パオと高床

あこがれの移動と定住

北京こんなレストランに行く2 北京に行く(3)

2011-09-30 10:39:37 | 旅行
北京で食事したレストランの続き。

2日目の夜は、またホテルから歩いていける張自忠路の近くにある雲南料理レストランに行った。

はずせないのは汽鍋鶏。鶏の入ったスープで雲南の名物料理。あとはジャスミンと卵を炒めた料理。烤魚に数種のスパイスをつけて食べる料理。

他には、香菜やミントのようなものがかかって酸味がある冷製の骨付き鶏に、骨付きの豚肉の煮物。美味しそうな肉料理を頼むとどれも骨付きになってしまう。で、はずせないもう一つのものが、パイナップルご飯。

パカッと開けると、甘いパイナップルご飯が現れる。このパイナップル、美味なのか葉っぱの部分に虫がいたのがなかなかレアな感じだった。
ここには、大理ビールがおいてあり、10元。青梅のジュース7元と合わせて、全部で140元ぐらいだった。

店内では過橋米線を食べている人が多かった。他には砂鍋を一人ずつ取って汗流しながら食べている人もいた。
以前行った昆明や大理、麗江、シーサンパンナを思いだした。
満足できた雲南料理だった。

北京こんなレストランに行く1 北京に行く(2)

2011-09-29 14:58:16 | 旅行
今回の旅行ではこんなレストランに行った。
北京の街中、各地方料理店が増えていたような気がする。特に泊まったホテルの近く、地下鉄東四駅から張自忠路駅にかけては食事に不自由しない。
で、一日目の夜は「孔乙己酒店東四店」。名前の通り紹興料理のお店。

中は照明やや暗めで昔の江南のお店の雰囲気があって、奥に紹興酒の年代別の瓶があって、そこからお椀にお酒を注いでいた。
食べたのは臭美味い「臭豆腐」。はずせない「東坡肉」。あとは「紹興炒麺」という焼きそばに豆腐干で鶏肉を模した「五香素鶏」という前菜に筍炒めと椎茸と青梗菜の炒め物。全体に甘醤油味の選択になっちゃいました。燕京ビール一本12元で、全部で140元くらい。

二日目の昼は今、人気スポットの南鑼鼓巷に行く。観光バスも来て、中国の人が大量に降りてきて、店を覗いたり、食べながらプラプラ歩いたりしていた。
で、往復して、入ったお店はここ。

しゃれた内装で雲南と四川を合わせたような感じ。

食べたのは、キュウリのニンニク醤油漬け。これは夏にいい。川海老とニラの炒め物。醤油炒飯。そして冷拌麺というまぜそば。この麺、ちょっとサラダスパゲティ風で洒落た味だった。

それと炒飯は美味しかった。ここは燕京ビール8元。観光スポットなのに安い。まだお店で8元でビールが飲めるなんて。しめて100元ほど。

カフカ『変身』想(3)~(4)

2011-09-28 10:51:47 | 海外・小説
3
 問いの欠落。軽い疑義はある。先ほどの引用のように「どういうことだろう」ぐらいの。しかし、重大な問いは欠落しているのだ。主人公や家族は「なぜ」と問わない。すでにある現象が状況を作っている。その現象への近代的な懐疑は剥奪されている。それは、あってしまったことでの因果は生むが、あってしまったことへの因果は欠落している。当初の変身への因果が刻まれていないのだ。その結果、状況と状況は連鎖するが、起因自体は宙づりになる。
 さらに因果の欠落に関して、中島敦の『山月記』を思い出してみよう。虎になる因果は、その内面に探られるのだ。いわば、内面が現れ出た姿が虎である。内面の外在化と言えるだろう。虎化していかざるを得ない人間の業が刻まれる。自ら虎になるのである。しかし、『変身』では、その過程は抜け落ちている。なぜ、虫になったのかだけではなく、そもそも虫になるのか、虫にされるのかの問いも宙づりにされる。そこでは、現実として虫になったものがいて、現実として虫と暮らす現実が記述されるのだ。虫になるという極めて特殊な状況が、何だか、一般化されてしまっているようだ。その一般化は問われることを拒絶しはしないが、一般的な答えになびきはしない。多くの意味の介入が可能になりながら、解答の不可能が起こる。『山月記』と『変身』における因果の有無は、小説のもたらす現実の持つ比重の差異なのだ。もう少しいえば、現実に働きかける人間の持つ重さの差違かもしれない。『山月記』では人間性は人間の本性と分かちがたく結びつけられている。一方、『変身』では、クンデラの小説の題名を借りれば、『存在の耐えられない軽さ』として人間はそこにあるのだ。
 また、問わなさは、神に問い続けることで神の試練にあうヨブに比較される、試練の中で問わないアブラハムを連想させる。内田樹は、レヴィナスの読解から、アブラハムとヨブのあり方に注目していく。

