このところ仏教についてのエッセイが多い五木寛之の、朝鮮半島の仏教を巡る旅である。インド編に続く第二弾となっているが、韓国の寺を巡る旅という面だけではなく、半島から引き揚げてきた作者の半島時代という過去への旅であり、現在に生きるものの心のあり方への啓蒙的な旅でもある。
敗戦時の体験から現実を地獄の相に見る作者が、悩みや苦しみを抱えた人間にとって仏教がどのように慈悲をもたらし、生命力を与えていくのかを問うている。
迫害に耐え、修行僧を中心にして韓国社会の中に息づく華厳経を中心にした韓国仏教は、世界を、いのちを、ひとつのものとして繋がっていると説く。そのどこもが断ち切れにするわけにはいかない繋がりの中にある「一即多・多即一」とする。作者はそこに、さまざまな現実の対立を解消へ向かわせ、軽視されるいのちの重さを取り戻すことが出来る道を探そうとする。
この本、寺の空気や仏教の中に作者が消えていくのではなく、どうしても作者の「私」が出てしまうことをどう思うかはある。作者の抱えた時間や悩みが常に根底にあって、仏教が現在、あなたにどう繋がるかを問うという姿勢なので、これは当然といえば当然だ。また、作家五木寛之であれば、「私」が読者に提示されていくのは当然なのかもしれない。ただ、もう少し、半島の仏教への沈潜が、経巡りが、あってもいいような気がした。
啓蒙する書物。確かに、それが求められる時代だと思う。「啓蒙」それ自体が、すり変えられる危険性を持っているのだが。
この本にも書かれていたが、韓国の山寺は文字通り山中にある。山に囲まれ結界を作っているようで、空気がすでに違うという感じを与える。川のせせらぎを聞きながら整備された参拝路をとぼとぼと歩くうちに山門にたどり着く。華厳寺、海印寺、松広寺、通度寺、梵魚寺、仙厳寺、仏国寺といったお寺は訪れたことがある。有名で大きなお寺で、僕のような観光旅行者が多かったが、それぞれに凛としたたたずまいと厳かな雰囲気を持っていた。そして、現に修行している僧の姿があった。そのうち、かつての百済王朝のあたりを訪ねてみたいと思った。
一時期、五木寛之の小説はよく読んだ。今、ぱっと思い浮かぶのは『風の王国』かな。『ガウディの夏』も何だか頭に残っている。
敗戦時の体験から現実を地獄の相に見る作者が、悩みや苦しみを抱えた人間にとって仏教がどのように慈悲をもたらし、生命力を与えていくのかを問うている。
迫害に耐え、修行僧を中心にして韓国社会の中に息づく華厳経を中心にした韓国仏教は、世界を、いのちを、ひとつのものとして繋がっていると説く。そのどこもが断ち切れにするわけにはいかない繋がりの中にある「一即多・多即一」とする。作者はそこに、さまざまな現実の対立を解消へ向かわせ、軽視されるいのちの重さを取り戻すことが出来る道を探そうとする。
この本、寺の空気や仏教の中に作者が消えていくのではなく、どうしても作者の「私」が出てしまうことをどう思うかはある。作者の抱えた時間や悩みが常に根底にあって、仏教が現在、あなたにどう繋がるかを問うという姿勢なので、これは当然といえば当然だ。また、作家五木寛之であれば、「私」が読者に提示されていくのは当然なのかもしれない。ただ、もう少し、半島の仏教への沈潜が、経巡りが、あってもいいような気がした。
啓蒙する書物。確かに、それが求められる時代だと思う。「啓蒙」それ自体が、すり変えられる危険性を持っているのだが。
この本にも書かれていたが、韓国の山寺は文字通り山中にある。山に囲まれ結界を作っているようで、空気がすでに違うという感じを与える。川のせせらぎを聞きながら整備された参拝路をとぼとぼと歩くうちに山門にたどり着く。華厳寺、海印寺、松広寺、通度寺、梵魚寺、仙厳寺、仏国寺といったお寺は訪れたことがある。有名で大きなお寺で、僕のような観光旅行者が多かったが、それぞれに凛としたたたずまいと厳かな雰囲気を持っていた。そして、現に修行している僧の姿があった。そのうち、かつての百済王朝のあたりを訪ねてみたいと思った。
一時期、五木寛之の小説はよく読んだ。今、ぱっと思い浮かぶのは『風の王国』かな。『ガウディの夏』も何だか頭に残っている。