パオと高床

あこがれの移動と定住

ハン・ジョンウォン『詩と散策』橋本智保訳(書肆侃侃房 2023年2月6日)

2023-02-17 03:02:45 | 海外・エッセイ・評論

散歩を愛す韓国の詩人ハン・ジョンウォンが、詩に出会い、詩を歩き、感じ考えたことを
「澄んだ水晶」(訳者あとがき)のように綴ったエッセイ集。
散歩と詩は、こんなにも素敵な出会い方をするのだと、エッセイを一つ読んでは、
閉じた表紙の、これまた素敵なデザインを見ながら、しみじみ感じた。
そして、詩と散歩と思索は、拾い集めたくなることばをこんなに、はらはらと舞い散らせてくれるのだと、
うれしくなってしまった。

詩をいくらかは読んできたけれど、どれだけ詩との出会いを大切にしてきたのかなとか、
ただ消費するようにことばをなくしてきてしまったとか、そんなことを考えた。
これまで出会った詩に、もう一度、出会い直してみたいという気持ちにさせてくれた。
そう、
「雪は白い色というよりは、白い光と言ったほうがいい。その光は私の愛する人の顔を映しだしてくれる」と、
書かれているように、雪を愛する詩人のことばは、すいと光を差しだしてくれる。
そこに置かれた思いをもったことばたち。
オクタビオ・パス、ボルヘス、ペソア、ウォレス・スティーヴンズ、ヴァルザー、ヴェイユ、
ツェラン、エミリー・ディキンスン、リルケ……。
ロシアの詩人アンナ・アフマートヴァ、イランの詩人フォルーグ・ファッロフザードもいる。
あっ、金子みすゞも。
それらの詩句を口ずさみながら、散歩をし、日々の暮らしを過ごしながら、
思いはゆっくりと自在に歩みを続けていく。
読んでいると、日々の中に木々に囲まれた静謐な場所が現れるような気がしてきた。

最近、詩をめぐる本や、詩を紹介する本に、一緒に連れだしてくれる、誘いだしてくれる本が
多いような気がする。
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ハン・ガン『そっと 静かに』古川綾子訳(クオン 2018年6月25日)

2018-07-30 23:36:04 | 海外・エッセイ・評論

ハン・ガンのエッセイ集だ。
『菜食主義者』『少年が来る』『ギリシャ語の時間』と、いつもいつも圧倒された韓国の作家ハン・ガン。
彼女の音楽にまつわる記憶のエッセイといえばいいのだろうか。

4つの章から構成されている。
第1章「くちずさむ」は、子ども頃からの音楽との関わりを描く4つのエッセイでできている。
第2章「耳をすます」は各エッセイに曲の作詞、作曲者名が記され、ハン・ガンの思い出の曲についての感想や
その曲を聴いていたときの自分自身の記憶などが書かれている。その表現は上質な文学の表現になっていて、
感覚的であったり、滲むような情感があったり、思索的であったり、詩的であったりする。なによりもその曲を、
聴きたくなり、その詞に出会いたくなる。また、引き出される作家や詩人の作品に触れたくなる。ハン・ガンの、
音楽への、文学作品への思いが、丁寧に描かれている22篇だ。
3章「そっと 静かに」の10篇は、ハンガンが作詞作曲をし、そして歌った曲の歌詞と、その時のいきさつや心情が
書かれている。最初、詩集でデビューした彼女の、詩に寄せる思い、そして詩を載せる曲への愛情が溢れている。
そして4章「追伸」。この中の「ごあいさつ」というエッセイは、「あとがき」によると挨拶として冒頭にあった章らしい。
確かに挨拶の側面を持っているが、他の2篇は夢のような、夢を描いた小品になっている。

ハン・ガンのイメージやその表現は、こちらを包んでくるようだ。ことばへの愛情と敬意を持ち、だからこそ、
ことばの持つ困難を引き受けて生きている作家。そして、それだから、困難の先に表れる表現の喜びのようなものが伝わって
くるような気がする。その痛みと共に。

