あの『異邦人』で有名な、と書いたら語弊があるかな。
小説は、執拗に時代の悪徳を追求していく。偽善的にならざるを得ない現代のあるいは人間の病理を露見していく。
自らを「改悛した判事」と呼ぶ弁護士クラマンスが、アムステルダムの酒場で出会った男に自分の過去を語るという形式で進められる小説だ。運河の街アムステルダムの描写がなかなかだ。そこをダンテの『新曲』の舞台になぞらえて主人公の「転落」が語られる。
奉仕することの美徳に酔いしれていた過去が、ある出来事から突然、その奉仕の快楽の裏にある偽善的自己に出会ってしまう。すると、様々なことが自己の偽善と欲望、快楽であるという気がしだしてくる。さらに、死への恐れが介入する。他者の視線は自意識にとっては常につきまとうものとなり、自らを保つためには放蕩にふけるか、先んじて自らを認識し続けるかしかなくなってしまう。それは、真実に気づいたと同時に背後に笑い声が聞こえる地獄巡りへの転落を意味してしまう。その告白が、ツァラの詩ではないが、「私のようなあなた」によって成立する「われわれ」の時代を糾弾し、抉りだしていく。
クラマンスが語りかける相手は彼の独白の中にしかいない。つまり、それは読者である私たちになってしまう。クラマンスが「ねえ、あなた」と語りかけると、それは読者が相手になる。ダイアローグへの強制参加が要求される。そして、いつのまにか読者は主人公が言う「われわれ」になってしまうのだ。この同時代意識は見事であり、緊張感が溢れる。
奇抜な表現描写が随所にあるが、特にラストのアムステルダムの鳥、雪、街が美しかった。また、自由の持つ逆説への言及など印象に残っている。読みながら、なんだか太宰治を連想した。
小説は、執拗に時代の悪徳を追求していく。偽善的にならざるを得ない現代のあるいは人間の病理を露見していく。
自らを「改悛した判事」と呼ぶ弁護士クラマンスが、アムステルダムの酒場で出会った男に自分の過去を語るという形式で進められる小説だ。運河の街アムステルダムの描写がなかなかだ。そこをダンテの『新曲』の舞台になぞらえて主人公の「転落」が語られる。
奉仕することの美徳に酔いしれていた過去が、ある出来事から突然、その奉仕の快楽の裏にある偽善的自己に出会ってしまう。すると、様々なことが自己の偽善と欲望、快楽であるという気がしだしてくる。さらに、死への恐れが介入する。他者の視線は自意識にとっては常につきまとうものとなり、自らを保つためには放蕩にふけるか、先んじて自らを認識し続けるかしかなくなってしまう。それは、真実に気づいたと同時に背後に笑い声が聞こえる地獄巡りへの転落を意味してしまう。その告白が、ツァラの詩ではないが、「私のようなあなた」によって成立する「われわれ」の時代を糾弾し、抉りだしていく。
クラマンスが語りかける相手は彼の独白の中にしかいない。つまり、それは読者である私たちになってしまう。クラマンスが「ねえ、あなた」と語りかけると、それは読者が相手になる。ダイアローグへの強制参加が要求される。そして、いつのまにか読者は主人公が言う「われわれ」になってしまうのだ。この同時代意識は見事であり、緊張感が溢れる。
奇抜な表現描写が随所にあるが、特にラストのアムステルダムの鳥、雪、街が美しかった。また、自由の持つ逆説への言及など印象に残っている。読みながら、なんだか太宰治を連想した。