パオと高床

あこがれの移動と定住

長田弘『人はかつて樹だった』(みすず書房)

2008-02-29 03:11:04 | 詩・戯曲その他
『空と樹と』を手にしたときに、同時に詩集名に引かれて読んだ詩集だ。三行マジックとでもいえようか、収録詩21編中、4編以外は23行の詩で、その最終3行にエキスが集約する。

見開きページを読み、次のぺージをめくると3行があり、左のページに木のカットがある。そこにすとんと落ちてくる言葉がある。もちろん、その3行だけで詩が成立するはずはない。そこに至る言葉が、具体的な像を結び、立ち上るイメージを宿し、静かに世界を受容する。

詩は、森を、木を、水を、陽射しを、光と影を、人を描く。様々な自然の形象があり、そして、そこにいる人、さらに、いない人が描かれる。受け容れることは認識することだけではない。祈ること。問うこと。立ちどまること。そして一人と感じ、一人ではないと感じること。世界は人と関わりなく世界としてあって、また、人はそう感じることで世界の中にいると知ること。聞くこと、語りかけること。空と土とのあいだに在って、そこにある樹を思うこと。
詩の物語は言葉の背後にある。物語ることは、詩では始まりで終わるか、終わりの地点だけを書きとめられる。そこにある物語の影はすべての人の個別の物語に呼応する。ただ、ボクらは詩から、その物語の先にある世界の秘密のようなものを手渡されるのだ。その渡されるものは詩人によって、詩人の立ち位置によって違う。長田弘は、静かに処方を書いてくれる、謎を受け容れて、生きる処方を書いてくれるのだ。

 人ひとりいない風景は、
 息をのむようにうつくしい。
 どうして、わたしたちは
 騒々しくしか生きられないのか?
 世界のうつくしさは。
 たぶん悲哀でできている。 (「世界の最初の一日」)


 自由とは、どこかへ立ち去ることではない。
 考えぶかくここに生きることが、自由だ。
 樹のように、空と土のあいだで。 (「空と土のあいだで」)


 どこかで、この大きな空は、地に触れる。
 その場所の名を「終わり」という。
 アフリカの砂漠の民の、伝説だ。
 「終わり」がわたしたちの
 世界の一日が、明日はじまるところ。 (「For The Good Times」)

何だか、23行ではない4編が気になったりもする。



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ヴァルター・ベンヤミン「フランツ・カフカ」西村龍一訳(ちくま学芸文庫『ベンヤミン・コレクション2』)

2008-02-21 14:30:53 | 海外・エッセイ・評論
カフカの困難とベンヤミンの困難が呼応しあい、「世界の年齢」を「シシュフォスが岩を転がすように転がしていく。」ようだ。
ベンヤミンは、暗がりにあるもの、忘れられたもの、その束の間に属する身振り、細部から、星の光の及ばない、光らない星の、星座の地図を描き出していく。「フランツ・カフカ」にあってもそうだ。誠実さと強い感応力で、カフカの寓話を読み、寓話を復権する。特殊から普遍へ、普遍から特殊への往還運動を見定めていく。このエッセイは、徹底的にカフカの小説の引用がコラージュされている。これはベンヤミンのスタイルのひとつである。引用はコラージュされ、モンタージュされた部分は全体への思考を誘い出して中断する。そこに、ベンヤミンの警句や比喩が待ち伏せる。思考の、それこそ沼沢が読者を迎え入れるのだ。僕らはそこに、字義を変換された、さまざまな「希望」を感じ取れるだろうか。それは、常に現在が孕む抜き差し難さと歴史が隠し持っている秘密の出会いにかかっているのだ。

この本は、あとがきで、編訳者の浅井健二郎という人が「エッセイの思想」について触れている。「エッセイは、当初からそれであったところのもの、すなわち第一級の批評形式なのである」という文を引きながら、ベンヤミンの著作は「すべて第一級のエッセイにほかならず」といい、ただ、むろん、「その一文一文、その一語一語に、書き手の息遣いを、対象の小面を切り取るその手つきを、モンタージュ的引用の技法を、思いがけぬ比喩の喚起力を、その思考のリズムと中断と飛躍を、その思考を導いている理念やイメージの群れのたぐいまれなる状況布置を、われわれが感覚するならば」と書いている。
〈体系〉に対する異端であるエッセイの思想。だからこそ、その体系に亀裂やカウンターを刻み疑義とヴィジョンを投げかけるのかもしれない。

というか、なによりも、ベンヤミンの文章を読むと、心地良く疲れることができるのだ。


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クロード・レヴィ=ストロース『みる きく よむ』竹内信夫訳(みすず書房)

2008-02-15 14:19:31 | 海外・エッセイ・評論
「みる きく よむ」そして、感じ、考える。「思考の快楽」は単に理解の快楽ではない。それを超えて、思考の快楽それ自体に触れる快楽があるのだ。だから、例えば馴染みのないラモーの音楽についてのレヴィ=ストロースの語りに、内容がわかり得ないままでも感心しながらひたれるということになる。言葉のレベルからなかなか、把握しにくかったのは、この本の多くのページが費やされている言葉と音楽の関係であったが、それ自体意味を持たない音がどう構成構造化されていくか。また、和声と旋律の関係についてどういった困難な思考が築かれてきたのかを作者とともに旅できるような心地よさがあった。そう、「旅」=フィールドワークなのかもしれない。場所的なだけではなく、時間の中の、文化の連続の旅なのかもしれない。

あとがきに書かれているように、「みる きく よむ」というのは「視覚と聴覚の前に現れる記号であり、その二つの感覚をつうじて現前する記号を読みとろうとする自身の脳髄に起こる反応を、ポリフォニックな引用をつうじて」作者は「読者に伝えようとする」のだが、様々な引用の中から多面的な見解と普遍性と伝播の分かれ目が滲みだしているように感じた。

