「現代詩」が、今ある詩ではなく、「現代詩」というジャンルなのだと思ったのは、歌人の石井辰彦が書いた『現代詩としての短歌』という本を読んだときだったかもしれない。現在の詩ではなく、「戦後詩」という呼び方があるように「現代詩」という呼び方があって、それは現在ある詩のある部分を占めているものだということを何となく認識した。
では、「現代詩」とは何と聞かれると悩んでしまう。詩史的に「戦後詩」のポストであって、「戦後詩」とは切削面があるものだとは思う。もちろんサクッと断裂しているわけはない。だが、確実に質的変化が感じられるものであり、詩を読んだときに、その異動が見て取れるものがあるのだ。そして、それは「近代詩」とは明らかに違う。ただ、運動体ではないので、どこまでも詩人の個性に拠って立つものであり、むしろどこに共通項を感じるかが難しいのかもしれない。
と、こんな能書きが、「現代詩」への入りを妨げているのだ、きっと。
この『今を生きるための現代詩』は、「現代詩はおもしろい」ということを「わからない」っておもしろいことだよって語る楽しい本だ。
数年前から、テレビや本で、歌人が短歌について話すとき、短歌への「愛」や「思い」を楽しそうに語っているなと思っていた。もちろん、みんながみんなじゃないけれど。それに比べて、詩人って何だかストレートに語らないよなと思っていた。まあ、語る機会が少ないし、これもまた、みんながみんなじゃないけれど。読み解くにしても、読み解くことは楽しいはずだし、楽しくできるはずで、また、レトリックだって愉快に味わえるものなのだ。深刻さを茶化していいとは思わない。作品の重さは重さとして受け止めることは大切だ。また、作者がそのことばを書き記したときにあったであろう格闘は、格闘として想像したいと思う。でも、そんなことすべてが、読む楽しみなのだ。軽いものだけが楽しいものではないことは、小説や映画やドラマなんかを考えれば当然だ。ただ、その作品について語られたものが楽しくないと、また、語っている人が楽しんでないと、受け取る側は結構きつい。
渡邊十絲子は、この本で、その楽しさを見せてくれた。
「わからない」という一言で片づけられてしまうことが多い「現代詩」への熱い思いを、彼女が愛した詩を読み解きながら伝えていく。そこには彼女が、その詩と出会ったときの驚きがあり、引きつけられていった感覚の手ざわりがあり、その引かれたわけを探ろうとする知性の蠢きがある。それらが現代詩の魅力を伝えてくれる。同時に、詩についてのこの国のミスリードや社会的な怠惰を柔らかく問う。その基本は、意味づけされることへの畏れと疑いであり、わかりやすいものや安易にわかってしまえるものへの危惧とそれらがもたらす脅威であり、わかることへの退屈さである。
日本での詩との出会いの悪さをこう書く。
もともと、日本人は詩との出会いがよくないのだと思う。
大多数の人にとって、詩との出会いは国語教科書なのだ。はじめての
体験、あたらしい魅力、感じとるべきことが身のまわりにみちあふれ、
詩歌などゆっくり味わうひまのない年齢のうちに、強制的に「よいもの」
「美しいもの」として詩をあたえられ、それは「読みとくべきもの」だ
と教えられる。そして、この行にはこういう技巧がつかってあって、そ
れが作者のこういう感情を効果的に伝えている、などと解説される。そ
れがおわれば理解度をテストされる。
そして、作者の「伝えたかったこと」がわかっているかが試されるのだ。渡邊十絲子は、中学の教科書で谷川俊太郎の「生きる」に出会い、この詩に「こころがふるえない自分」を「不可解」と思う。自分が読んできてこころがふるえた詩と違うと思うのだ。そして、彼女は今なら、なぜこころがふるえなかったがわかるという。「13歳のわたしは、この『生きる』という詩にこめられたリアリティーをまったく感じとることができなかった」からだと。これは、詩が悪いわけではない、また読んだ「わたし」が悪いわけでもない。悪い出会いがあったのだ。
渡邊同様、ボクもこの詩は中学生には非常に難しいと思う。渡邊が書くように、この詩は、「実感の再現」に拠って成り立つウェイトが大きい。遣われていることばはわかりやすい。また、知識を教えるのにも便利だ。だが、中学生で、この詩から実感を感じとるのは案外たいへんだと思う。感覚と知性を持って世界の中に立ち、自らを開いて生きているものを感じ出会うのですよと教条的に着地させることはできるだろうが、頭にだけ寄りかかり、そう解答しなければいけないとするのに便利なだけである。より始末に負えないのは、まれにそれが強要される場合があることだ。テストとはそういうものかもしれない。しかし、詩との出会いはそういうものではない。
みなさん、人に強いられて詩を解読したつまらない体験は忘れましょ
う。
人がいいという詩がぜんぜんよく思えないことは、詩人にもあります。
いいと思えるものを見つけて、好きなだけ時間をかけて読んでください。
そして、現代詩と和解してください。
あっ、こういう書き方をすると勘違いされるかもしれないが、この本は、学校教育を批判する本でない。最初に出会いから入り、以下、黒田喜夫、入沢康夫、安東次男、川田絢音、井坂洋子と、渡邊十絲子が「ふるえた」詩を読んでいく。どこがおもしろいのか、その詩と私の出会いはどうだったのか、その詩のわからなさは何なのか、そして、その詩はどんな日本語を遣っていて、どう開かれているのか。渡邊は渡邊の読みを展開する。それは読みの可能性であり、読むことのスリリングな楽しみである。
「わからない」って、すごいことなんだ。それが、読者を楽しくさせる。
詩を読む読者は安心して、こう言えるだろう。
「作者の伝えたかったこと」なんて、ここにはないのだ!
