パオと高床

あこがれの移動と定住

木下龍也『あなたのための短歌集』(ナナクロ社2021年11月11日)

2024-06-29 13:43:43 | 詩・戯曲その他

数年前、歌人の木下龍也と岡野大嗣、それに詩人の平川綾真智という3人によるトークイベントに参加した。
そのとき木下龍也が、他の仕事をせずに短歌だけで生計を立ていると語り、その一つとして、依頼者からのお題をもとに短歌をつくり、
封書にして送るという個人販売を行っていると語っていた。
この本の扉書きによると、4年間で約700首。その中から依頼者から提供を受けた100首によってできた一冊。

 例えば表紙。
 お題「まっすぐに生きたい。それだけを願っているのに、なかなかそうできません。
    まっすぐに生きられる短歌をお願いします。」
 それに対する短歌。
 「まっすぐ」の文字のどれもが持っているカーブが日々にあったっていい

 本文冒頭。
 お題「自分を否定することをやめて、一歩ずつ進んでいくための短歌をお願いします。」
 短歌。
 きつく巻くゆびを離せばゆっくりときみを奏でゆくオルゴール

たいへんな作業でありながら、楽しい仕事でもあるのかもしれない。
料理の提供と同じで、依頼者の満足を得られなければ、成り立たない。
依頼者がどう思ったかは、想像するしかないが、本書の読者であるボクは、うまいなと唸ってしまう。
お題との寄り添い方、離れ方、裏切り方、共感度が抜群の距離にある。
で、でてきた短歌はいい具合に直裁でありながらも、べたじゃない。
また、作っている作者の側から考えると、お題があり、その依頼者である「あなた」がいることで、「私」から離れられる。
その分、ただ、空想でなりきる他者ではない、ある程度のリアリティを担保しながら、「私」語りからは開放される。
実際書いている本人はヒヤヒヤの緊張感を持っているのだろうが、やはり愉しさがあるのではないのだろうか。
ことばは、相手に対して投げだされるものである。と、考えれば、表現の自然な状態が依頼者と提供者の契約の中で実現されているのだろう。
そして、そこに貨幣価値が伴えば商取引は成立する。
多大な付加価値があるのは、創りだされた短歌の魅力によるのだろう。

かつて、どこかで谷川俊太郎が、自分は自分のために詩を書くというより相手や依頼があって書いている
というようなことを語っていたような気がする。
「私」性は、創造の場において濃淡を変えていく。拠って立つ場所は「私」にのみあるわけではないのだろう。

キム・フン『ハルビン』蓮池薫訳(新潮社2024年4月25日)

2024-06-22 08:16:13 | 海外・小説

図書館で「ハルビン」という書名を見て、手に取った一冊。
1909年に伊藤博文を銃撃した安重根について書かれた小説だ。
韓国で33万部のベストセラーになったらしい。

作者キム・フン(金薫)は1948年生まれの作家。
最近読んでいた韓国の小説家の中では年長者になる。
韓国小説が訳され出した頃から翻訳された作家だと思う。
漢字名を見たときに、ああ、彼か、と思ったからだ。

そのキム・フンが2022年、長い年月の思いを込めて書き上げたのが、この小説。
歴史で習った人物が、どう育ち、何を憤り、何を願って、
あの銃撃、射殺という行為に至ったか。
そして、その行為に人々は何を思い、また、作者は何を託そうとしたのか。
情感を抑え込んだ筆致が、読者を誘いだしながら、読者に考える時間を与える。

伊藤の時間と安重根の時間を交互に重ねながら、小説はハルビン駅に向かう。
そこがクライマックスかと思って読みすすめていたのだが、
周到に背景を書き込みながらも、展開は速い。
半分を過ぎ、3分の2ぐらいになりそうなところで、一つのピークは訪れる。
そして、そのあとは
捕らえられた安重根と取調官との相克や、神父、司教の態度、安重根の妻や周りの人々の話が書かれていく。
そこにも時代の力関係の動きとそれへの抗いが現れている。

安重根は、獄中で墨を擦って、獄吏に頼まれた文字を書いたとされている。
その文字が「弱肉強食 風塵時代」。この時代の中の青春が刻まれた言葉なのだろう。
作者はあとがきで書いている。


  安重根の輝く青春を小説にすることは、私の辛かった青春の頃からの願いだった。

と。そして、

  私は安重根の「大義」よりも、実弾七発と旅費百ルーブルを持ってウラジオストクからハルビンに向かった、
 彼の貧しさと青春と体について書こうと思った。彼の体は大義や貧しさまでひっくるめて、敵に立ち向かって
 いった主体である。彼の大義については、後世の物書きが力を込めて書かなくても、彼自らの体と銃と口がす
 でにすべてを話しており、今も話している。

と、続ける。
周到で隣接していく調査や研究の果てに、作者は安重根という人物を、その出来事を小説にした。
そこには、大義だけへの言及ではない、生きた人間の、若者の青春そのものがあった。
そこが、小説だなと思わせる。小説の持つ力だなと思わせる。
常に変わらない敵との対峙の仕方。暴挙か、義挙か。
それよりも、そこから発せられる主体の強さが迫ってくる。

小説にこんな場面があった。
安重根が家を去り、ロシア領に向かう旅に出るとき、彼はウィルヘルム神父に挨拶に行く。
そこで、彼は火炉の灰の中をほじくりながら、

  この世の一方の彼方でウィルヘルムが祈禱をし、その反対側の彼方で伊藤が白い髭を撫でている。そして、
 その間の果てしない原野に死体が折り重なっている幻影が、その灰の上に浮かんだ。死体は飛び石のように、
 その両端を繋ぎ合わせていた。

