの先にお互いがお互いを見出だす時、そこにあるのは愛の連帯性なのだろうか。
生者も死者も交感しあう。
その時、こうむった痛みは引き継がれ、今、私たちの痛みとなり、歴史の中に、未来の中に、
その痛みの先に辿りつける人々の状態があらわれるのではないか。
そこに暴力をふるう人間性ではない人間性のもうひとつの姿があるのではないだろうか。
ハン・ガンはそれを追い求めていく。

小説は
作家のキョンハがドキュメンタリー映画作家の友人インソンから頼まれて、
彼女が暮らした済州島に、彼女の飼っている鳥を助けに向かうところから始まっていく。
インソンは、済州島の家のなかで、自分の母親が体験した済州島四・三事件の話に向きあっていた。
そして、
雪に閉ざされたインソンの家にたどりついたキョンハの下には、
死んだはずの鳥や、インソンの母、そしてソウルに入院しているインソンが現れ、
何が起こり、何を感じたかが語られていく。
キョンハは、インソンの済州島の家で、それを追体験する。

  落ちていく。
  水面で屈折した光が届かないところへと。
  重力が水の浮力に打ち勝つ臨海のその下へ。

過去の出来事に出会うことは、暗がりに隠された暴力に出会うことである。
それは、人間の持つ暴力性の暗がりを垣間見ることでもあった。
その虚無の淵から、浴びせられた痛みだけが人を落下から拾いあげてくる。
インソンは語る。

  心臓が割れるほどの激烈な、奇妙な喜びの中で思った。これでやっと、あなたとやることにしたあの仕事が始められるって。

二人が計画した映画へのきざしが語られる。

「別れを告げない」は訳者によると「決して哀悼を終わらせないという決意」であり、
「愛も哀悼も最後まで抱きしめていく決意」という意味だと語られる。
ハン・ガンの作品では雪や鳥のイメージはよく使われるし、
『すべての、白いものたちの』などの他のハン・ガンの作品とも繋がっている。

ハン・ガンはこの小説を「究極の愛についての小説であることを願う」とあとがきに書いている。
常に光へのベクトルを見つけていく作品は、そこにある暗がりを徹底的に追体験しようとして真摯だ。
広大な小説の森の中にしっかりとした丸太が埋め込まれていくようだ。

斎藤真理子の懇切丁寧なあとがきが読者を助けてくれる。
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キム・フン『ハルビン』蓮池薫訳(新潮社2024年4月25日)

2024-06-22 08:16:13 | 海外・小説

図書館で「ハルビン」という書名を見て、手に取った一冊。
1909年に伊藤博文を銃撃した安重根について書かれた小説だ。
韓国で33万部のベストセラーになったらしい。

作者キム・フン(金薫)は1948年生まれの作家。
最近読んでいた韓国の小説家の中では年長者になる。
韓国小説が訳され出した頃から翻訳された作家だと思う。
漢字名を見たときに、ああ、彼か、と思ったからだ。

そのキム・フンが2022年、長い年月の思いを込めて書き上げたのが、この小説。
歴史で習った人物が、どう育ち、何を憤り、何を願って、
あの銃撃、射殺という行為に至ったか。
そして、その行為に人々は何を思い、また、作者は何を託そうとしたのか。
情感を抑え込んだ筆致が、読者を誘いだしながら、読者に考える時間を与える。

伊藤の時間と安重根の時間を交互に重ねながら、小説はハルビン駅に向かう。
そこがクライマックスかと思って読みすすめていたのだが、
周到に背景を書き込みながらも、展開は速い。
半分を過ぎ、3分の2ぐらいになりそうなところで、一つのピークは訪れる。
そして、そのあとは
捕らえられた安重根と取調官との相克や、神父、司教の態度、安重根の妻や周りの人々の話が書かれていく。
そこにも時代の力関係の動きとそれへの抗いが現れている。

安重根は、獄中で墨を擦って、獄吏に頼まれた文字を書いたとされている。
その文字が「弱肉強食 風塵時代」。この時代の中の青春が刻まれた言葉なのだろう。
作者はあとがきで書いている。


