この書名は魅力的だ。これで、もう、一編の詩になっているようで、また、詩が起動する気配に満ちている。で、ありながら、やっぱり小説なのだ。紅茶色でティーバックがあしらわれた装幀が、また、いい。
収録小説は五編。お茶を飲みながら、小説の愉悦に浸ることができた。小説は自由なんだ。小説は言葉でできているんだ。と、改めて感じることができたし、その自由のために多くの不自由と格闘しなければならないのだと、またまた気づくことができた。さらにさらに、格闘は、すり抜けたり、ぶつかったり、いろいろあって、連綿と続いてきた紡ぎ出されてきた既存の作品が、実は跳躍台で、軽やかに飛躍するのは心地良かったりするのだとわかったりする。もちろん、バコンッと跳躍台を踏み割ってしまうパワフルヒッターもいるし、多和田葉子の場合、軽やかだけど、跳んだ後、跳躍台自体を見てみると案外亀裂がつけられているようなのだ。
「枕木」の奇想。それは列車に乗ってワープロに小説を入力している私の持つ奇想で、想像力の流れが列車になって、枕木に繋がって、終わった地点で軌跡が小説になっている。枕木という言葉が、連想から自律性を越えようとする瞬間が小説を閉じさせる。
「雲を拾う女」は、哺乳ビンの乳首に変身した(わたし)を巡る物語のようでありながら、実は、その(わたし)は、対象を描き出す(わたし)であるというカフカの『変身』の構造を持っている。ただし、描き出される対象が、変身した(わたし)と同じ側に住んでいることと、前提として、(わたし)が身体を奪われてしまっているところがファンタジィーの道を辿っていて、悪魔を巡る物語を作っている。
「所有者のパスワード」では永井荷風の小説が「ボクトーキタン」になるところに楽しみがあり、それを漢字の悦楽に変える業に裏返しのテクニックが冴える。ボクらの恋の行く末は?という問いが、ボクらの小説の行く末は?に繋がる酔狂の楽しさと空しさよ。
「目星の花ちろめいて」は「枕草子」か「宇治拾遺物語」か。はてまた、という古文語りの本歌取り意匠。
「ヒナギクのお茶の場合」は、がっちり国際的な枠組みの小説ではないだろうか? 緑髪のハンナと「わたし」の交流が小説の題名通りなのだ。しかも交流は時間も夢も越えていく。ねえ、小説って、そんなもんじゃないの?と、言ってるみたいで。ボクらは現実を夢の時間の力で生きているのかもしれないと思わせる。
収録小説は五編。お茶を飲みながら、小説の愉悦に浸ることができた。小説は自由なんだ。小説は言葉でできているんだ。と、改めて感じることができたし、その自由のために多くの不自由と格闘しなければならないのだと、またまた気づくことができた。さらにさらに、格闘は、すり抜けたり、ぶつかったり、いろいろあって、連綿と続いてきた紡ぎ出されてきた既存の作品が、実は跳躍台で、軽やかに飛躍するのは心地良かったりするのだとわかったりする。もちろん、バコンッと跳躍台を踏み割ってしまうパワフルヒッターもいるし、多和田葉子の場合、軽やかだけど、跳んだ後、跳躍台自体を見てみると案外亀裂がつけられているようなのだ。
「枕木」の奇想。それは列車に乗ってワープロに小説を入力している私の持つ奇想で、想像力の流れが列車になって、枕木に繋がって、終わった地点で軌跡が小説になっている。枕木という言葉が、連想から自律性を越えようとする瞬間が小説を閉じさせる。
「雲を拾う女」は、哺乳ビンの乳首に変身した(わたし)を巡る物語のようでありながら、実は、その(わたし)は、対象を描き出す(わたし)であるというカフカの『変身』の構造を持っている。ただし、描き出される対象が、変身した(わたし)と同じ側に住んでいることと、前提として、(わたし)が身体を奪われてしまっているところがファンタジィーの道を辿っていて、悪魔を巡る物語を作っている。
「所有者のパスワード」では永井荷風の小説が「ボクトーキタン」になるところに楽しみがあり、それを漢字の悦楽に変える業に裏返しのテクニックが冴える。ボクらの恋の行く末は?という問いが、ボクらの小説の行く末は?に繋がる酔狂の楽しさと空しさよ。
「目星の花ちろめいて」は「枕草子」か「宇治拾遺物語」か。はてまた、という古文語りの本歌取り意匠。
「ヒナギクのお茶の場合」は、がっちり国際的な枠組みの小説ではないだろうか? 緑髪のハンナと「わたし」の交流が小説の題名通りなのだ。しかも交流は時間も夢も越えていく。ねえ、小説って、そんなもんじゃないの?と、言ってるみたいで。ボクらは現実を夢の時間の力で生きているのかもしれないと思わせる。