ブックカバー、そでに書かれた紹介文は、こうである。
「植民地化の朝鮮に渡り、李朝・高麗陶磁の窯跡の調査や朝鮮の民芸品の収集・研究に勢力を傾けた浅川巧(1891~1931)。
その一連の仕事は、柳宗悦の民芸運動にも多大な影響を与えた。」
「朝鮮の膳」は、12編収録されている論文の中の冒頭の一篇。3分の2ほどは「挿絵解説」となっていて、実際の膳の写真に
解説が添えられている。論文部分は30ページほど。この論文中の膳についての鑑賞部分も面白いのだが、民芸・工芸品の置
かれている現況や社会状況についての浅川の見解がすばらしい。
書き出し。
正しき工芸品は親切な使用者の手によって次第にその特質の美を発揮するもので、使用者は
或意味での仕上工とも言い得る。器物からいうと自身働くことによって次第にその品格を増す
ことになる。然(しか)るに如斯(かくのごとき)工芸品は世に段々少なくなる傾向がある。
即ちこの頃の流行は器物が製作者の手から離れる時が仕上がったときで、その後は使用と共に
破壊に近づく運命きり持っていない。(略)製作者は使用者に渡す納入までの責任のみを感
じ、興味は代金の領収にかかっている。(略)それからさきは使用と共に次第に醜くなるのみ
で美しさを増す余裕を与えられていないのである。
この明快さに引き込まれる。工芸品は使用されることによってより美しくなる。それが風雪を越えてきたものの中で、真に
本物であることの証だといっている。同時に、当時の商売だけでの工芸品を嘆いている。
一方は使用する日数に比例してその品位を増し、使用者から愛されて行くのに、一方は使わ
れる月日の経つと共に廃頽に近づいて行くべき哀れな運命を持って生れて来ている。
これは、現在の消費しつくす文化全体についても言えないだろうか。もちろん、残ることだけを目的に創作は行われるもので
はないだろうが、消費的な価値だけに偏重したものは残らない。
そして、浅川は朝鮮の民芸品の中に、その本物の存在を見いだすのだ。
然るに朝鮮の膳は淳美端正の姿を有(も)ちながらよく吾人の日常生活に親しく仕え、年
と共に雅味を増すのだから正しき工芸の代表とも称すべきものである。
植民地時代の朝鮮に暮らし、その人々の暮らしの中に入り、共に日々を過ごしながら、浅川は朝鮮工芸品の美しさに惹かれ、そ
の研究と保存のために収集する。
筆者はしばしば老練な匠人らの仕事場を訪れその熟練した手先の働きを飽かずに見守って
時の移るを知らないことがある。
そして、機械工業の社会を批判する。
現在の機械工業において職工は年寄れば廃人同様になる。これは職工ばかりでなく現社会の
あらゆる階級において見る現象であって、人は仕事の興味を終生つづけることが出来ない約束
が出来ている。然るに従来の匠人らは幸福に仕事をしたように思える。こんなことを考えなが
ら年寄った匠人らの働く手さきを眺めていると、吾々の生活を浄化し奮起を促す不思議な力を
感ずる。
で、この文章を読むと「不思議な力」を感じるのだ。朝鮮の膳のすぐれているところを解説し、その装飾の必要性を見極めながら、
浅川は卓見する。
凡ての場合正しき使命を有つものの存在は飾りになっても邪魔にならない。邪魔になるもの
は無用のものに限る。
効率主義を語っているのではない。飾りがあるべきところにあれば邪魔にならないといっているのだ。美しさを見極めているのだ。
ただ、単に美しいだけの無用性とは別のことを語っている。そして、さらに面白いのが、これを風刺に使うのだ。
世の中も重き任務を有つものがその能力を内に秘して常に微笑していたとしたら天下は泰平
である。必要な部分の模様化された相はその微笑にも等しい。世の中に無用のやくざ者が力み
出すほど有害で不快なものはあるまい。その結果は傲慢と不安のために世を喧擾に導くのみで
ある。
当時の世相を揶揄している。この文章は1928年に書かれ、29年に出版されている。また、これは今のこの国の政治にも十分当て
はまらないか。
浅川は、その優れた工芸品を生み出した朝鮮への思いをきちんと書いている。言葉自体に抵抗を感じる人もいるかもしれないが、
彼の思いは真摯で愛情に満ちている。
また或人はいう「我が朝鮮の文化は遅れた。遅れたからこそ今頃首都鐘路の真中に旧式の
膳屋が店を張って居れるのだ」と、しかもそれらの人達は他国の物質文明を謳歌し機械工業を
礼讃して盛にその真似を企てている。その心持には大いに同情出来るが、しかしブレイクはい
った「馬鹿者もその痴行を固持すれば賢者になれる」と。疲れた朝鮮よ、他の人の真似をする
より、持っている大事なものを失わなかったなら、やがて自信のつく日が来るであろう。この
ことはまた工芸の道ばかりではない。
時代はさらに悲惨の度合いを高めていく。浅川の死は1931年。満州事変の勃発した年である。日本でも多くの職人技が消えていっ
ている。ずっと続く、その現状とも重なってくる。また、真のナショナリズムとは何かが問われている現在にあって、浅川の言葉
