パオと高床

あこがれの移動と定住

坂本龍一

2023-04-03 00:34:52 | 雑感
えっ、
坂本龍一が死んじゃった。
大江健三郎の死もショックだったけれど。
春は、
残酷な月なのかな。
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ベートーヴェン「第九」 

2020-12-13 13:06:08 | 雑感
このあいだ、岡田暁生の本を読んでいたのだけれど、あっ、読んでいたからかな、やはり
年末、「第九」を聴く。

今度は岡田暁生の『モーツァルト』(ちくまプリマー新書 2020年9月10日刊)を読みながら聴く。
モーツァルトの天才性、時代との折り合い、父との葛藤などを読みながら、
耳では「第九」が鳴っていた。
聴いたCDは小澤征爾、サイトウキネンオーケストラの2002年の松本でのライブ盤。
音がきれいだなと思いながら、聴いた。
何か、雑味無く、どこまで音を合わせ、響かせるかに賭けているような演奏のような気がした。
やたらぶ厚くならないし、熱くもならない。じゃあ、クールか、冷めてるかと言われると
そうではない。むしろ、バランス、アンサンブルに賭ける情熱のような…。

で、そのあと朝比奈隆、新日本フィルの1992年東京文化会館ライブを続けて聴く。
あっ、居住まいを正したくなった。以前聴いたブラームスでも思ったのだが、
朝比奈隆さんの演奏は何か、包みこまれるように持っていかれる。何なんだろう。
空間がやさしく膨らむような感じ。それでいて膨らむときの緊張感が漲っている。
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検察庁法改正

2020-05-12 19:53:44 | 雑感
もう一度だけ政治の話を。

検察庁法改正はやはりおかしいだろう。えっ、結局審議入りさせたのかと驚いた。
確かに国民が選んだ国会議員が選んだ内閣が人事権を掌握することは仕方がないという意見もあるのだろう。
だが、その時に同時に三権はお互いを牽制抑制し合うことで権力の分立と独立性を保っていたのだ。
それが果たせない内閣によって出された、内閣に都合が良いとされる法を一気に数の力で成立させるのは、
そもそも前提への、三権分立への、暴挙だろう。
しかも、黒川検事長の定年延長のときに検察の定年に国家公務員法を適用するのは問題があるといわれれば、
閣議決定で定年延長をさせておいて、その後で、今回のように国家公務員法の改正と一緒に検察法も改正し、
いずれもの一体感を演出し後付けしようとしている。
この人事権への介入の強さと関心の高さを示すことでも、内閣の司法への圧力の強さを示すことが出来る。今の内閣の得意技だ。
官僚人事への強い圧力で官僚を動かそうとする。それと同じ構図なのだ。しかも、現在内閣がらみの不透明な事件が多発している中でのことだ。
つまり、疑惑の中心が疑惑を追及する人を選ぼうとしているととられても仕方がないだろう。
それは、この法がいつから適用されるのかの適用期間の問題ではない。すでに先行して、将来の法の適用へのあらかじめの抑圧を始めているのだ。
この法は成立するのだろうが、かりに成立しなくても、内閣の顔色への脅威は残り続ける。顔色伺い、忖度が横行する。
朝日新聞に紹介されていた芸人さんのツィッターの記事にあったが、「安倍政権は検察とのソーシャルディスタンスを」とうのは、
その通りで、国民とは国民の飛沫=意見が聞こえないほどのディスタンスを取りたがるくせに、司法やマスコミ、支持者、身内とは
信じられないほどの裏側での濃厚接触を求めるような姿勢はやめて欲しい。
また、国会での野党の追及に対する返答。私への疑惑はまったくあたりません。違います。といった発言も何回聞いただろう。
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憲法記念日に

2020-05-03 13:45:53 | 雑感
基本、読んだ本への感想を書いているのだけれど、新聞を読んでいて、思ったことを……。
少しだけ。

雨が降っている。さすが降雨確率が高い3日だけのことはある。
憲法記念日だ。相変わらず改憲を語る首相がいる。
このたいへんさの中、それどころじゃないだろうという意見と、いやそんなときだから議論を止めてはいけないという意見まで。
というより国民がそれほど望んでいないのに緊急性、優先性がある話か? 
それなら9月新学年のほうが、今語るべきより切迫した話ではないか。