  ある日の夕暮れどき、ふいに舌先にぶら下がってきた昔の歌をくちずさんだことがあるだろうか。
 胸が苦しくなったり、刺されるように痛んだり、ぽかぽかと温められたりしたことがあるだろうか。
 ほかならぬその歌の力で、長いこと忘れていた涙を流したことがあるだろうか。    (「歌の翼」)

  そういえば風という言葉も、日差しという言葉も出てこないのに、なんて光と風に満ちた歌なのだろう。
 今もたまにくちづさむことがあるけれど、歌えば歌うほど心に響く、金素月の詩が持つ呪文の力とともに、
 単純な旋律が穏やかに光ながら体を満たす。 (「母さん姉さん」)

   どれくらい聴いたら、歌は体に刻み込まれるのだろう。 (「You needed me」)

  (略)夜に清涼里から江原道へと出発する列車に何回か乗った。たくさんの駅で人々が乗って降りて、
 寝る者は寝て、騒ぐ者は騒いでいるあいだ、その果てしなく黒い夜を全身で突き抜けながら通り抜けてい
 く列車の轟音を愛した。枕木と、線路と、そのあいだに生えている乾いた草を愛した。淋しくなかった。
 すべてはただ、満ち満ちていた。 (「500 miles」)

  ふと振り返ると、日が暮れる直前の青味の残る空の下、家並みは優しく寄り添い、子どもは私の手を
 握ったまま歌に耳をすましていて、私はその瞬間、この世の誰よりも幸せな人間だった。
  ありがとう、少女のように昔の歌を歌っていたイイダコ料理屋のおばさん。ありがとう、守護天使の
 ように私たちについてまわる歌の数々。その歌に乗って飛び交う幾多の時間。懐かしい昔の想い……。
 突然、背後から私たちを呼び止める、あの声や音。 (「麦畑」)

各エッセイが歌のタイトルになっているし、それぞれで扱われた詩や歌詞が、かなり引用、掲載されている。
また、記憶と重なる曲は、韓国の70年代、80年代のフォークソングやロックバンドから、ピーター・ポール&マリー、
ジョーン・バエズ、メルセデス・ソーサ、「Let it be」それに「菩提樹」などさまざま。さらに、それに李箱や白石
などの文学畑の作者もいるし、パンソリなどの伝統音楽も入ってくる。

各エッセイについている歌手や詩人、作家などの註釈がとてもいい。そのまま、聴きたい、読みたいリストになる。
本の題名『そっと 静かに』はうまい訳だなと思う。
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J・L・ボルヘス『語るボルヘス』木村榮一訳(岩波文庫)

2017-11-26 10:45:08 | 海外・エッセイ・評論

1978年にブエノスアイレスの大学で行われた、ボルヘスの5回にわたる連続講演の記録である。
テーマは「書物」、「不死性」、「エマヌエル・スヴェーデンボリ」「探偵小説」、「時間」の5つ。
この文庫の序言で、ボルヘスは「読書がそうであるように、講義もやはり共同作業であり、そこでは受講する者と講義を行う者は対等の重みをもっています」
と書いているが、最初のテーマ「書物」では、書物が読者と作者の共同作業の場だということが納得できる。
口頭から記述された書物への価値の推移と、書物をひもとく者が見いだす書物の価値について語られる。文庫で20ページほどにボルヘスの知が凝縮されている。
この人の頭は、そうアレクサンドリアの図書館だ。

  書物は人間が創り出したさまざまな道具類の中でもっとも驚嘆すべきもの
 です。

と、ボルヘスは語り始める。そして、

  書物は想像力でもあります。われわれの過去は一続きの夢でしかなく、夢を
 思いだすことは過去を思いだすことであり、それこそが書物の果たす役割な
 のです。

と、しながら、しかし、古代の人々は口頭の言葉を重んじ、書物を崇拝していなかったと過去の価値を語ります。
プラトンの言葉として、口から出た言葉は「羽のある、神聖なもの」だとされたと紹介し、次にピタゴラスを取り上げる。ピタゴラスは、のちに聖書に記載される
「文字は人を殺し、霊は人を生かす」という言葉を予見していたからこそ、「書かれた言葉に縛られたくない」と思ったにちがいないとボルヘスは洞察する。この
聖書の言葉は中島敦の小説「文字禍」のモチーフだ。
そして、ソクラテスやプラトンらは口頭の言葉に乗って、永遠を生きようとし、書物は問いかけても返事はこないからプラトンは「対話」を生みだしたとボルヘスは語る。