  ヨブとアブラハムは同じ種類の不条理の前に立たされている。アブラハム
 が黙してイサクを犠牲に捧げたのに対し、ヨブは「納得できない」と神に抗
 議する。その結果、ヨブには「知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くする
 この者はだれか」(「ヨブ記38-2」)という轟音のような「主」の声が臨む。
  一方、アブラハムは神の祝福を受ける。
             内田樹『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』

この比較は、問うことと問わないことの位置づけを、そう、まさに、問う。それは、受け容れることを導き出す。

  「私はここにおります」というのは、神の呼びかけに対して答えるときの
 言葉である。(中略)神からの呼びかけに対して、人間は「これはどういう意
 味なのだろう」と思量し、そのメッセージの意味を完全に理解してから行動する
 のではない。人間がことばを知ったのは神のことばを解読する作業を通じて
 である。人間のことばそれ自体が神のことばによって基礎づけられている以
 上、神のことばの合理性や適法性を人間のことばに準拠して判断するという
 ことは背理となる。だから、人間は神の呼びかけには間髪を容れずに「はい、
 私はここにおります」と答え、その不可解な命令を恭順に受け容れなければ
 ならない。
             内田樹『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』

 そこに存在することが問いに先行してある。
 内田樹はレヴィナスの思想を語っていくので、ここで「汝の隣人を愛せ」という命令が持っている、なぜ全能の神はみずからではなく、「私に救わせようとするのであろう?」といった「不条理さ」を指摘し、しかし、「それにもかかわらず、レヴィナスはこの命令」に対して「はい、私はここにおります」と即答しなければならないと教えていると書く。そして、「命令の当否を検証するに先んじて、その命令を信認する」こと、そこに「倫理性」が「胚胎するのである」と述べる。この内田の展開は、カフカの『変身』にあてはまるものではない。しかし、問いの欠落が想起させる受難に直面した人間の姿は、ヨブとアブラハムに関する物語を連想させるのだ。そして、ここに新しい謎も付随してくる。むしろ、グレーゴルがヨブ的であった方が理解しやすいのかもしれない。「ヨブはある意味では〈近代人〉である」という内田の指摘を待つまでもなく、問いながら悲劇であるとすれば、僕らは受難のドラマとして『変身』を収束させるのかもしれない。ところが、問題は、アブラハム的でありながら祝福されないところである。ここにはヒロイックな悲劇性はない。〈近代人〉とは違う何ものかがいて、悲劇ではない何かがあるのだ。受容と祝福の断絶。苦い笑いとうすら寒いものが漂っている。この風は存在の陥穽から吹いてくるのかもしれない。

4
 ベンヤミンの『フランツ・カフカ』冒頭の「ポチョムキン」の寓話。将軍ポチョムキンは定期的に鬱状態になり、そうすると誰も近づけず、処理できない書類がたまる。その書類に署名させるため、シュヴァルキンがポチョムキンの部屋に紛れ込み、ポチョムキンの手にペンを握らせ、放心状態の彼に署名させる。シュヴァルキンは意気揚々と戻り、皆に書類を見せたのだが、皆は凍り付く。そこに書かれた署名はシュヴァルキンとなっていたのだ。この寓話をベンヤミンは「カフカの作品に二百年も先駆けるひとりの伝令のようである」として引いている。そして、川村二郎は『アレゴリーの織物』において、この寓話を引用して、ベンヤミンの趣旨を読みとった上で、なお「読み換えたい気持ちが疼く」として、ポチョムキンをカフカに置き換え、「論者たちはわれがちにその室内に押し入り、カフカの自筆署名を得たつもりで意気揚々と引き上げるのだが、戻って見れば、カフカの代りに論者自身の名しか紙の上には記されていない」という読み換えを書いている。カフカについての様々な人のいかようにも読んでいく著者カフカ名から離れた読者名入りカフカ。それでも読者名入りカフカを語りたくなるのがカフカなのかもしれない。川村二郎もその読み換えに続けて、「論者におのおの名を書き与え、自分の名は決して明さぬことにこそ、カフカの本性が、いわば陰画の形であらわれているのではなかろうか。」と書いている。しかし、さらに、こうも書く。「誤解のケルンに石を一つ積む結果にしか終らぬような気がする」と。読むことの困難が横たわる。だが、それも含めて、それだからこそ、カフカはそこにいる。


カフカ『変身』想(2)

2011-09-27 08:40:32 | 海外・小説

2
 グレーゴルの発声を聞いて家族が感じる恐怖は、グレーゴルの姿を見たときの驚きに先行する。声は家族とグレーゴルとの関係ののっぴきならなさ、避けられない関係を象徴する。家族が持つ主体性に、グレーゴルの声は侵入するのだ。
 母の呼びかけに答える自分の声を聞いてグレーゴルは驚く。視覚的な姿より声の違和が主人公を驚かす。

