パオと高床

あこがれの移動と定住

村田譲『円環、あるいは12日の約束のために』(緑鯨社 2013年3月1日発行)

2013-04-23 12:35:14 | 詩・戯曲その他
村田譲さんのの詩集『円環、あるいは12日の約束のために』は誠実な詩集である。誠実という言葉は、すでに手垢のついた言葉であるか。いや、多くの使われてきた状況から抜けだして、敢えて、この詩集から受けた最初の言葉は誠実さという言葉であった。それは、自身の距離への誠実さであり、切実と誠実のひらがな一文字分の差異に直面することを忘れない誠実さである。自らが直面している事態と、直面してはいないが直面した者がいるという事態への誠実さであり、それを言葉にするときの言葉との距離に対する切実さである。言葉との距離とは、摩擦し離反し、なお、吸引し、重力に引かれていくことによって刻まれる切実な関係の軌跡なのかもしれない。そして、その距離に対しても誠実であろうとして、詩集は一冊の構成の中にもくろみを持つ。そのもくろみが、作者を表現者にする。また、誠実さは表現に対しての誠実さに置いて、表現されたものの深度と説得力を獲得している。

この詩集には詩集名の詩はない。それは、Ⅰ~Ⅵのローマ数字の詩の表題とも考えられるし、詩集全体の題名つまり詩集が、この表題の元の一冊の詩であるとも考えられる。
ローマ数字の詩は、ⅠとⅡが続けて掲載され、次に「3月12日の約束」という全体につながる詩を配置して、Ⅲ。その後「12日」をモチーフにした13篇の詩が置かれて、Ⅳ。そして5篇続いて、Ⅴ。次に「3月11日のトマソン」という詩がきて、Ⅵ。以下、4篇の詩で、詩集は閉じられている。ローマ数字の詩は、それ自体で続けて読むことができる。これは、いわば外の構造を取る。
Ⅰはこう書き始められる。

 明日への約束を
 断ち切ったざわめき
 体感した大きな揺れの震源地
 覗きこむテレビに流れる速報のテロップ

そして、このローマ数字の詩群は報道としての「震災」を、報道する側、それを受け取る側の心の動きで描きだす。事態との距離と距離があることを取り込もうとする表現の動きが作りだした詩群である。
この外部を、外部にある立ち位置を、設定することで、詩は内部へ至ろうとする。そこにあったはずの多くの「12日の約束」へ、と。
作者は、時に物語に寄り添っていく。抽象ではない生活の具体に近づこうとするように。
詩「3月12日の約束」は、姉弟の「取り違えた」傘で、かなえられなかった約束を象徴している。

 今更違うといわれても
 取り違えたのはあなたたち姉弟だ
 銀の留め具に飾られた
 淡いピンクが最初からの私なのー

 木曜日の夜にどんなサヨナラ交したか
 覚えてない?
 切符を買いに券売機へと向かう
 お姉さんがあなたに荷物を預けて
 そのとき一緒にぶら下がったの
 改札機でポケットの定期を確認してたでしょ
 最終列車まで四分だったから小走りで
 改札に入ってからは東と西
 お酒を一緒にした今日のお別れと
 明後日の約束
 それぞれの腕に入れ替わった私達の悲鳴に
 列車が動く直前に気付いたみたいだけど
 ピンクとグリーンを間違えるようじゃ
 飲み過ぎの携帯コールも
 お互いがお互いに人混みのなかのマナーモード
 それ以上の呼び出しは諦めて
 どうせまた、明後日土曜日に会うのだから、と

と、取り違えられた傘が語る。だが、取り違えられた傘には持ち主に戻るというきっとある約束が信じられていたのだ。物が見ている。ジュネの戯曲にそんなセリフがあったな。物や場所には、そこにいたはずの、いた者の存在が残っている。存在の思いが残っている。霊とかの話じゃない。その場それ自体や、その場にある物が、なくなった者がいたという痕跡を宿すのだ。だから、場や物の欠落は、意識がただ意識としてしかいられなくなるという次の欠落を生む。
第二連の最終行は、次の三連の直な言葉につながる。

 次の日金曜日の地震のときの天候は
 私と間違えられたグリーンは
 あなたちのお父さんの形見の一本
 お姉さんにも繋がっている緑地の傘

 取り違えられたことでピンクの私は
 今ここにいるのだろう
 お姉さんの代わりに
 もし、列車に乗る前に気付いていた、ら?

