パオと高床

あこがれの移動と定住

坂多瑩子「幼年」と詩誌「すぷん」創刊号(2018年夏 書肆かまど屋)

2018-08-28 10:04:40 | 詩・戯曲その他

坂多さんの詩「幼年」が面白いのだが、詩誌の作りも面白くて。
うーむ、悩んで、まず、坂多さんの詩の冒頭紹介。「幼年」。

  起こしてきてといわれ
  おじいちゃん死んだふりしてるよ
  そうこたえてあとは家の中が急に賑やかになり
  次の朝はやく
  階段降りる途中で
  死んだはずの祖父によびとめられ

と読みながら、もう不思議な気分になる。いったい、この数行でどれだけの時が流れたか。「次の朝はやく」なのに、
「おじいちゃん」から「祖父」と呼ぶまでの時間が流れている。数行で、今の私が当時の私を思い出していて、その状
況が示されていて、数行で動いた時間がどれくらいの時かわからないという場合は、実は時間が止まったままともいえ
るわけで、こんな詩の跳躍力っていいなと思う。で、こう続く。

  そんな一連のできごとがあって
  寝てるふりと死んだふりの違いはどこにあったのか

あっ、そういうことかと合点がいきそうになりながら、でもそれは分かつことができない、曖昧な境界のままという合点
であって、その曖昧さは感覚で捉えられる。

  ゆりうごかしたなんども
  起きない祖父がいて
  でも冷たくはなかったから寝てるふりでよかったのに
  なまあたたかい首が涸れていく

と、なっていく。この感覚は、触覚は、残り続ける。「おじいちゃん」の頃から「祖父」と呼ぶ頃まで。そして、詩は静か
にことばをめぐる時の経過へと展開していく。このあと、詩には、物語ることばの「うそ」の時の経過がふわりと折り重なっていく。
ある日、流れなくなった時間があって、それを包むように流れる時間があって、ことばがそこをたゆたっていく。
風化する膨大なことばの中で、消えない感覚があり、それがことばに乗ると、ことばは物語を孕みながら物語の世界に近づく。
この詩では、物語に宿る「うそ」の感触を作者は捉える。その「うそ」に親和性を感じるか感じないかかもしれない。
それは「寝てるふり」と「死んだふり」の、曖昧な違いのようでありながら、感覚が捉えて離さない、わずかな違いなのかもしれない。
それが、幼年と今を行きつ戻りつするような詩句で紡がれる。
時の重なりはうずたかく重なるだけではなく、なんだか横にも広がりながら、接する面を重ねているようで。そこに空間に
放たれる物語の世界があるようで。詩は重なる時間を持ちながら、飛び石を跳ぶように場面を往き来する。だから、楽しい。

で、楽しさのもうひとつが、この詩誌のつくり。あっ、こんな作りがあるのかと思った。
詩誌を、お気に入りのあなた(詩人)との二人だけの出会いの場にする。今回は水野るり子。水野さんの詩、面白いな。
坂多さんが、水野さんの詩を掲載しながら、二人での対話も加えて、その詩の魅力を書きだしていく。 
創刊号、これからもお気に入りの詩人を寄港地にしながらの、詩の海の航海、たいへんそうだけれど、楽しいだろうな。

紅玉いづき『現代詩人探偵』(創元推理文庫 2018年4月13日)

2018-08-26 10:04:34 | 国内・小説

ミステリには違いない。
ただ、犯人捜しや謎解きミステリとは違って、いわば動機探しミステリであり、そこにある謎は、動機を孕む「人」という存在が
不可解なものである以上、より深まるばかりなのかもしれない。で、あれば「謎が解ける」はずのものがミステリであるのならば、
むしろ反ミステリかもしれない。そこが面白い。
詩を扱ったミステリは多い。古歌、民謡、数え歌から現代詩まで、詩とミステリは親和性が高い。詩に沿って事件が起こる、ある
いは事件の背後に詩があるという小説を想像して読み始めたのだが、それもきれいに裏切られる。作品としての詩が事件にからむ
のではなく、確かに絡まないわけではないのだが、その絡みよりも、詩を創作する「詩人」の置かれた状況と内面を明らかにしよ
うとする小説なのだ。ここで書かれているのはむしろ創作者の苦悩と、その苦悩をつまびらかにしていくことの徹底的な徒労さな
のだ。
では、それが面白いのかと聞かれれば、うん、面白かった。ああ、こんな展開もあるのかと読みすすめていくことができた。

ストーリーの概要はこう。
地方都市でオフ会が開かれる。会は「現代詩卵の会」。参加者は9人。詩を書き続けることを確認し合い10年後の再会を約束する。
そして、10年後集まったのは5人で、4人は自殺や不審な事故死を遂げていた。そのオフ会のメンバーで、現在25歳(最初のオフ会の
時は15歳)の「探偵くん」と呼ばれる主人公が、死んだ4人の亡くなったときの状況となぜ死ななければならなかったのかを探って
いくという小説だ。
各章の最初に登場人物が書いたとされる詩が、掲載されている。「探偵くん」ということばにはあきらかに萩原朔太郎の詩のイメー
ジがある。
小説の冒頭は

  詩を書きたくて詩人になった人間なんていない。

確かに、そうかもとも思う。最初から、詩を選んだ詩の書き手はどのくらいいるのだろう。そして、「詩を書いて生きていく」とは
どういうことなのかを問い続けていく。詩が死を抱え込み、詩人は常に創作の行き着く場所として死に包み込まれるということが、
確認されるように、何度も繰り返されていく。
創作し続けること、そこには罠のようにタブーが待ち受けている。そして、作品と作者の間にある、この小説最大の、もしかしたら
唯一のミステリらしいミステリも仕掛けられている。

孤独や苦悩は、そのただ中にある人にしか感覚されないものかもしれない。そこでは晴れわたる謎はなく、謎は謎を呼び込むだけな
のかもしれない。それでも、表現者として、そのただ中で生きていくという決意のようなものが表れている小説だ。

  俯き加減で道を歩いている間、僕は間違った道を歩いているような気がしていた。行っ
 てはならない場所に、向かっているような。それでも足を進めたのは、他に行くところも
 なかったからだ。

  対話は生きている者にだけ許された特権で、沈黙は死者にだけ残されたものなのだろう
 かと胸の中で自問する。僕の中には言葉が渦巻いている。詩になれずに、死にゆく言葉達。

  僕を殺した、僕の生きた意味を。(詩「探偵」の一節)

  ふさわしい人が欲しがるまでは。悲しみは、ここにあるべきだと思う。この家の人達が
 破棄することも可能であるように。
 残すことよりも、時に大切である、壊してしまうこと。

  理性で操れない言葉は獣の叫びと一緒だ。

  ここには人の死が詰まっている。それに対する言葉が。思いが。どこにもいけない思想
 が。

書かれていく一節に、魅力的なものがあって。
ただ、その流れは主人公の心の動きそのままに、たどたどしい流れとともにあり、だからこそ立ち止まってしまう。迷うにように
すすみながら、謎の暗がりを感じながら。
そして終章、一人ひとりの死が明らかになっていったことよりも、解けない謎にむしろ心を動かされた。