この小説の作者、アメリカの作家ラバスキスは「あとがき」でこう書く。
私が本書の執筆を始めたのは二〇二〇年のことで、当時はまだ、現在アメリカで加熱している禁書運動が叫び声というよりも
ざわめきに近かった。 しかし、(マーク・トウェインも言ったように)歴史は繰り返さないとしても、確実に韻を踏む。私が調査に
身を投じはじめていたナチス時代との類似点は目につきやすく、そのため私には、自分たちがどこにたどり着くのかがわかっていた。
最も暗い時間の中でも、いつでも光は存在する。
作者は、描きだす。
1932年のベルリン、33年にヒトラーが権力を掌握するベルリンと、36年からのドイツによって占領されていくパリ、
そして44年のニューヨークという3つの都市、3つの時間のうごめきを交差させながら、焚書や検閲、発禁から本を守ろうとした3人の女性の物語を。
それは「最も暗い時代の中」に「光」を見いだそうとする物語だった。
ハイネの言葉が小説の中を走る。「本を焼く者は、やがて人も焼くようになる」。
大学生が愛する本をベルリンで燃やし始めたとき、それがどういった事態になるかを、まだ人々は確実には理解していなかった。
そうして恐怖は、暴力は、私たちの日常を覆っていく。
本への攻撃、理性への、知識への攻撃は、取るに足らぬ内輪もめなどではなく、むしろそれは、“炭鉱におけるカナリアの死”を意味するのです。
という、言葉が響く。カナリアを私たちは見失っているのかもしれない。
声高な激烈な、まるで大多数であるかのような発言を前にして、いつか「批判的思考や言論の自由を促すような、過激な考えや不愉快な議論を許容」することを
忘れてしまっているのかもしれない。
「自分の気に入らない、あるいは賛成できない言葉たちに火を放つことで、自分が〈正しい〉人間になれるのだと信じこませられた」ようになっていないだろうか。
これは確かに過去の「韻を踏」んでいる現在なのかもしれない。
しかも、最初は許容していた自由の中から危険な行為は生みだされる。民主主義的手段による圧倒的多数によって権力者が誕生したように。
小説は歴史的背景と合わさったストーリー展開の流れのよさで一気に読者を連れだしていく。
登場人物の毅然とした態度の心地よさ、散りばめられた言葉の決まり方がページを先へと進めさせる。
ミステリーの要素もあり、愛をめぐる物語も書かれていく。そして、何よりも本への思いが横溢する。
多くの本の作者たち、それを読む読者たち。消費され、あるいは消費されずに忘れられ、消えていく膨大な本。
少しでも、そんな本への思いが発せられるなら、この小説の中のこんな言葉も届いてくる。
「いい戦いっていうのは、勝つことだけを指すんじゃない。世界中の人々に、挑戦することをいとわない人間がいることを思い出させること、それをいい戦いと呼ぶこともあるんだ」