帯書きの詩のフレーズ。
ひとりずつ気が狂っていき(のこされて
最後のひとりは狂っているのか正常なのかさえ(わからない(だろう
わかりますか(わかりません
救われるのはぼくでもきみでもなく
狂気だけが一本のアンテナになって立ちつくしていた
(「追われる人」)
詩集冒頭の詩「ココロを埋めた場所」から。
屋上に行く
贖罪する
太陽が沈んだ後
星はかがやく
その先は
ない
(よーな気が(する
おしえてください
ボクはどんな人なのか
どんな顔をしているのか
最初の6行が、儀式的な、どことなくアニメ的な言葉で始まる。7行目で詩集表題の「ケータイ」の世界に突入することで、「(よーな気が(する」というフレーズで、世界が揺れる。そして、直裁に疑問と不安の中心に向かう。そこでは、「顔」の多面性と、そもそもの「顔」の不在性が告げられる。このあと続く言葉は、日常的な身のまわりのものを記号化するように異物に変える。ところが、その異物が拒否されるのではなく、「ボクは声の出し方をわすれている」という詩句や「でも どこまで逃げられるだろう」という詩句にあるように抵抗感を示しながらも、距離感を持って、なお異物として受け容れられているのだ。記号が、薄いながらも質感を、軽いながらも量感をともなって、ある。この際どさのもつバランス。
屋上に立ったあと、最終連が来る。
息止めて
(ソコカラ何ガ見エル?
屋上には低い呟きが
灰色にみちている
気が狂いそなくらい
星の音が転写して
地の風に吹かれている
(ねえ セカイはいくつあるんだろうか
見えるのは市街地の灯りと星空で
あの星の下に
ボクの心が埋めてある
わかってる(そんなもの初めからないって
ウサギ跳ねる
わりと近く
(星はきれいだ
ついでの死
ここに宿っている痛さのようなものは何だろう。誰に向かって語っているのだろう。流れている風の熱量は何なのだろう。
「リアル」が現実性と作られた記号性の間で質的に変換されながら、地上から屋上に吹き上げる風があるように、詩の言葉の中に不思議な「リアル」の実感の糸のようなものが延びている。そこが痛く、切ない。
屋上で「星」の「音」が「転写」する。「音」も視覚化されるように「転写」される。例えば、星のまたたきを星の音と考えてみる。その光の信号が脳に伝わる。脳は光を転写している。しかし、これが星の音として感じられても、音もまた脳は信号として転写するのだ。その「星の音」が「地の風に吹かれている」。静かでありながらざわついている、「低い呟き」の「みちている」屋上。その「つぶやき」を脳は「灰色」という色で認識している。視覚と聴覚の「転写」。
こんどは、この「星の音」を、その前のフレーズとの関係で考えてみる。屋上に呟きがみちていて、それが星の音だとすれば、「心」をなくした多くのボクたちの「心」の「呟き」となるのだ。屋上に残されたままの「呟き」。そして、「星の下」に「心」が埋められている以上、外に出てしまった「心」との「呟き」の形でしか交わせない対話と考えてみたりもする。「心」がないという「心」を作者は実はとらえているのかもしれない。
そして、詩は「(ねえ セカイはいくつあるんだろうか」と、別の「セカイ」への素朴な気持ちを記述しながら、世界が「セカイ」であるように、「見えている」のは街の灯りではなく、距離を伴った、あるいはニュース報道的な言葉である「市街地」の灯りと書かれている。複数あるはずの世界。しかし、「セカイ」である世界。詩の題名ではカタカナの「ココロ」が、詩の中では「ボク」が自身の「ココロ」を指すときには「心」と漢字になっている。だが、「ボク」はカタカナであり、漢字で書かれた「心」はすでに「ボク」を離れて、「あの星の下」に埋めてある。「星」ではなく「星の下」なのだ。どう見えているのだろう。ボクと星と星から降りる垂線の地面に三角形が出来てしまう。これは、作者が目論んでいるかどうかは別にして、結構意味深い三角形なのだ。で、次に「わかっている(そんなもの初めからないって」と、その「心」は打ち消される。同時に三位一体の三角形は消える。「ウサギ跳ねる」という詩句、つまり月が近くなる。飛び降りる、それは飛翔する=「跳ねる」ことだろうか、ただ、ここでも、この瞬間は「ついでの死」であるのだ。ところが、その「ついでの」という言葉に、薄ら寒さと反対のリアルな痛さが感じられる。
著者はゲンナリするかもしれないけれど、とにかく、読みはじめると、どんどんあれこれ考えたくなる詩集だ。
「今」と向き合って、「今」のなかに言葉のありかを求めて、「今」をすくい上げている言葉たちに出会うのは、不謹慎さや不道徳さも含めて、楽しい。その楽しさを味わえた詩集だった。「今」は時々刻々常に流れていくのだろうが、そこに書かれた言葉は、それ自体が奇跡のような軌跡を見せて、過去化され消えていく「今」を「現在」という少し広い枠組みにしていく。作者は言葉の背後に旅にでる。少し古い言い方だが言葉に対して「命がけの跳躍」を果たそうとして賭けられた言葉は、同時に「現在」から「今」を射程に入れることができるのかもしれない。
いくつかのバージョンを持つ詩集表題作、「ドージ多発的」、他社会現象や事件をテーマにした機会詩群、面白かった。
山水画の山水の中にいる旅人や漁師の視線と、その山水画自体を見ている鑑賞者の視線の往還かな。
ひとりずつ気が狂っていき(のこされて
最後のひとりは狂っているのか正常なのかさえ(わからない(だろう
わかりますか(わかりません
救われるのはぼくでもきみでもなく
狂気だけが一本のアンテナになって立ちつくしていた
(「追われる人」)
詩集冒頭の詩「ココロを埋めた場所」から。
屋上に行く
贖罪する
太陽が沈んだ後
星はかがやく
その先は
ない
(よーな気が(する
おしえてください
ボクはどんな人なのか
どんな顔をしているのか
最初の6行が、儀式的な、どことなくアニメ的な言葉で始まる。7行目で詩集表題の「ケータイ」の世界に突入することで、「(よーな気が(する」というフレーズで、世界が揺れる。そして、直裁に疑問と不安の中心に向かう。そこでは、「顔」の多面性と、そもそもの「顔」の不在性が告げられる。このあと続く言葉は、日常的な身のまわりのものを記号化するように異物に変える。ところが、その異物が拒否されるのではなく、「ボクは声の出し方をわすれている」という詩句や「でも どこまで逃げられるだろう」という詩句にあるように抵抗感を示しながらも、距離感を持って、なお異物として受け容れられているのだ。記号が、薄いながらも質感を、軽いながらも量感をともなって、ある。この際どさのもつバランス。
屋上に立ったあと、最終連が来る。
息止めて
(ソコカラ何ガ見エル?