  ところが自分が答える声を聞いて、グレーゴルは仰天した。ふだんの声と
 大ちがいで、しかもへんな音がまじっている。

 カフカは虫となった身体の動きを克明に描写していく。その想像力の当然の流れとして、虫になっているのだから、声も変化するだろう。これで、事態の説明の手段は失われてしまう。ヒト的な意識は外部に出せなくなる。と、同時に、距離をなくして虫としての主体性を主人公が引き受けざるを得なくしてしまうのだ。視覚で捉えた場合には、まだ可能な客観的立場の確保が、耳で自分の声を聞くという主体認識によって妨げられるのだ。それは、グレーゴルの声を聞いた家族へと拡がっていく。呼びに来た会社の支配人に、一気呵成に弁明するグレーゴルの発声は、もう聞き取ることができない。

  「たいへんだわ」
  母はもう涙声だった。(中略)
  「おまえ、大急ぎで医者に行っておくれ。グレーゴルが病気なの。大至急、
 医者を呼んできておくれ。グレーゴルの声を聞いたかい?」
  「獣の声でしたよ」
  母の叫び声に対して、めだって小声で支配人が言った。

 木村敏は、『時間と自己』で、こんなことを書いている。

  ものを見るというはたらきが一定の距離をおいてはじめて成立するのに対
 して、聞くということは-肉声を聞く場合でも心の声を聞く場合でも-私たち
 自身の間近で生起する。私たちは聞えてくる声に対して、いかなる距離を
 とることもできない。
                         木村敏『時間と自己』

 これは、「もの」と「こと」ということについての木村敏の考察の中にある「聞く」ことについての一節である。「ものが客観の側にあるのに対してことは主観の側に、あるいは客観と主観のあいだにある、という言いかたをした。ことがなんらかの声として聞かれるのであるからには、この『あいだ』はそれ自身、限りなく自己に近いところに、自己それ自体と区別のつかぬような場所としてあるのに違いない。」とつながる。これは、グレーゴルの発声にもつながるのではないだろうか。
 人間の声を聞きとめて、声が人間のままであることによってダイアローグが可能になっているのが、中島敦の『山月記』である。この『山月記』も、声である。虎になった李徴は、声として袁慘に出会う。その姿はラストで現れる。それは、李徴と袁慘の別れであるし、李徴の人間からの別れの場面である。声の間は二人の間に絶対的な距離はない。『山月記』の李徴との出会いの場面について袁慘はこう考える。

  後で考へれば不思議だったが、其の時、袁慘は、この超自然の怪異を、実
 に素直に受け容れて、少しも怪まうとしなかった。
                           中島敦『山月記』

 ところが、ここで、発声という同じ行為が行われながら、同様の関係の離れがたさが準備されながら、人語であるか異語であるかによる決定的な違いが生まれる。

  青年時代に親しかった者同士の、あの隔てのない語調で、それ等が語られ
 た後、袁慘は、李徴がどうして今の身になるに至ったかを訊ねた。

 「親しかった者同士」の「語調」で語り合い、「どうして」と「訊ねる」のだ。ここでは、それに対する解答は用意されている。カフカの『変身』では、最初からそれは、小説の外部になっているのだ。内面を相手に伝えるという語りの可能性が、設定における極端な不可能性に覆われてしまうのだ。
 もちろん、グレーゴルである虫はうごめき続ける。虫である以上生きものである。しかし、ここにはアドルノの次のような指摘が待ちかまえているのだ。

  すべての自己主張を放棄した弱りゆく意識の失墜のなかで、主観の底に姿
 を現してくる物質的なもの、そうした、たんにそこに在るものの領域にまで
 突入してゆく。人間を通りぬけ非人間的なものへ逃走すること-これがカフ
 カの叙事詩のとる軌道である。
  アドルノ『プリズメン』から「カフカおぼえ書き」渡辺祐邦、三原弟平訳


四合院ホテルに泊まる 北京に行く(1)

2011-09-25 02:23:43 | 旅行
7年ぶりの北京。
中国旅行は繰り返しても、なんせ広い国、ホント、久し振り。以前に比べて、国際都市化が進んでいるような感じがした。
で、5泊6日のうちの2泊は胡同の四合院ホテルに泊まる。とっても中国な雰囲気のホテル。
夕暮れの胡同。

ホテルの入り口はこんな。

こんな中庭もあって。

泊まった部屋の入り口はこう。

中はこんなで。

ホテルの従業員は英語が達者で、西洋人の宿泊者が多いような。
朝食もなかなか。シャワーのみでバスタブはなかったけれど、可動式のシャワーで使い勝手良好。温水も十分。窓越しに中国家屋の甍が見えて、ネコなぞが行き来していた。