脇道になるけれど、個体発生は系統発生を繰り返すではないが、知の草創期は、個人が若い時期にそうであるように、書く言葉よりも話す言葉の中でお互いを伝え合い、
その反応がお互いを変え、そこでお互いを認識し記憶していったのだろう。それが時間のスパンと歴史の長さ=記憶の連続=記憶の総量の増大によって文字化を進めて
いくのかも知れない。
もちろん、ここには権力が空間支配から永遠不死への欲望による時間支配に移っていく過程もあるのかも知れない。今、現在を支配するものは未来をも支配しようと
欲するだろうし、未来を支配することは過去の歴史を支配することにもつながるのだから。だからこそ、権力は歴史記述を進めていく。

あっ、ボルヘスに戻る。
さらに、一度だけ文字をいくつか書いたイエスの文字は砂に掻き消されたということや、仏陀が口頭で教えを広めたことなどを示しながら、ついに「神聖な書物」という
「新しい概念」が東方からもたらされたと価値の変化を語る。その2つの例が「コーラン」と『モーセ五書』。これらは聖霊の手になるとされたとボルヘスは言う。
そして、その書物を聖なるものとする崇拝の薄れと共に、それに代わる様々な信仰が生まれてきたとして、書物によって国を象徴させるという例を紹介する。
いよいよ、近代まできた。そして、現代へ。
そこでは、ボルヘスは書物論、読書論、作品論を手際よく織り交ぜていく。例えば、モンテーニュに即して、

  文学もまた喜びをもたらすひとつの形式だと言ってもいいでしょう。読者
 が難解と思うような作品を書いたとすれば、それは作者が失敗したというこ
 とです。ですから、読むのに大変な努力を要する作品を書いたジョイスのよう
 な作家は、本質的に失敗していると考えられます。
 書物は人に努力を求めるべきではない。幸せは人に努力を求めてはならない。

こう語る。もちろんここで終わるわけではなく、モンテーニュは「熱情をこめて書物について語りつつも」それを「怠惰な喜びでしかない」と結んでいるとして、
エマソンの逆の考えも示す。

  図書館とは魔法の書斎であり、そこには人類のもっともすぐれた精神が魔
 法にかけられて閉じ込められている。彼らは沈黙の世界から飛び出そうと、わ
 れわれが呪文を唱えるのを今か今かと待っている。

そうしながら、ボルヘスは自身の考えを告げていく。

  私に言わせれば、ひとりの作家を理解する上でもっとも大切なことはその
 人の抑揚であり、一冊の書物でもっとも重要なのは作者の声、われわれに届く
 作者の声なのです。

と。
 書物への思いを語るボルヘスの講義はこのような言葉で、その第1回目を終えようとする。

  古い書物を読むということは、それが書かれた日から現在までに経過した
 すべての時間を読むようなものです。それゆえ、書物に対する信仰心を失って
 はなりません。(略)楽しみを見出したい、叡智に出会いたい、そう思って書
 物をひもといてください。

この講義、叡智の一端に触れたような気がした。第1回の分、数ページでこれなのだ。

それにしてもボルヘスやカルヴィーノなどの講義録は面白い。小林秀雄や吉本隆明もそうだけれど、学生を相手に講演するときの真摯な態度や親身な姿勢はいいな。
知をどう伝えるか、知を伝えるという行為の様々な姿に出会える。
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オルハン・パムク『父のトランク』和久井路子訳(藤原書店)