芸術の価値やそれが与えた結節点への思考、また、多様な引用が語る人の営みの大きな枠組みなど、ここには当然、人類学的視点が随所にあるようだ。
以下、この本のラストを書くことになるが、実際、「事物への眼差し」という最終章では、とてつもないフィールドワークから引き出された事例の一部から、様々な民族の職能者の役割と地位に触れ、超自然と日常と、芸術と実人生の関係で、「芸術によってつくりだされるこの幻想は、人間的次元を超自然的次元に結びつける絆を証言することを目的としている」や、「その像は実人生と芸術の中間に位置している」など、民族によっての職能者の生み出すものの置かれる位置の違いや共通点を語り出していき、作品がちがった作品を生み出しながら引き継がれるということが「芸術作品が永遠に生き続けるための唯一の手段」だと語る。そして、「どこでもいい、人間の歴史から任意の千年、あるいは二千年を取り去っても、人間の本性に関する私たちの知識は減りもせず増えもしない。」と、学者的峻厳さを見せれば、「唯一失われるものがあるとすれば、それはこれら千年、二千年が生み出した芸術作品だけである。」と芸術を愛する知性の巨人が現れ、この両面が混然として存在する。そしてさらに、「なぜなら、彼らが生み出した作品によってのみ、人間というものは互いに異なっており、さらに存在さえしているのであるから。」と、失われるのが芸術作品であるだけだということの理由を語りながら、「作品だけが、時間の経過のなかで、人間たちのあいだに、何かがたしかに生起したことの証となってくれるのである」と結語する。このラストは、何か感動的であった。ちょっと大げさに言うと、大きな巨大な脳髄がこの星全体を包んでいるような感じがした。

十分に把握できないのが残念だ。しかし、図版があることで、プッサンの絵画への構造分析はスリリングだったし、プルーストや北斎などを置きながら、時間の問題、部分と全体の関係を語り、「このモンタージュ的、コラージュ的技法のゆえに、作品は二重の分節化が生み出したものとなる。二重分節というこの用語は言語学から借用したものだが、この借用は次の点で正当であると私には思われる。つまり、プルーストにおいては、第一次分節の単位自体がすでに文学作品であり、次いでそれらが適当に組み合わされ、配列されて、さらに高次の文学作品を生み出す、という点において。」という視点が、そのまま、プッサンの絵画の個別人物と全体の関係や、北斎のパーツと全体の関係に繋がっていく展開には満足した。「二重分節」という言葉の有効性を感じ取ることもできた。
また、音と色彩についての部分は、ランボーの詩についての考察などが楽しかった。

みる、きく、よむとは、こんなに楽しいのだということと、ものと向き合いながらする思考の冒険のすばらしさを改めて教えてくれた一冊である。それにしても、こんな知性が、うらやましいよ。

それから、カバーの河鍋狂斎の絵がいい。本文中の狂斎の逸話。ポーズをとらせる西洋の画家が理解できない。小鳥は動き回っている。私なら日がな一日小鳥を見ている。すると描きたいと思った姿が見え、描線でスケッチすれば、記憶から取りだせるようになり、小鳥を見なくても再現できるという逸話も面白い。
ひとつひとつのパーツが完成していながら、全体が完成するというプッサンの絵についての絡みで出てくるのだが。



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川村二郎

2008-02-09 10:48:21 | 雑感
昨日の新聞に川村二郎が亡くなったことが書かれていた。
以前、網野善彦や倉橋由美子が死んだときに、その分野はこの人がいるから大丈夫という人の一人だったと思ったけれど、
川村二郎も、そんな人の一人だった。
カフカの『変身』について考えていて、ちょうど『アレゴリーの織物』を抜き読みしていたときなのだ。
機会があったら、川村二郎の本を少し読んでみよう。
そう、ベンヤミンも、たぶんにこの人が紹介したのではないだろうか。
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ウィリアム・モリス『世界のかなたの森』小野二郎訳(晶文社)

2008-02-07 10:53:53 | 海外・小説
ウィリアム・モリスという人も、ボクはその実績をよく知らないままに、名前だけが記憶の中にあるという人の一人だ。この本、「ウィリアム・モリス・コレクション」の中の一冊。このコレクションは「ファンタジー文学の未踏の原野をきりひらいた」全7巻の「文学的冒険の精髄」というふれこみがついている。
カバーはモリスの壁紙のデザインになっていて、章の中の小見出しにも、モリスのデザインがあしらわれている。

モリスは19世紀後半のイギリス・ヴィクトリア朝時代の装飾芸術家で、社会主義運動家、詩人で作家。私家版印刷所を作り「理想の美しい本づくり」を追求した人である。昨年末に「ウィリアム・モリス展」という展覧会が開催されて、「世界の三大美書」の一つと言われる「チョーサア著作集」などが公開された。

小説は、主人公ウォルターが、ふと目にした女王と侍女と小人の三人に誘われるように「地の裂け目」から森に入りこみ、そこで・・・という展開である。過剰に魔術や異形の者が現れてくるわけではない。しかし、ストーリーは短い章構成に牽引されるようにウォルターの移動にしたがって起伏があり、また、この物語世界は、ちまちました、せせこましさとは無縁な空間の中にいる気分にさせてくれる。谷間、森、草原、海、浜辺、川、湖、城壁のある都市が、木々や草花が、対象として描かれるというより、臨場としてそこにあるというように感じられるのだ。
ばたばたと読むのではなく、何か、違う時間の流れで読むような、話の速度とは別に、ゆっくりとした時に包まれているような、そんな読書の時間だった。



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