なくていいのだ!
そして、わからなさを大切にしながら、
詩を読むことは、効率の追求の対極にある行為だろう。
かんたんにはわからない詩をいつまでも読みつづけることは、効率主
義にうちひしがれ、すっかり消耗した精神の特効薬になるかもしれない。
わたしが知った詩の役割とは、つまりそういうものだった。詩は謎の
種であり、読んだ人はそれをながいあいだこころのなかにしまって発芽
をまつ。(略)いそいで答えを出す必要なんてないし、唯一解に到達する
必要もない。
いま、いそいで「わかった」と言ってこれを処理することの安っぽさ
と、「わからない」状態にながく身をおいていることのたいせつさ。「わ
からない」ことは高貴な可能性なのである。
として、詩と付き合っていく、
詩の持つ孤独の力が、弱く小さいはずの人間の精神を、遠い遠い高み
までつれていく。
つれていってくれるのかな。それは、わからない。ただ、読書は開かれているものだ。そこには、時間などの制約と抗いながらも、自由がある。そして、「現代詩」の読みもまた、自由であるはずなのだ。
安東次男と川田絢音の章が面白かった。
では、「現代詩」とは何と聞かれると悩んでしまう。詩史的に「戦後詩」のポストであって、「戦後詩」とは切削面があるものだとは思う。もちろんサクッと断裂しているわけはない。だが、確実に質的変化が感じられるものであり、詩を読んだときに、その異動が見て取れるものがあるのだ。そして、それは「近代詩」とは明らかに違う。ただ、運動体ではないので、どこまでも詩人の個性に拠って立つものであり、むしろどこに共通項を感じるかが難しいのかもしれない。
と、こんな能書きが、「現代詩」への入りを妨げているのだ、きっと。
この『今を生きるための現代詩』は、「現代詩はおもしろい」ということを「わからない」っておもしろいことだよって語る楽しい本だ。
数年前から、テレビや本で、歌人が短歌について話すとき、短歌への「愛」や「思い」を楽しそうに語っているなと思っていた。もちろん、みんながみんなじゃないけれど。それに比べて、詩人って何だかストレートに語らないよなと思っていた。まあ、語る機会が少ないし、これもまた、みんながみんなじゃないけれど。読み解くにしても、読み解くことは楽しいはずだし、楽しくできるはずで、また、レトリックだって愉快に味わえるものなのだ。深刻さを茶化していいとは思わない。作品の重さは重さとして受け止めることは大切だ。また、作者がそのことばを書き記したときにあったであろう格闘は、格闘として想像したいと思う。でも、そんなことすべてが、読む楽しみなのだ。軽いものだけが楽しいものではないことは、小説や映画やドラマなんかを考えれば当然だ。ただ、その作品について語られたものが楽しくないと、また、語っている人が楽しんでないと、受け取る側は結構きつい。
渡邊十絲子は、この本で、その楽しさを見せてくれた。
「わからない」という一言で片づけられてしまうことが多い「現代詩」への熱い思いを、彼女が愛した詩を読み解きながら伝えていく。そこには彼女が、その詩と出会ったときの驚きがあり、引きつけられていった感覚の手ざわりがあり、その引かれたわけを探ろうとする知性の蠢きがある。それらが現代詩の魅力を伝えてくれる。同時に、詩についてのこの国のミスリードや社会的な怠惰を柔らかく問う。その基本は、意味づけされることへの畏れと疑いであり、わかりやすいものや安易にわかってしまえるものへの危惧とそれらがもたらす脅威であり、わかることへの退屈さである。
日本での詩との出会いの悪さをこう書く。
もともと、日本人は詩との出会いがよくないのだと思う。
大多数の人にとって、詩との出会いは国語教科書なのだ。はじめての
体験、あたらしい魅力、感じとるべきことが身のまわりにみちあふれ、