2008-05-31 08:19:38 | 海外・エッセイ・評論
2006年度ノーベル文学賞を受賞したトルコの作家の受賞講演が収録された本である。講演の始まりはこうだ。
「亡くなる二年前に、父は自分の書いたものや、メモや、ノートの詰まった小さいトランクをわたしのところに持ってきました。いつものふざけた、皮肉な調子で、後で、つまり自分の死後、それらを読んで欲しいとあっさり言いました。」
小説の書き出しのような始まりである。そして、「わたし」は「父のトランクに触れて、それを開けることが」どうしてもできないのだった。そのわたしの心は父への思いと作家であることへの思いに拠っている。そして、「作家であること」とは、というところから講演は進められていくのだ。
「わたしにとって作家であると言うことは、人間の中に隠された第二の人格を、その人間を作る世界を、忍耐強く、何年もかかって、発見することです。」
「忍耐強く」は「針で井戸を掘る」ようにと表現される。その「根気と忍耐」が作家である大変さよりも作家である悦びに転じているパムクの強い小説への思いが感動的ですらある。
そして、「中心ではないという感覚」でトルコという地理的特色と「わたし」の心的状況の交差を語ったり、「なぜ書くか」という直截な問いに直截に向き合う姿勢を示したりしながら、この「父のトランク」という一編の物語性を持った話は、見事な着地点を見いだして終わるのだ。パムクは小説家なのだということを強く感じさせる講演だった。
また、この人は作家であると同時に読書家である自分自身を語っている。小説を書く悦びと同時に小説を読む愉しみを溢れるように語っているのだ。小説への強い信頼に裏打ちされた厳しさと真面目さが、何か爽快な印象をもたらす。そして、作家というものはこうでなきゃと思わせてくれるのだ。
収録された講演のひとつ「カルスで、そしてフランクフルトで」の中で彼はマラルメを引用して次のように語っている。
「マラルメの〈この世の全ては一冊の本のなかに入るために存在する〉ということばは、わたしによれば最後まで真実なのです。この世の全てをその中に一番よくとり入れる本とは、わたしにいわせれば、それは疑いもなく小説です」と。
また、別の講演では、その小説を書き了えることができるのは、作者がその本に「内包する作者」になれた時だと語る。
あるいは、「いい小説家は〈他者〉を示す境界線を調べ、それによって自分自身の境界を変えようとします。他者が〈わたしたち〉になり、わたしたちが〈他者〉になるのです。もちろん、小説はこの二つを同時にします。自分たちの生活を他者の生活のように語ったりしながら、同時に他者の生活を自分たちの生活のように書くことをわたしたちに可能にしてくれます。」そして、「わたしたちの想像力、作家の想像力が、この限られた現実の世界に、この上ない魔法の、特別な魂を与えるのです。」とも語るのだ。
多くの言葉がストレートに響いてくる。小説っていいなという思いに満たされてくる。たとえば、心から歌の好きな歌手や、その道を愛してやまない職人や、宇宙にとことん魅せられた天文学者や、生物にとりつかれた生物学者や、物理の謎のエレガントな答えに感応する物理学者や、言葉が好きで好きでたまらない詩人やらが語る話の力強さと説得力。いいいよね。

何人かの影響を受けた作家があげられている。まずトルストイ、ドストエフスキー、トーマス・マン、プルーストの四人。そして、フォークナー、ナボコフ、ボルヘス、カルヴイーノ。カフカも。他に「あなただったら誰にノーベル賞を出すか」の質問に応えて、数人を挙げているが、そんなサービス精神も楽しかった。

ただ、パムクの小説を読まなきゃいけないのだけれど。ちょっと訳がきついんだよな。

トルコは興味深い。


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フェルナンド・ペソア『不穏の書、断章』澤田直訳編(思潮社)

2008-04-26 06:46:02 | 海外・エッセイ・評論
この不安な感じと不穏な感じ。イメージと思念のぶつかりあい、融合。分裂と自在さの戯れ。疲労と反逆の揺れ。冒険と冒険の不可能。時間の取り戻せなさと掴み切れなさへの悔悟と逆転した諦観。私であることと私がないことの往還。悲哀、郷愁、そしてアイロニー。断章は断章となって、完結と完成をすり抜けていき、作品の陥穽を避けながら、読者を断章の陥穽に落とし込める。そこに心地よさもあるのだ。