第二連最終行の「と」と、第四連最終行の「ら」が置き去りにされた言葉のように残る。果たされない約束の無念を宿して、文字一文字が置き去りにされる。そして、最終連、

 今更違うといわれても
 あれから携帯が繋がらないのだから仕方がない
 約束したのだから待っている
 夕方の土曜日の弟が
 持て余している
 黒い縁取りのある
 あまい色の傘
              (「3月12日の約束」全篇)

「銀の留め具」が「黒い縁取り」に変わっている。そして、「淡い」は「あまい」にすり替えられる。一日の距離の遠さが示される。「夕方の土曜日の弟」という表現が、遥かな距離を感じさせる。

このあと、詩篇は物の思いを刻んで展開されていく。事態を表現するときに村田さんが選んだ表現の枷は、物の思いを聞きとるという営為だった。それが、言葉を発する力になったのだと思う。
そして、そこに、作者は、作者自身の身の回りの死を重ねていく。「円環」させるように。

詩集最後に置かれた詩「千尋の森へ」は、鎮魂と無念を包み込む祈りのような気配が、何かを願うという思考の道筋となって描きだされている。
この詩は、「抱きしめようとして広げるひとりの人間の大きさ」である「ひと尋」の距離の由来と、左手に「叫ぶ呪具」を持ち、右手に祝詞を入れた器を持って舞う「尋」という文字の字源に迫る白川静の『常用字解』を参照にした書き始めの連をもっている。
そのあと、第二連は次のように続く。

 呼び寄せようと
 伸ばしていく
 左の腕
 かなえられますように、と
 願いを託す
 右の腕
 二本の枝のうえに
 重なる想いの色が
 やわらかな陽射しに溶け込む樹々の下で
 花びらのひとひら
 届けようとの目の前を

 ひるがえり
 舞い上がる雲のむこうまで
 遠く見上げるほどに
 天の近くほど
 透き通ってしまい色失せる花のささやき
 戻れない、ここでは
 虚ろが響くこの場所では
 空に捕えられてしまうから、早く
 早く去らなくてはならないと

「3月12日の約束」の「ピンク」と「グリーン」の色がこの最後の詩の中で「樹々」と「花びら」として共存しようとする。しかし、第二連と第三連は連を作ることで連続を断たれている。「花びら」が「花びら」になる場所と、「ひるがえる」場所が1行あけによって、別の場所、別の語る主体になっているのだ。作者の声が、ひるがえる「花びら」の声に変わる。断たれた世界と交感しようとしているのだ。書かれた文字に、発声される声が宿っている。朗読で使い分けられるだろう多声の気配がある。「虚ろが響くこの場所」で捕らえられないように、ひるがえろうとする「花びら」。第四連では、再び出会いたいという最終的な思いが沁みる。
ここでも、前の連の「早く去らなくてならないと」は、次の連の「何度」につながりながら、連構成で1行離されている。作者の声に戻るように。断たれた世界から、「こちら側」への移行がある。

 何度
 約束しただろう
 何故
 約束したのだろうー
 さよならが来る日まで
 死の羽根が触れるまで
 聖霊が降りて来るまでは、と
 唯ひとりで
 向き合いながら
 その時が静寂のなかに眠る

約束を果たして終わることができなかった時がうずくまっていく。作者は、自身の声を発しながら、自分自身の願いの声を聞きとろうとする。「さよなら」ができる地点までの、すごすごとした、厳かな時間。その時間に包まれながら、どうしても受け入れるしかない諦念と向き合いながら対峙する言葉を書き記す。最終二連は、放たれる言葉と舞い戻る言葉がゆるやかに交感しあう。そして、言葉が世界にやさしく積もる。

 追いすがる
 あえぎの羽根の音を
 凍土の風が吹き消してしまう
 走り抜ける震動はすでに
 埋もれていこうとする時間のきざはしに
 天と対置する私が
 ひと尋の
 十字架となる

 こんなところに居たことを
 覚えて、捨ててあげるから、
 もとの光の世界へと
 焼けて灰となって
 風に巻かれて
 還ると
 いい
 ひとひら
 ひとひらごとに
 重ねて
 、
 桜
          (「千尋の森へ」第一連のみ省略)
 
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中川右介『未完成―大作曲家たちの「謎」を読み解く』(角川SSC新書)

