24号の「SEED」には藤維夫さんの詩5編が収められている。その中から、言葉の面白さの一端を感じられた一編、「苦しむ秋」。
秋はどこの空にあるのか
あれは宇宙の空
沈黙の語り部たちの群れ
そこまではるばる降りてきた星のように見上げる
地上からのエコーとともに
樹木も隠れている
19行の詩の第一連である。ここで、すでに詩の言葉は、不可能を可能に変える不在の描写、逆説的に存在させるという行為を見せる。
「どこの空にあるのか」は、反語と言うよりも問いでありながら、秋の不在を告げ、同時に「秋」を表記することで、「秋」の気配を漂わせる。そして、「宇宙の空」とくる。これも言葉によってしか存在しえないものだ。さらに「沈黙」という言葉で、沈黙を語りながら、「沈黙の語り部たち」という表現は、「群れ」につながって、どこか沈黙のざわめきを記している。そして上下の転倒の世界が書き込まれる。言葉は背離を記述する。
そして、第二連。
風に煽られるうつろな世界
ひとりでに滅んで行く風のはやさ
川の落込む流れに沿えば
虚像のさしこむ陽の高さではかられる
おお歩幅の短い痕跡は誰のものか
ここで、文字通り「虚像」のさしこむ言葉の世界への向き合いが語られるのだ。うつろさは風に煽られる。これは逆に実体である。その記述された言葉は、しかし、「ひとりでに滅んで行く」風であり、その速度であるのだ。記述される言葉は、その速度を、どう決め込むのだろうか。ボクらの生の速度は言葉の速度と、どう折り合いをつけるのか。あるいは、時代の速度は、どこで言葉の速度と折り合いをつけるのか。終連は、こうなる。
息に苦しむ秋だったりして
宵の道連れは念珠の坂をくだり
魚と貝 見捨てられた村まで遠い
千年の速さで
歩行はゆるみ
白いダケガンバの森を求めて行くだろう
求められる「ダケガンバ」の森とは何だろう。そこに、再生への契機を孕む詩の速度と同時に、苦しむ秋の現況が見えるのかもしれない。世界の速度は、ボクらの築き上げてきたはずの時間を裏切ってしまう。ただ、言葉は、不在の記述によっても、存在のありかを刻む可能性に賭けられる。
秋はどこの空にあるのか
あれは宇宙の空
沈黙の語り部たちの群れ
そこまではるばる降りてきた星のように見上げる
地上からのエコーとともに
樹木も隠れている
19行の詩の第一連である。ここで、すでに詩の言葉は、不可能を可能に変える不在の描写、逆説的に存在させるという行為を見せる。
「どこの空にあるのか」は、反語と言うよりも問いでありながら、秋の不在を告げ、同時に「秋」を表記することで、「秋」の気配を漂わせる。そして、「宇宙の空」とくる。これも言葉によってしか存在しえないものだ。さらに「沈黙」という言葉で、沈黙を語りながら、「沈黙の語り部たち」という表現は、「群れ」につながって、どこか沈黙のざわめきを記している。そして上下の転倒の世界が書き込まれる。言葉は背離を記述する。
そして、第二連。
風に煽られるうつろな世界
ひとりでに滅んで行く風のはやさ
川の落込む流れに沿えば
虚像のさしこむ陽の高さではかられる
おお歩幅の短い痕跡は誰のものか
ここで、文字通り「虚像」のさしこむ言葉の世界への向き合いが語られるのだ。うつろさは風に煽られる。これは逆に実体である。その記述された言葉は、しかし、「ひとりでに滅んで行く」風であり、その速度であるのだ。記述される言葉は、その速度を、どう決め込むのだろうか。ボクらの生の速度は言葉の速度と、どう折り合いをつけるのか。あるいは、時代の速度は、どこで言葉の速度と折り合いをつけるのか。終連は、こうなる。
息に苦しむ秋だったりして
宵の道連れは念珠の坂をくだり
魚と貝 見捨てられた村まで遠い
千年の速さで
歩行はゆるみ
白いダケガンバの森を求めて行くだろう
求められる「ダケガンバ」の森とは何だろう。そこに、再生への契機を孕む詩の速度と同時に、苦しむ秋の現況が見えるのかもしれない。世界の速度は、ボクらの築き上げてきたはずの時間を裏切ってしまう。ただ、言葉は、不在の記述によっても、存在のありかを刻む可能性に賭けられる。