屋上には低い呟きが
灰色にみちている
気が狂いそなくらい
星の音が転写して
地の風に吹かれている
(ねえ セカイはいくつあるんだろうか
見えるのは市街地の灯りと星空で
あの星の下に
ボクの心が埋めてある
わかってる(そんなもの初めからないって
ウサギ跳ねる
わりと近く
(星はきれいだ
ついでの死
ここに宿っている痛さのようなものは何だろう。誰に向かって語っているのだろう。流れている風の熱量は何なのだろう。
「リアル」が現実性と作られた記号性の間で質的に変換されながら、地上から屋上に吹き上げる風があるように、詩の言葉の中に不思議な「リアル」の実感の糸のようなものが延びている。そこが痛く、切ない。
屋上で「星」の「音」が「転写」する。「音」も視覚化されるように「転写」される。例えば、星のまたたきを星の音と考えてみる。その光の信号が脳に伝わる。脳は光を転写している。しかし、これが星の音として感じられても、音もまた脳は信号として転写するのだ。その「星の音」が「地の風に吹かれている」。静かでありながらざわついている、「低い呟き」の「みちている」屋上。その「つぶやき」を脳は「灰色」という色で認識している。視覚と聴覚の「転写」。
こんどは、この「星の音」を、その前のフレーズとの関係で考えてみる。屋上に呟きがみちていて、それが星の音だとすれば、「心」をなくした多くのボクたちの「心」の「呟き」となるのだ。屋上に残されたままの「呟き」。そして、「星の下」に「心」が埋められている以上、外に出てしまった「心」との「呟き」の形でしか交わせない対話と考えてみたりもする。「心」がないという「心」を作者は実はとらえているのかもしれない。
そして、詩は「(ねえ セカイはいくつあるんだろうか」と、別の「セカイ」への素朴な気持ちを記述しながら、世界が「セカイ」であるように、「見えている」のは街の灯りではなく、距離を伴った、あるいはニュース報道的な言葉である「市街地」の灯りと書かれている。複数あるはずの世界。しかし、「セカイ」である世界。詩の題名ではカタカナの「ココロ」が、詩の中では「ボク」が自身の「ココロ」を指すときには「心」と漢字になっている。だが、「ボク」はカタカナであり、漢字で書かれた「心」はすでに「ボク」を離れて、「あの星の下」に埋めてある。「星」ではなく「星の下」なのだ。どう見えているのだろう。ボクと星と星から降りる垂線の地面に三角形が出来てしまう。これは、作者が目論んでいるかどうかは別にして、結構意味深い三角形なのだ。で、次に「わかっている(そんなもの初めからないって」と、その「心」は打ち消される。同時に三位一体の三角形は消える。「ウサギ跳ねる」という詩句、つまり月が近くなる。飛び降りる、それは飛翔する=「跳ねる」ことだろうか、ただ、ここでも、この瞬間は「ついでの死」であるのだ。ところが、その「ついでの」という言葉に、薄ら寒さと反対のリアルな痛さが感じられる。
著者はゲンナリするかもしれないけれど、とにかく、読みはじめると、どんどんあれこれ考えたくなる詩集だ。
「今」と向き合って、「今」のなかに言葉のありかを求めて、「今」をすくい上げている言葉たちに出会うのは、不謹慎さや不道徳さも含めて、楽しい。その楽しさを味わえた詩集だった。「今」は時々刻々常に流れていくのだろうが、そこに書かれた言葉は、それ自体が奇跡のような軌跡を見せて、過去化され消えていく「今」を「現在」という少し広い枠組みにしていく。作者は言葉の背後に旅にでる。少し古い言い方だが言葉に対して「命がけの跳躍」を果たそうとして賭けられた言葉は、同時に「現在」から「今」を射程に入れることができるのかもしれない。
いくつかのバージョンを持つ詩集表題作、「ドージ多発的」、他社会現象や事件をテーマにした機会詩群、面白かった。
山水画の山水の中にいる旅人や漁師の視線と、その山水画自体を見ている鑑賞者の視線の往還かな。