おそらく、彼は、その飛び石を踏みしめるような思いをしながら、光のウィルヘルムから離れ、
伊藤へと向かって、翔んでいったのだろう。

キム・フンは、あとがきをこう終わらせている。

  安重根をその時代に閉じ込めておくことはできない。(略)安重根は弱肉強食の人間世界の運命に立ち向かいながら、
 絶えず話しかけてきている。安重根は語り、また語った。安重根の銃は言葉だった。

作者は、そこにあった行為としての銃撃を、言葉に託す思いに賭けて、必死の変換を試みている。

鶴見俊輔『思い出袋』(岩波新書2010年3月19日発行)

2024-06-14 14:22:20 | 国内・エッセイ・評論

鶴見俊輔80歳から7年にわたる『図書』連載をまとめた一冊。
ほぼ2ページくらいの短い文章が綴られている。

翻訳家でエッセイスト、評論、書評、詩の書き手でもある斎藤真理子が、その著書『本の栞にぶら下がる』で、
「美味しいふりかけ」と書いていた一冊。斎藤真理子はこう書く。

  例えば、食欲がガタンと落ちて、お粥にして、お粥からご飯に戻ったのだが、ちゃんとしたおかずがまだ食べられない。
 でも白飯だけではというのも味気なくて、何か欲しい……ふりかけぐらいなら……美味しいふりかけがあれば……という感じのときだったので、
 『思い出袋』は役立った。
  鶴見俊輔のふりかけは美味しい。何しろもともとの材料がいいので、あそこからこぼれてきたものを集めても美味しいに決まっている。

そう、美味しすぎる。
鶴見俊輔が出会った人や本、そして出来事が自在に重なってくる。一切の体験と思考が絡み合いながら、通念、常識を問い直していく。
2ページほどなのに、えっ、この文章どこにいくのと思わせながら、当初の場所に着地する。
そこにはきちんと思考の後、レアな問いが置かれている。
鶴見俊輔の合理性は、多くの不合理の中をくぐり抜けながら、良心にたどりつく。
しかも、良識はすでに疑いのふるいにかけられているから、そこにあらわれる良心は、時の勢威にあたふたしない。
そばにおいて、折に触れ、ふりかけたくなる一冊だ。
それにしても、射程の広さがすごい。
ジョン万次郎、金子ふみ子と入ってきて、大山巌、乱歩、クリスティ、正津勉、柳宗悦、丸山真男、加藤周一、
映画、相撲などなど、過去も現在も、あちらもこちらも 縦横無尽だ

斎藤真理子も引いていたが、そんな中で、こんな文が出てきたりする。
イラクの戦争で人質になった日本人へのバッシングのような論調について記している件だ。

  なぜ、日本では「国家社会のため」と、一息に言う言い回しが普通になったのか。社会のためと国家のためとは同じであると、どうして言えるのか。
 国家をつくるのが社会であり、さらに国家の中にいくつもの小社会があり、それら小社会が国家を支え、国家を批判し、国家を進めてゆくと考えないのか。

こういった剛直な思考が柔軟な躍動の中から現れてくる。
国体は国家じゃない。するりと合点をいかせながら、きちんと読者を立ち止まらせてくれる。
こんな一節もある。

  自分で定義をするとき、その定義のとおりに言葉を使ってみて、不都合が生じたら直す。
 自分の定義でとらえることができないとき。経験が定義のふちをあふれそうになる。あふれてもいいではないか。
 そのときの手ごたえ、そのはずみを得て、考えがのびてゆく。

鶴見俊輔に出会うことは、この定義を問う方法を学ぶことかも知れない。
詩が、現代詩が、行う定義づけも、実は、こんな感じなのだ。

中山七里『いまこそガーシュウィン』(宝島社 2023年9月29日)

2024-06-05 01:42:13 | 国内・小説

そうか、ガーシュウィンか。
で、一気読みできる本を読みたいなと思って読んだ一冊。

舞台はアメリカ、ニューヨーク。大統領選のあと、よもやの共和党大統領がヘイトスピーチをガンガンやりまくって当選。
アメリカ国内では白人至上主義者が移民への差別を助長させる。
分断化の加速。
そんな中、ピアニスト、エドワードは、
ショパン・コンクールで平和をめぐる「五分間の奇跡」を行った岬洋介とピアノの二台連弾による「ラプソディー・イン・ブルー」のコンサートを企画する。
そのカーネギーホールでのコンサートへの流れがストーリの中心線である。
そこに大統領を暗殺しようとする〈愛国者〉という人物が絡んでくる。

  「音楽で暴力に立ち向かおうというのかい。それはファンタジーだよ」
  「音楽には暴力に比肩する力があります」
   岬の言葉は静かだが自信に満ち溢れている。聞いていると、知らず知らずのうちに胸の底へするすると入り込んでくる。
 「音楽に力があるのは古今東西の為政者が認めています。慰撫するメロディ。鼓舞するリズム。だからこそプロバガンダに利用されたり、
   逆にミュージシャンが利用されるのを怖れたりしているんです。コンサートを中止させようとしている人たちも同じなのですよ」

こんなコンサートをめぐるやり取りがある。

そういえば、村上龍の『五分後の世界』にもミュージシャンが出てきた。
あの小説では、ボクは、勝手に、ミュージシャンを坂本龍一ってイメージしていたけど。
坂本自身は「音楽の力」という言い方は確か、嫌っていたような。
「力」じゃないんだよな。それ自体を別のことばにすることがたぶん、あるんだよな。
しなければならにという「ねばならない」じゃなくって、べつの、ことばが要請されるっていうか、
そんな、ことばにされることを、求めているっていうか。

あっ、中山七里の、この小説、ガーシュウィンを聴きたくなりました。
確かに、「いまこそ」、ガーシュウィンかも。