  安重根の輝く青春を小説にすることは、私の辛かった青春の頃からの願いだった。

と。そして、

  私は安重根の「大義」よりも、実弾七発と旅費百ルーブルを持ってウラジオストクからハルビンに向かった、
 彼の貧しさと青春と体について書こうと思った。彼の体は大義や貧しさまでひっくるめて、敵に立ち向かって
 いった主体である。彼の大義については、後世の物書きが力を込めて書かなくても、彼自らの体と銃と口がす
 でにすべてを話しており、今も話している。

と、続ける。
周到で隣接していく調査や研究の果てに、作者は安重根という人物を、その出来事を小説にした。
そこには、大義だけへの言及ではない、生きた人間の、若者の青春そのものがあった。
そこが、小説だなと思わせる。小説の持つ力だなと思わせる。
常に変わらない敵との対峙の仕方。暴挙か、義挙か。
それよりも、そこから発せられる主体の強さが迫ってくる。

小説にこんな場面があった。
安重根が家を去り、ロシア領に向かう旅に出るとき、彼はウィルヘルム神父に挨拶に行く。
そこで、彼は火炉の灰の中をほじくりながら、

  この世の一方の彼方でウィルヘルムが祈禱をし、その反対側の彼方で伊藤が白い髭を撫でている。そして、
 その間の果てしない原野に死体が折り重なっている幻影が、その灰の上に浮かんだ。死体は飛び石のように、
 その両端を繋ぎ合わせていた。

おそらく、彼は、その飛び石を踏みしめるような思いをしながら、光のウィルヘルムから離れ、
伊藤へと向かって、翔んでいったのだろう。

キム・フンは、あとがきをこう終わらせている。

  安重根をその時代に閉じ込めておくことはできない。(略)安重根は弱肉強食の人間世界の運命に立ち向かいながら、
 絶えず話しかけてきている。安重根は語り、また語った。安重根の銃は言葉だった。

作者は、そこにあった行為としての銃撃を、言葉に託す思いに賭けて、必死の変換を試みている。
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パク・ソルメ『未来散歩練習帳』斎藤真理子訳(白水社 2023年7月10日)

2023-10-07 05:14:46 | 海外・小説

韓国の小説家で一推しになるかも知れない作家に出会ったような。
現在を未来への散歩の練習ととらえる。
それは過去もすでに現在への迷うような散歩であったのかもしれないし、
現在も散歩することで、
未来へとつながっていく。
過去の中に未来を見る。変な言い方だけど未来を記憶する。
それが私たちにできることであり、私たちがすることであるというより、
していることじゃないのだろうかと
なんだか散歩しながらつぶやいてくるような。
小説は二つの流れで進む。
ひとつは現在と覚しき作家の「私」とチェ・ミョンファンの釜山での交流。
もうひとつは82年に釜山で暮らしていたスミと服役を終えて現れるユンミ姉さん、
それにスミの友人ジョンスンとの82年から現在までの物語。
つながっているのは1982年に起きた「アメリカ文化院放火事件」。
そして、この放火事件は光州事件からつながってきていて、
つまり、現在の韓国社会へと流れてくる民主化運動が
現在から振り返られる。
現在は過去によってあらかじめ夢みられた未来になっている。
その時間のスパンを、そんな時の流れを、小説は独特の距離感で描きだす。
果敢だが無理矢理感がない。
そこにある距離を距離として真摯に見つめる。
迷うようで、明確ではなく断固としたものでなくても、日々に夢みられることを
歩んでいく散歩。
それが釜山をよく歩く登場人物たちの日々の描写から伝わってくる。
龍頭山公園界隈がみごとに立ち現れてくる。また、散歩の文体、散歩の思索が
私たちの毎日の暮らしとやさしく重なってくる。
なんだろう、この読後感は。強く勇気づけられるわけではないのに、
何だか視界がほんのり晴れるような感じがする。
小説は冒頭から結末へ、その結末が冒頭へ繋がるという構成になっている。
小説の中に小説がある入れ子構造かなとも思わせる。
訳者も書いているが原文は独特の文体を持っているのだろう。
訳者が書いている「逡巡」という言葉を遣えば、逡巡しながら文章がリズミカルに進む。
迷いや行き場の予想つかなさが何だか癖になるような心地よさを持っていた。
もう一冊翻訳されている、短編集『もう死んでいる十二人の女たちと』も面白かった。
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