坂多さんの詩「幼年」が面白いのだが、詩誌の作りも面白くて。
うーむ、悩んで、まず、坂多さんの詩の冒頭紹介。「幼年」。
起こしてきてといわれ
おじいちゃん死んだふりしてるよ
そうこたえてあとは家の中が急に賑やかになり
次の朝はやく
階段降りる途中で
死んだはずの祖父によびとめられ
と読みながら、もう不思議な気分になる。いったい、この数行でどれだけの時が流れたか。「次の朝はやく」なのに、
「おじいちゃん」から「祖父」と呼ぶまでの時間が流れている。数行で、今の私が当時の私を思い出していて、その状
況が示されていて、数行で動いた時間がどれくらいの時かわからないという場合は、実は時間が止まったままともいえ
るわけで、こんな詩の跳躍力っていいなと思う。で、こう続く。
そんな一連のできごとがあって
寝てるふりと死んだふりの違いはどこにあったのか
あっ、そういうことかと合点がいきそうになりながら、でもそれは分かつことができない、曖昧な境界のままという合点
であって、その曖昧さは感覚で捉えられる。
ゆりうごかしたなんども
起きない祖父がいて
でも冷たくはなかったから寝てるふりでよかったのに
なまあたたかい首が涸れていく
と、なっていく。この感覚は、触覚は、残り続ける。「おじいちゃん」の頃から「祖父」と呼ぶ頃まで。そして、詩は静か
にことばをめぐる時の経過へと展開していく。このあと、詩には、物語ることばの「うそ」の時の経過がふわりと折り重なっていく。
ある日、流れなくなった時間があって、それを包むように流れる時間があって、ことばがそこをたゆたっていく。
風化する膨大なことばの中で、消えない感覚があり、それがことばに乗ると、ことばは物語を孕みながら物語の世界に近づく。
この詩では、物語に宿る「うそ」の感触を作者は捉える。その「うそ」に親和性を感じるか感じないかかもしれない。
それは「寝てるふり」と「死んだふり」の、曖昧な違いのようでありながら、感覚が捉えて離さない、わずかな違いなのかもしれない。
それが、幼年と今を行きつ戻りつするような詩句で紡がれる。
時の重なりはうずたかく重なるだけではなく、なんだか横にも広がりながら、接する面を重ねているようで。そこに空間に
放たれる物語の世界があるようで。詩は重なる時間を持ちながら、飛び石を跳ぶように場面を往き来する。だから、楽しい。
で、楽しさのもうひとつが、この詩誌のつくり。あっ、こんな作りがあるのかと思った。
詩誌を、お気に入りのあなた(詩人)との二人だけの出会いの場にする。今回は水野るり子。水野さんの詩、面白いな。
坂多さんが、水野さんの詩を掲載しながら、二人での対話も加えて、その詩の魅力を書きだしていく。
創刊号、これからもお気に入りの詩人を寄港地にしながらの、詩の海の航海、たいへんそうだけれど、楽しいだろうな。