「でも、あなたといるとぼくは不安でたまらない。そう、それなんだ、あなたはぼくを不安におとしいれるんです。そのとおりだよ、食事相手はうなずいた。わたしといると最後はだれもがそうなのさ。だけどね、そもそも文学の役割とはそこにあるのだと思わないかい? ひとの不安をかきたてることだとは? わたしに言わせれば、ひとの意識を慰撫するような文学などは信用できない。」
タブッキの『レクイエム』、食事相手との会話場面である。この食事相手ペソアの遺した膨大な断章から編まれたのが本書だ。

様々な人格を作って、詩を創作したペソア。この『不穏の書』はリスボンの会計助手であるベルナルド・ソアレスの手記として書かれている。訳者の澤田直は、ソアレスはペソアの「文学的分身」であると書いている。「分身」そのものが私の複数性とどこまでいっても私から逃れられない倦怠を示す重要な装置になっている。

複数化する私。「私は思考によって自分を、残響(エコー)に、深淵に創りかえた。私は自分を深めながら、複数になってゆく。」(『不穏の書』6)それは、他者を抱えこみ、他者を生みだし、「私は自分自身であることのうちでさえ、他人なのだ。」(『不穏の書』6)ということであり、「創造するために、私は自分を破壊した。自分のなかで、こんなにも私を外化したので、もはや内部さえも外的にしか存在しない。私は、俳優たちが通過し、さまざま芝居を演じる生きた舞台なのだ。」(『不穏の書』7)そして、「私とは、わたしとわたし自身とのあいだのこの間である。」(『断章』34)と書かれ、さらに、表紙の文字にもなっている「もうずいぶんまえから、私は私ではない」(『不穏の書』40)という断章が現れる。
一方、倦怠は、「倦怠とは、疲労だが、それは昨日の疲労とか今日の疲労ではなく、明日の疲労、そして、もし永遠が存在するのなら、永遠の疲労、あるいは、永遠が虚無のことだとすれば、虚無の疲労である。」(『不穏の書』65)や、「倦怠とは、混沌を身体的に感覚することであり、混沌がすべてであるという感覚だ。」と、世界と時間のただ中にある人の逃れがたさを捉えながら、「ああ、しかし、倦怠とは、そのことなのだ。たんにそのことなのだ。存在するあらゆるもの、空や大地や宇宙、すべてのうちには、私しかない、ということなのだ。」と、「諦念」を語ると同時に私を複数化していく創作への動機付けも語りだしていく。

手記の見せる様々な様相に、ぼくらは思念が文学へ飛翔するのを見ることができる。その姿は、「螺旋とは、つねに自己を二重化し、けっして自己を実現することなく昇ってゆく潜在的な円である、と言えよう。」(『不穏の書』87)と書かれる手記の断章そのままの構図を作りながら、「われわれのどんな印象もひとに伝えることはできない。印象を文学にするときのみ、伝達が可能になるのだ。」(『不穏の書87』)と書き込まれた文章をも実践しているのだ。

澤田直がロラン・バルトを引いた、作品とテクストの違いに関するあとがきでの寸評やベンヤミンの引用が、この本との向き合い方を自由にしてくれる感じがあった。

タブッキの『レクイエム』の、多くの人物との出会いが小説を作っていく構造が、「郷愁。それが私の感じたものだった。私にとってなにものでもなかったものにさえ、時間の流れの前で感じる不安や、生の神秘の前で感じる病のために感じるのだ。私が自分のいつもの街で毎日眺めてきた様々な顔それらが見えなくなると、こんなふうに悲しくなる。彼らは私にとってなにものであったこともないのだが、人生全体の象徴であるのだ。」(『不穏の書』15)という部分に重なったりする。タブッキは、ペソアを活かしているのだ。



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