1978年にブエノスアイレスの大学で行われた、ボルヘスの5回にわたる連続講演の記録である。
テーマは「書物」、「不死性」、「エマヌエル・スヴェーデンボリ」「探偵小説」、「時間」の5つ。
この文庫の序言で、ボルヘスは「読書がそうであるように、講義もやはり共同作業であり、そこでは受講する者と講義を行う者は対等の重みをもっています」
と書いているが、最初のテーマ「書物」では、書物が読者と作者の共同作業の場だということが納得できる。
口頭から記述された書物への価値の推移と、書物をひもとく者が見いだす書物の価値について語られる。文庫で20ページほどにボルヘスの知が凝縮されている。
この人の頭は、そうアレクサンドリアの図書館だ。
書物は人間が創り出したさまざまな道具類の中でもっとも驚嘆すべきもの
です。
と、ボルヘスは語り始める。そして、
書物は想像力でもあります。われわれの過去は一続きの夢でしかなく、夢を
思いだすことは過去を思いだすことであり、それこそが書物の果たす役割な
のです。
と、しながら、しかし、古代の人々は口頭の言葉を重んじ、書物を崇拝していなかったと過去の価値を語ります。
プラトンの言葉として、口から出た言葉は「羽のある、神聖なもの」だとされたと紹介し、次にピタゴラスを取り上げる。ピタゴラスは、のちに聖書に記載される
「文字は人を殺し、霊は人を生かす」という言葉を予見していたからこそ、「書かれた言葉に縛られたくない」と思ったにちがいないとボルヘスは洞察する。この
聖書の言葉は中島敦の小説「文字禍」のモチーフだ。
そして、ソクラテスやプラトンらは口頭の言葉に乗って、永遠を生きようとし、書物は問いかけても返事はこないからプラトンは「対話」を生みだしたとボルヘスは語る。
脇道になるけれど、個体発生は系統発生を繰り返すではないが、知の草創期は、個人が若い時期にそうであるように、書く言葉よりも話す言葉の中でお互いを伝え合い、
その反応がお互いを変え、そこでお互いを認識し記憶していったのだろう。それが時間のスパンと歴史の長さ=記憶の連続=記憶の総量の増大によって文字化を進めて
いくのかも知れない。
もちろん、ここには権力が空間支配から永遠不死への欲望による時間支配に移っていく過程もあるのかも知れない。今、現在を支配するものは未来をも支配しようと
欲するだろうし、未来を支配することは過去の歴史を支配することにもつながるのだから。だからこそ、権力は歴史記述を進めていく。
あっ、ボルヘスに戻る。
さらに、一度だけ文字をいくつか書いたイエスの文字は砂に掻き消されたということや、仏陀が口頭で教えを広めたことなどを示しながら、ついに「神聖な書物」という
「新しい概念」が東方からもたらされたと価値の変化を語る。その2つの例が「コーラン」と『モーセ五書』。これらは聖霊の手になるとされたとボルヘスは言う。
そして、その書物を聖なるものとする崇拝の薄れと共に、それに代わる様々な信仰が生まれてきたとして、書物によって国を象徴させるという例を紹介する。
いよいよ、近代まできた。そして、現代へ。
そこでは、ボルヘスは書物論、読書論、作品論を手際よく織り交ぜていく。例えば、モンテーニュに即して、
文学もまた喜びをもたらすひとつの形式だと言ってもいいでしょう。読者
が難解と思うような作品を書いたとすれば、それは作者が失敗したというこ
とです。ですから、読むのに大変な努力を要する作品を書いたジョイスのよう
な作家は、本質的に失敗していると考えられます。
書物は人に努力を求めるべきではない。幸せは人に努力を求めてはならない。
こう語る。もちろんここで終わるわけではなく、モンテーニュは「熱情をこめて書物について語りつつも」それを「怠惰な喜びでしかない」と結んでいるとして、
エマソンの逆の考えも示す。
図書館とは魔法の書斎であり、そこには人類のもっともすぐれた精神が魔
法にかけられて閉じ込められている。彼らは沈黙の世界から飛び出そうと、わ
れわれが呪文を唱えるのを今か今かと待っている。
そうしながら、ボルヘスは自身の考えを告げていく。
私に言わせれば、ひとりの作家を理解する上でもっとも大切なことはその
人の抑揚であり、一冊の書物でもっとも重要なのは作者の声、われわれに届く
作者の声なのです。
と。
書物への思いを語るボルヘスの講義はこのような言葉で、その第1回目を終えようとする。
古い書物を読むということは、それが書かれた日から現在までに経過した
すべての時間を読むようなものです。それゆえ、書物に対する信仰心を失って
はなりません。(略)楽しみを見出したい、叡智に出会いたい、そう思って書
物をひもといてください。
この講義、叡智の一端に触れたような気がした。第1回の分、数ページでこれなのだ。
それにしてもボルヘスやカルヴィーノなどの講義録は面白い。小林秀雄や吉本隆明もそうだけれど、学生を相手に講演するときの真摯な態度や親身な姿勢はいいな。
知をどう伝えるか、知を伝えるという行為の様々な姿に出会える。