それから常に変なのが、今回のような緊急な場合に国民の生活や権利についての規定が必要かもしれないといった動機が語られる。
憲法の本意はそこにはない。安倍政権や改憲論者は憲法を校則のように捉えている。憲法は政権者や権力にとっては行動規制であり
権力の行使に対しての方向性と足かせだ。一方、最大限に力を注いでいるのが、国民にとっては権利の保障である。
そして、権利を保障できるために、国家として必要な基盤を支えるための最低限の義務だけを国民に課している。
この義務はあくまでも国民が権利を行使できるための基礎エネルギーなのだ。
納税とそのための労働、そして教育。これによって社会保障と社会インフラが確保される。まちがっても政治家の生活を豊かにしたり
保障したりしているものではない。
ただ、現在、この義務(労働)が損なわれている。ゆえに納税の義務が果たせないのは当然なのだ。
だから、国は国民の権利を守るために補償を速やかに行い、国民に義務の遂行への道筋を作らなければならない。
でなければ、納税だけが存在してしまう。また、権利であり義務である教育も機会が奪われている。つまり、危機的状況なのだ。
であるから、改憲ではなく護憲のための政策が、行動が、必要なのだ。だから、多くの国民は緊急事態法を受け入れている。
それなのに、憲法に緊急事態条項をつけ加える必要を語る。改憲して、権利を規制する義務条項を増やそうとしている。
おかしいだろう。
緊急性が高いときに内閣の政令が力を持ちすぎることの危うさは歴史が証明している。忌野清志郎が語った、危機の後に戦争が来るだっかを
坂本龍一が以前紹介していた。
憲法には25条があり、国民の最低限度の生活は保障されるべきものと規定されている。だから、それを基にして緊急事態法などの法が、
現在かろうじて制定されたのだ。それでいいのである。常に憲法との整合性、合憲性を論じながら法を成立あるいは廃棄していくべきものであって、
あらかじめ憲法自体に国民の権利制限が起こりうるような規定を定めるのはおかしいのだ。
つまり、憲法に緊急事態条項が加わった場合、それからそれに基づく法が作られることになる。
ましてや、法なしで政令の権限をより上位に置こうとしてるのだ。間口をせばめてより強固な狭い法による規制を進めようとする。
ここにも火事場泥棒がいる。
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博多座公演「ラ・マンチャの男」

2012-05-24 01:42:28 | 雑感
松本幸四郎の「ラ・マンチャの男」を観る。
ミュージカルの世界に浸ることのできた2時間数分だった。

さすがに脚本がよくできている。囚われたセルバンテスが、牢獄の中で囚人達と即興劇を行うという、劇中劇の構造が採られている。劇中劇は、それこそお芝居ではよく使われる手法だが、ペーター・ヴァイスの「マラー/サド」を思いだした。この二重構造は、セルバンテスや囚人達の置かれた時代状況とその中で演じられるドン・キホーテ劇の状況の両方を描く。そうすることで、夢と現実、現実と虚構を劇の構造自体が示し、苛酷な現実の中で夢を見る想像の力を語りかけてくるのだ。
そこにさらに、劇中劇の中のキハーナが「妄想」の中でドン・キホーテになるという構造が入り込む。キハーナの現実と夢が交差するのだ。これは、テーマ曲の曲名通り「見果てぬ夢」の連鎖を作る。そして、騎士となって遍歴をする夢への遍歴を示しているのだ。
また、囚人達は、演じることで、囚われているという自分たちの現実から離れようとすることになる。彼らもまた、即興劇の間は、夢見る人々になることができるのだ。そこで、彼らにも、「見果てぬ夢」を歌う資格が、欲求が、与えられる。
松たか子演じるアルドンサにも、この構造は効果的に生かされる。劇中劇では旅籠の下働きのアルドンサは、ドン・キホーテの妄想の中でドルシネア姫になる。アルドンサはありえないと思いながらも、ドルシネアに自分の夢を重ねていく。それは、もともと囚人であった女が、アルドンサの役を通して見ことができた夢の形象になっているのだ。
そして、「見果てぬ夢」の歌詞が響いてくる。

 夢は稔り難く
 敵は数多なりとも
 胸に悲しみを秘めて
 我は勇み行かん

現実に対峙するには夢の力が大切なのだ。人は想像力で生きる動物なのかもしれない。

演出は随所に歌舞伎の手法を取り入れて、様式をうまく使っている。また、立体性に優れた博多座の縦の空間を使った舞台セットはよかった。
サンチョ役の駒田一がいい味を出していた。この劇では、サンチョの出来が、面白さに大きく作用すると思う。このサンチョは魅力的だった。
松本幸四郎については、もうわざわざ言うまでもなく、上条恒彦は相変わらず魅力的な声を出してくれる。そして、そして、松たか子。この人は怪物だ。
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