ボクらの今に漂っている不安が小説から滲みでてくる。
だが、それは湿気を帯びたものではない。最近の韓国の小説でよく感じられるように、過剰な重さは取り払われているのだが、
それがむしろ現在のボクらの存在の重量と呼応するようで不安と危機を醸し出す。
クンデラの『存在の耐えられない軽さ』ではないのだが。そう、あの小説の時代よりもさらに実存は軽くなっているのかも知れない。
かけがえのなさと無名性が背中合わせであるような。かけがえがないと語りながら一方では、それを語らずにはいられないほどの
交換可能性のなかに存在が置き離されている。その現在を小説は捉え、魅力的な小説世界を描きだしている。
「誰でもない」というフレーズが韓国語では「何でもない」とよく間違われると作者は日本の読者へのあとがきで書いている。
それは同時に「何でもない人」として扱われる瞬間の連続であると彼女は言い、この短編集の扉にも「人はしばしば〈誰でもない〉を
〈何でもない〉と読み違える」と書かれている。ここから、小説は、私のようなあなた、あなたのような私を描きだしていく。
だが、その「ような」の中に、どんなに近似的であっても代えられるものではないという願いがあるのかも知れない。だからこそ、
小説は同時代の空気の中にいるボクらの気分の、ボクらの状況の普遍性を獲得している。
マンションの近隣の騒音に悩まされ、弱い立場にある者が、現実の中でこころの バランスを崩しながら、いつのまにか騒音の主体に
なっていく姿を密度のある描写とチェーホフ的な「喜劇」性で描く「誰が」。
韓国の97年の通貨危機を、ヨーロッパを旅行している夫婦の危機と絡めて描き、危機の瞬間のラストへと見事に持っていく
「誰も行ったことがない」。
「唐辛子畑に唐辛子を摘みに行こうと言われ、行くと答えた」と書き始められる冒頭の小説「上京」。
この小説は、田舎に唐辛子摘みに行く私とオジェとオジェの母と、田舎の老婦人たちの関わりを、人手のない農村と都会のよるべなさとを
絡めて描いている。エピソードもふくめ独特のテイストがある小説だ。
ファン・ジョンウン。1976年ソウル生まれの作家で、「現在、最も期待される作家」と紹介されているが、
作者の名前を覚えておこうと思わせる小説だった。