2013-04-13 20:43:53 | 国内・エッセイ・評論
本の名前が「未完成」といっても、シューベルトの『未完成交響曲』についての本ではない。もちろん、第一章ではこの曲について書かれているが、資料を駆使して、推理を働かせ、未完成の曲が未完に終わった理由と経緯を読み解いていく本である。
採り上げられている曲は、シューベルト『未完成交響曲』、ブルックナー『交響曲第9番』、マーラー『交響曲10番』、ショスタコーヴィッチ『オランゴ』、プッチーニ『トゥーランドット』、そして、モーツァルト『レクイエム』。
この本の面白さは、俗説との抗いにある。
例えば、マーラーの章では、マーラーが9番を書いたら死んでしまうという死への恐怖に取り憑かれていたという俗説を排していく。笑い飛ばすように排除するのではない。その時の状況や、そういった説が出る根拠を示し推察して、未完になった理由の可能性を考えていく。だからこそ、アダージョで静かに終われば、そこに死を予言した別れの象徴を感じとるという「物語」の創作に、やさしく疑義を差し挟む。

  消え入るように終わる第一楽章は、「ここまで書いてマーラーは力尽き
 て亡くなりました」という感傷的なナレーションがぴったりで、「これぞ
 未完成のお手本」という感じだ。これに、「九のジンクス」「死の恐怖」
 「妻との愛の苦悩」という物語が付加されれば、文句なしに、悲劇のな
 かの悲劇、未完成のなかの未完成なのである。

と、こんな具合に。
そして、残った楽譜から完全版を目指して書き継がれた五楽章版を聴き、マーラーの交響曲が未完で終わった、「未完の無念さ」を感じる。
これは、ブルックナーの9番、第三楽章のアダージョにも共通する。何度も改訂を繰り返すブルックナーの間に合わなかった9番。未完成の曲が商業的に演奏される場合の二つのパターンのひとつとして、

  もうひとつが、未完成なのに、「これで完成している」と言いくるめて
 演奏するケースで、シューベルトの《未完成交響曲》はその代表だ。そ
 して、ブルックナーの第九番も第三楽章までしか演奏しない場合は、「ア
 ダージョでこの世に別れを告げた」という物語を捏造して演奏されるの
 である。

と、やや手厳しい。確かにブルックナーの企図した四楽章は長大な時間と聴き手のある種の要求から、未完成の完成を強いられてしまったのかもしれない。そして、アダージョの切々は、切々とボクらを包み込みはするのだ。が、しかし…。そう面白いのは、「だ。が、しかし」なのだ。

それにしても、ブルックナーの死を知った多くの「関係者」が、部屋に散らかっていた楽譜を「記念」に持ち帰ってしまったという記述を読んで、驚いてしまった。そうだな、そんなことってあるんだよな。そして、また、それを集め、復元しようとする後世の情熱も、ものすごいものだと思う。
シューベルトの『未完成交響曲』についての、次の著者の言葉が、この本自体が作られたもとになる好奇心を語っている。

  「未完成だが、完成している」という論理のアクロバットで名曲とな
 ったこの曲の魅力のひとつが、その謎めいたところにある。
  なんとも不思議な名曲だ。

そう、謎が面白い。

この本で初めて知ったのだが、人間とサルを掛けあわせて作られる半人半猿の物語というショスタコーヴィッチのオペラ『オランゴ』は恐ろしいストーリーだ。
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中井ひさ子「家」(詩誌「4B」2013年3月20日発行)

2013-04-04 22:22:24 | 雑誌・詩誌・同人誌から
芥川賞を受賞した黒田夏子は、人称代名詞を使わないことで、人称の曖昧さ、交換可能性を示していた。あるいは、人称代名詞化されないものを示すという逆のベクトルもあったのかもしれない。でも、一方で固有名詞も避けていたわけだから、やっぱり名詞の名状しがたさの捉え直しから始めようとしていたのかもしれない。
あっ、別のところにはまり込まないように、人称代名詞に限って考える。現代詩は、おそらく、確立されたかのような人称への疑いを早くから持っていて、一人称や一人称複数との葛藤を詩史に刻んでいるのだと思う。
が、一方で、葛藤という近代的な様相ではなく、もっと自在に自身を何ものかにしてしまう「自由」を詩において実践できる人たちもいて、そこでは、むしろ使われる人称の指し示すものの方が入れ替わるのだ。それを、あっさり何ものかになっちゃうことでやるか、鏡像現象のようにして、まなざす行為でやるか。

