立花隆の評伝。
どう捉えるんだ。
その好奇心、論理性、探究心、推進力、ケレン味を。
そうか、書名「神と人と言葉と」か。
NHK出版新書から出ている『哲学史入門Ⅱ』で、
上野修が、
デカルトやライプニッツらが中世以来の「「神ー世界ー人間」の関係を念頭に置いて」いたと書いていたが、
それと呼応する書名だ。
武田は立花の宗教との距離の取り方を本書のひとつの柱にしている。
それが、『宇宙からの帰還』や『臨死体験』などにつながっていったと考えている。
うん、この「神ー世界ー人間」を「神ー人ー言葉」にし、
言葉を生業にした立花が、言葉で、言葉そのものである世界と渡り合ったのは
当然であり、、それを書名はうまく表している。
これが、立花を作ったし、立花が求めたし、立花が描きだしたものなのかもしれない。
さらに上野は『哲学入門Ⅱ』で、
スピノザの言葉の「神」や「実体」を「現実」に「一括変換しても、そのまま読めます」とも書いている。
してみると、この書名はさらに、「現実」そのものとそこにある「形而上」的なものとの際を探った立花を
表しているのかもしれない。
武田徹は、立花隆をもちあげない。
なぜ書こうと思ったか、なぜそう書いたか、どこに問題があり、どこが問題を展開させたのかを探る。
それは、立花自身がその著書でやったことだから、
立花について書くためには、欠落させるわけにはいかないまなざしなのだ。
武田は、立花隆がやった手法で立花隆評伝を書こうとしたのかもしれない。
いやいや、面白かった。
うん、それでもこぼれる存在のすごさ。
両親のキリスト教、ウィトゲンシュタインの言語、記号論理学、小説や詩への思い。
立花隆が何に依拠していたのかを探す評伝は、
立花が圧倒的な影響を受けたと本書で語られたウィトゲンシュタインの
語りえぬことについては沈黙しなければならないという有名なことばのように、
この本は、語り得ることの境界を求めた立花隆という存在への武田徹の語りえる際なのかもしれない。
で、いつも、それから溢れてしまう人たちがいる。立花隆もたぶん、その一人と思う。
この本、立花隆の若き日の詩や文学への憧れ、キリスト教との関係などが興味をそそられた。
彼の自作詩も掲載されている。
好奇心と知性が論理の整合性を求めたらとめられない。それに無邪気さまで加われば。これは‥‥。