詩歌などゆっくり味わうひまのない年齢のうちに、強制的に「よいもの」
「美しいもの」として詩をあたえられ、それは「読みとくべきもの」だ
と教えられる。そして、この行にはこういう技巧がつかってあって、そ
れが作者のこういう感情を効果的に伝えている、などと解説される。そ
れがおわれば理解度をテストされる。
そして、作者の「伝えたかったこと」がわかっているかが試されるのだ。渡邊十絲子は、中学の教科書で谷川俊太郎の「生きる」に出会い、この詩に「こころがふるえない自分」を「不可解」と思う。自分が読んできてこころがふるえた詩と違うと思うのだ。そして、彼女は今なら、なぜこころがふるえなかったがわかるという。「13歳のわたしは、この『生きる』という詩にこめられたリアリティーをまったく感じとることができなかった」からだと。これは、詩が悪いわけではない、また読んだ「わたし」が悪いわけでもない。悪い出会いがあったのだ。
渡邊同様、ボクもこの詩は中学生には非常に難しいと思う。渡邊が書くように、この詩は、「実感の再現」に拠って成り立つウェイトが大きい。遣われていることばはわかりやすい。また、知識を教えるのにも便利だ。だが、中学生で、この詩から実感を感じとるのは案外たいへんだと思う。感覚と知性を持って世界の中に立ち、自らを開いて生きているものを感じ出会うのですよと教条的に着地させることはできるだろうが、頭にだけ寄りかかり、そう解答しなければいけないとするのに便利なだけである。より始末に負えないのは、まれにそれが強要される場合があることだ。テストとはそういうものかもしれない。しかし、詩との出会いはそういうものではない。
みなさん、人に強いられて詩を解読したつまらない体験は忘れましょ
う。
人がいいという詩がぜんぜんよく思えないことは、詩人にもあります。
いいと思えるものを見つけて、好きなだけ時間をかけて読んでください。
そして、現代詩と和解してください。
あっ、こういう書き方をすると勘違いされるかもしれないが、この本は、学校教育を批判する本でない。最初に出会いから入り、以下、黒田喜夫、入沢康夫、安東次男、川田絢音、井坂洋子と、渡邊十絲子が「ふるえた」詩を読んでいく。どこがおもしろいのか、その詩と私の出会いはどうだったのか、その詩のわからなさは何なのか、そして、その詩はどんな日本語を遣っていて、どう開かれているのか。渡邊は渡邊の読みを展開する。それは読みの可能性であり、読むことのスリリングな楽しみである。
「わからない」って、すごいことなんだ。それが、読者を楽しくさせる。
詩を読む読者は安心して、こう言えるだろう。
「作者の伝えたかったこと」なんて、ここにはないのだ!
なくていいのだ!
そして、わからなさを大切にしながら、
詩を読むことは、効率の追求の対極にある行為だろう。
かんたんにはわからない詩をいつまでも読みつづけることは、効率主
義にうちひしがれ、すっかり消耗した精神の特効薬になるかもしれない。
わたしが知った詩の役割とは、つまりそういうものだった。詩は謎の
種であり、読んだ人はそれをながいあいだこころのなかにしまって発芽
をまつ。(略)いそいで答えを出す必要なんてないし、唯一解に到達する
必要もない。
いま、いそいで「わかった」と言ってこれを処理することの安っぽさ
と、「わからない」状態にながく身をおいていることのたいせつさ。「わ
からない」ことは高貴な可能性なのである。
として、詩と付き合っていく、
詩の持つ孤独の力が、弱く小さいはずの人間の精神を、遠い遠い高み
までつれていく。
つれていってくれるのかな。それは、わからない。ただ、読書は開かれているものだ。そこには、時間などの制約と抗いながらも、自由がある。そして、「現代詩」の読みもまた、自由であるはずなのだ。
安東次男と川田絢音の章が面白かった。