
「桃」つながりで。
惜しみながらも「白桃(しろもも)」を食べた斎藤茂吉。彼の歌は、塚本邦雄の『茂吉秀歌百首』にあるように、
「味覚と視覚が至妙に交錯」し、「一種の法悦に近い満足感を伝」え、「ふくよかなヴォリュームと、甘美な味を」
想像させるものかもしれない。さらにまた、中学校の教科書に掲載されている馬場あき子の鑑賞文にあるように、
食べてしまうことでの哀惜感が漂っている歌ともいえるだろう。
そして、岡部隆介の詩「白桃」では、その甘美な味を想像させながらも、皮にナイフをあてるところで詩は終わっ
ていた。そこには桃を食べることへの期待と同時に来し方へのかすかな悔いの痛みがよぎっていた。
山本哲也の詩になると、そもそも桃は「白桃」ではない。その甘さとみずみずしさがある桃ではなく、単に「桃」である。
詩「桃」は1985年発刊の詩集『静かな家』に収録されている。
ちなみに山本哲也は1936年福岡市生まれ。49歳の時の詩集である。彼は2008年に死去している。
「桃」はこう書き始められる。第一連。
男がビールを飲んでいる
くだらない仕事でも
心をこめてやるしかなかった
男はビールを飲んでいる
遠くで鉄橋が鳴っている
枝豆のたよりない色をみている
電車が通過しているあいだ
鉄橋が鳴る
そんな暗いちからが必要だった
「ている」という現在進行形が繰り返されることで、当然のように今、その現在が描写される。それは今という時間が澱(おり)
のように堆積していく状況を描きだす。そこにたまる鬱屈。日常の頼りなさは「枝豆」の色のように、そこにある。
しかし、その日常は頼りなくも抜き差し難く折り重なっていく。それは暗い情念のような、暴力衝動のようなものも抱え込む。
そして、男は想像する。第二連。
ビールを飲みながら男は想像する
果物屋で桃を買う
指でおさえないでくださいねと女がいう
腐敗は いつだって
デリケートな指先からはじまるからね
家族の数だけの桃を包んだ袋をかかえて
小さな橋をわたる
角をまがる もうひとつ角をまがる
子どもらの声のかがやき
妻がガラス皿を戸棚からとり出す
ナイフのにぶい光
うすい皮と透明なうぶ毛につつまれて
テーブルのうえに桃がのっかっている
それだって幸福のひとつのありかただ
テーブルのしたは暗闇
いきなりそいつを抱きしめたい衝動にかられるが
男にはわかっている
幸福も不幸も表面的なものにすぎないってこと
「桃」は想像の世界でだけ存在している。そこにはないのだ。想像しながら桃を買って帰る日々の暮らしの中を生きる。
食べる前から「腐敗」が忍び寄る。だが、それさえも日常の「幸福」のありかたのひとつではあるのだ。日常性を拒絶している
わけではない。むしろ、そこからの逸脱や日常性のもたらす可能性を拒絶しているのかも知れない。だがボクらの幸せは、
そして不幸は共に表面的なものにすぎないのだとわかってしまうことの限界を生きている。その表面を「指でおさえないでくだ
さいね」なのだ。壊すことは腐敗を顕わにすることでもある。だが、一方で壊されないまま進行している腐敗も認識されている。
そして、最終連の第三連。
男はたちあがる
枝豆のたよりない色がのこる
排水溝をながれる銭湯の水のにおい
ながいながい塀にそって歩き
それからバスに乗る
男は目をつぶる
すこしずつ腐敗していく桃を
胸のあたりにかかえてー
ここで、男は帰路に入ったのだろうか。彼は桃を買ってバスに乗ったのだろうか。買わなかったとしても彼は胸のあたりに桃を抱えている。
腐敗していく桃を。桃は見事な暗喩になっている。そして、彼の歩む道には、バスに乗る前に沿って歩いた「ながいながい塀」があるのだ。
抱え込み腐敗していくのは何だろう。夢なのだろうか。いや、そもそも過ぎていく時間そのものかも知れない。
80年代のバブルをまだ迎えていない直前の時期の空気がある。そして、ある断念が時を経て風化していく状況がある。
山本哲也は桃を想像する。そして、それにナイフをあてることはない。その不可能を生きている。削ぐべき自己の不在、不能性、そして、
ナイフをあてる対称性の喪失を生きている。腐敗を感じながら。しかし、そこには紛れもない日々の営みがあるのだ。
山本哲也の詩、いいな。
前にも書いたけれど、何だか野呂邦暢の「白桃」の兄弟が大人になった姿のような気がする。