中井さんの詩は、見られることでの自己の確認ではなく、見るー見られるの関係の移行に存在の入れ代わりが映し込まれるのだ。
と、そんな能書きよりも、中井さんの詩の魅力は、こちらをすいと中井さんの風景の中に連れだして、おまけに置き去りにしてくれることで、そこから、じわりと沁みだしてくる感慨が、切な哀しく、なつかし温かいところだ。それは、当然のようによぎるような怖さも秘めていて。
と、またまた、そんな能書きよりも、詩「家」の魅力的な第一連。

 日暮れの向こうの
 裏道にふらりとはいった

あっ、と引き込まれてしまう。「日暮れの向こう」なのだから、夜の側なのだ。それは理解。ただ、夜の裏道ではなく、「日暮れ」と書かれることで、夜との境が見えてくる。日暮れという言葉が、日暮れの残照を示すのだ。また、「向こう」は距離も示している。日の暮れる向こう側という場所を告げてもいるのだ。だから、逆光で夕暮れが視界に入ってくる。そして、また、そこには、言葉としてあって、今、実際には無いものが書き記される。

 生垣深くに確かにあった
 瓦屋根の家が
 すとんと消えている

そこにある空白。同時に、あったはずの時間の出現。無くなった何かに連れていかれるのは案外あっさりとした言葉によってなのだ。そして、関係を一行一連で表す。

 よそよそしさが好きだった

いろいろな読みがすでにきっかけを待っている。消えた家の持つ「よそよそしさ」なのだろう。しかし、それは、主人公の過去の時間の中で感じ続けていた「よそよそしさ」でもある。つまり、主人公が持っていた「違和感」なのかもしれない。では、この「家」は何者が住む家なのか。昔の私の家。私が暮らした家の近所の家。あるいは、彼の家。

 門の前でふと目があって
 互いに目をそらしたことがある

勝手に母のイメージが浮かぶ。かつての私が私の家族と暮らした家か。だが、目をそらした「互い」とは私と私なのかもしれない。

 ゆっくり開き戸を
 閉めた人影が消え落ちていく

いいなと思う。「人影が消え落ちていく」。この存在感のバランスがいい。「日暮れ」とも呼応しているし、「開き戸」と「閉めた」の呼応もいいなと思う。そして、

 くずれた石段の柵のなか
 ぽそりと一本の杉の木が立っていて
 乾いた土には
 ヨモギやハコベが繁殖している

ここで時間の経過を告げる。だから、消え落ちた人影の一端が、時間の向こう側に行ってしまったことがわかる。今の時間が戻ってくるのだ。意識の揺れが、詩の時間を柔らかに揺らす。その、今と過去の時間をつなぎ、ふたたび時を遡行するために次の一行が来る。

 草の風がひと吹きした

風を吹かす。それは同時に、「開き戸」を、過去の「開き戸」をなでる。

 開き戸のきしむ音に
 振り返る
 人影も振り返っている

「消え落ちていく」人影が、ふたたび像を結ぶのだ。「振り返る」が「きしむ音」に振り返る者と振り返る「人影」の両方に掛かる。また、「振り返る」時間にも掛かっている。第四連の「門の前でふと目があって/互いに目をそらしたことがある」を変奏させている。そして、最終連は、こう表現される。

 裏がえったわたしになって
 杉の木の枝でひらひらゆれている
      (「家」全篇)

ここで初めて「わたし」という言葉が書き記される。「裏がえったわたし」として。すると、この「家」にいたのは「わたし」なのだろうか。過去の「わたし」であると同時に、生きられなかった別の時間を生きているかもしれない「わたし」なのかもしれない。過去もすでに「過去」という架空のものになりながら、「今」という時間に出会う。「わたし」が見るのは、木の枝で「ひらひらゆれている」わたしであり、そこに時間の描きだした物語の一切が、切れ切れに宿っているのかもしれない。

いくつもの読みの可能性を秘めている表現は、それ自体魅力的で、結局、その中から、どんな読みをしてしまうのか。「家」の住人を誰にするかで、いくつかの物語を紡ぎ出してしまう詩かもしれない。けれど、ボクは、やはり、「わたし」に出会う「家」だと思った。
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