は強度を持っている。
「植民地化の朝鮮に渡り、李朝・高麗陶磁の窯跡の調査や朝鮮の民芸品の収集・研究に勢力を傾けた浅川巧(1891~1931)。
その一連の仕事は、柳宗悦の民芸運動にも多大な影響を与えた。」
「朝鮮の膳」は、12編収録されている論文の中の冒頭の一篇。3分の2ほどは「挿絵解説」となっていて、実際の膳の写真に
解説が添えられている。論文部分は30ページほど。この論文中の膳についての鑑賞部分も面白いのだが、民芸・工芸品の置
かれている現況や社会状況についての浅川の見解がすばらしい。
書き出し。
正しき工芸品は親切な使用者の手によって次第にその特質の美を発揮するもので、使用者は
或意味での仕上工とも言い得る。器物からいうと自身働くことによって次第にその品格を増す
ことになる。然(しか)るに如斯(かくのごとき)工芸品は世に段々少なくなる傾向がある。
即ちこの頃の流行は器物が製作者の手から離れる時が仕上がったときで、その後は使用と共に
破壊に近づく運命きり持っていない。(略)製作者は使用者に渡す納入までの責任のみを感
じ、興味は代金の領収にかかっている。(略)それからさきは使用と共に次第に醜くなるのみ
で美しさを増す余裕を与えられていないのである。
この明快さに引き込まれる。工芸品は使用されることによってより美しくなる。それが風雪を越えてきたものの中で、真に
本物であることの証だといっている。同時に、当時の商売だけでの工芸品を嘆いている。
一方は使用する日数に比例してその品位を増し、使用者から愛されて行くのに、一方は使わ
れる月日の経つと共に廃頽に近づいて行くべき哀れな運命を持って生れて来ている。
これは、現在の消費しつくす文化全体についても言えないだろうか。もちろん、残ることだけを目的に創作は行われるもので
はないだろうが、消費的な価値だけに偏重したものは残らない。
そして、浅川は朝鮮の民芸品の中に、その本物の存在を見いだすのだ。
然るに朝鮮の膳は淳美端正の姿を有(も)ちながらよく吾人の日常生活に親しく仕え、年
と共に雅味を増すのだから正しき工芸の代表とも称すべきものである。
植民地時代の朝鮮に暮らし、その人々の暮らしの中に入り、共に日々を過ごしながら、浅川は朝鮮工芸品の美しさに惹かれ、そ
の研究と保存のために収集する。
筆者はしばしば老練な匠人らの仕事場を訪れその熟練した手先の働きを飽かずに見守って
時の移るを知らないことがある。
そして、機械工業の社会を批判する。
現在の機械工業において職工は年寄れば廃人同様になる。これは職工ばかりでなく現社会の
あらゆる階級において見る現象であって、人は仕事の興味を終生つづけることが出来ない約束
が出来ている。然るに従来の匠人らは幸福に仕事をしたように思える。こんなことを考えなが
ら年寄った匠人らの働く手さきを眺めていると、吾々の生活を浄化し奮起を促す不思議な力を
感ずる。
で、この文章を読むと「不思議な力」を感じるのだ。朝鮮の膳のすぐれているところを解説し、その装飾の必要性を見極めながら、
浅川は卓見する。
凡ての場合正しき使命を有つものの存在は飾りになっても邪魔にならない。邪魔になるもの
は無用のものに限る。
効率主義を語っているのではない。飾りがあるべきところにあれば邪魔にならないといっているのだ。美しさを見極めているのだ。
ただ、単に美しいだけの無用性とは別のことを語っている。そして、さらに面白いのが、これを風刺に使うのだ。
世の中も重き任務を有つものがその能力を内に秘して常に微笑していたとしたら天下は泰平
である。必要な部分の模様化された相はその微笑にも等しい。世の中に無用のやくざ者が力み
出すほど有害で不快なものはあるまい。その結果は傲慢と不安のために世を喧擾に導くのみで
ある。
当時の世相を揶揄している。この文章は1928年に書かれ、29年に出版されている。また、これは今のこの国の政治にも十分当て
はまらないか。
浅川は、その優れた工芸品を生み出した朝鮮への思いをきちんと書いている。言葉自体に抵抗を感じる人もいるかもしれないが、
彼の思いは真摯で愛情に満ちている。
また或人はいう「我が朝鮮の文化は遅れた。遅れたからこそ今頃首都鐘路の真中に旧式の
膳屋が店を張って居れるのだ」と、しかもそれらの人達は他国の物質文明を謳歌し機械工業を
礼讃して盛にその真似を企てている。その心持には大いに同情出来るが、しかしブレイクはい
った「馬鹿者もその痴行を固持すれば賢者になれる」と。疲れた朝鮮よ、他の人の真似をする
より、持っている大事なものを失わなかったなら、やがて自信のつく日が来るであろう。この
ことはまた工芸の道ばかりではない。
時代はさらに悲惨の度合いを高めていく。浅川の死は1931年。満州事変の勃発した年である。日本でも多くの職人技が消えていっ
ている。ずっと続く、その現状とも重なってくる。また、真のナショナリズムとは何かが問われている現在にあって、浅川の言葉
は強度を持っている。