パオと高床

あこがれの移動と定住

渡邊十絲子『今を生きるための現代詩』(講談社現代新書)

2013-06-30 12:55:19 | 国内・エッセイ・評論
「現代詩」が、今ある詩ではなく、「現代詩」というジャンルなのだと思ったのは、歌人の石井辰彦が書いた『現代詩としての短歌』という本を読んだときだったかもしれない。現在の詩ではなく、「戦後詩」という呼び方があるように「現代詩」という呼び方があって、それは現在ある詩のある部分を占めているものだということを何となく認識した。
では、「現代詩」とは何と聞かれると悩んでしまう。詩史的に「戦後詩」のポストであって、「戦後詩」とは切削面があるものだとは思う。もちろんサクッと断裂しているわけはない。だが、確実に質的変化が感じられるものであり、詩を読んだときに、その異動が見て取れるものがあるのだ。そして、それは「近代詩」とは明らかに違う。ただ、運動体ではないので、どこまでも詩人の個性に拠って立つものであり、むしろどこに共通項を感じるかが難しいのかもしれない。
と、こんな能書きが、「現代詩」への入りを妨げているのだ、きっと。

この『今を生きるための現代詩』は、「現代詩はおもしろい」ということを「わからない」っておもしろいことだよって語る楽しい本だ。
数年前から、テレビや本で、歌人が短歌について話すとき、短歌への「愛」や「思い」を楽しそうに語っているなと思っていた。もちろん、みんながみんなじゃないけれど。それに比べて、詩人って何だかストレートに語らないよなと思っていた。まあ、語る機会が少ないし、これもまた、みんながみんなじゃないけれど。読み解くにしても、読み解くことは楽しいはずだし、楽しくできるはずで、また、レトリックだって愉快に味わえるものなのだ。深刻さを茶化していいとは思わない。作品の重さは重さとして受け止めることは大切だ。また、作者がそのことばを書き記したときにあったであろう格闘は、格闘として想像したいと思う。でも、そんなことすべてが、読む楽しみなのだ。軽いものだけが楽しいものではないことは、小説や映画やドラマなんかを考えれば当然だ。ただ、その作品について語られたものが楽しくないと、また、語っている人が楽しんでないと、受け取る側は結構きつい。

渡邊十絲子は、この本で、その楽しさを見せてくれた。
「わからない」という一言で片づけられてしまうことが多い「現代詩」への熱い思いを、彼女が愛した詩を読み解きながら伝えていく。そこには彼女が、その詩と出会ったときの驚きがあり、引きつけられていった感覚の手ざわりがあり、その引かれたわけを探ろうとする知性の蠢きがある。それらが現代詩の魅力を伝えてくれる。同時に、詩についてのこの国のミスリードや社会的な怠惰を柔らかく問う。その基本は、意味づけされることへの畏れと疑いであり、わかりやすいものや安易にわかってしまえるものへの危惧とそれらがもたらす脅威であり、わかることへの退屈さである。
日本での詩との出会いの悪さをこう書く。

  もともと、日本人は詩との出会いがよくないのだと思う。
  大多数の人にとって、詩との出会いは国語教科書なのだ。はじめての
 体験、あたらしい魅力、感じとるべきことが身のまわりにみちあふれ、
 詩歌などゆっくり味わうひまのない年齢のうちに、強制的に「よいもの」
 「美しいもの」として詩をあたえられ、それは「読みとくべきもの」だ
 と教えられる。そして、この行にはこういう技巧がつかってあって、そ
 れが作者のこういう感情を効果的に伝えている、などと解説される。そ
 れがおわれば理解度をテストされる。

そして、作者の「伝えたかったこと」がわかっているかが試されるのだ。渡邊十絲子は、中学の教科書で谷川俊太郎の「生きる」に出会い、この詩に「こころがふるえない自分」を「不可解」と思う。自分が読んできてこころがふるえた詩と違うと思うのだ。そして、彼女は今なら、なぜこころがふるえなかったがわかるという。「13歳のわたしは、この『生きる』という詩にこめられたリアリティーをまったく感じとることができなかった」からだと。これは、詩が悪いわけではない、また読んだ「わたし」が悪いわけでもない。悪い出会いがあったのだ。
渡邊同様、ボクもこの詩は中学生には非常に難しいと思う。渡邊が書くように、この詩は、「実感の再現」に拠って成り立つウェイトが大きい。遣われていることばはわかりやすい。また、知識を教えるのにも便利だ。だが、中学生で、この詩から実感を感じとるのは案外たいへんだと思う。感覚と知性を持って世界の中に立ち、自らを開いて生きているものを感じ出会うのですよと教条的に着地させることはできるだろうが、頭にだけ寄りかかり、そう解答しなければいけないとするのに便利なだけである。より始末に負えないのは、まれにそれが強要される場合があることだ。テストとはそういうものかもしれない。しかし、詩との出会いはそういうものではない。

  みなさん、人に強いられて詩を解読したつまらない体験は忘れましょ
 う。
  人がいいという詩がぜんぜんよく思えないことは、詩人にもあります。
 いいと思えるものを見つけて、好きなだけ時間をかけて読んでください。
 そして、現代詩と和解してください。

あっ、こういう書き方をすると勘違いされるかもしれないが、この本は、学校教育を批判する本でない。最初に出会いから入り、以下、黒田喜夫、入沢康夫、安東次男、川田絢音、井坂洋子と、渡邊十絲子が「ふるえた」詩を読んでいく。どこがおもしろいのか、その詩と私の出会いはどうだったのか、その詩のわからなさは何なのか、そして、その詩はどんな日本語を遣っていて、どう開かれているのか。渡邊は渡邊の読みを展開する。それは読みの可能性であり、読むことのスリリングな楽しみである。
「わからない」って、すごいことなんだ。それが、読者を楽しくさせる。
詩を読む読者は安心して、こう言えるだろう。

  「作者の伝えたかったこと」なんて、ここにはないのだ!
   なくていいのだ!

そして、わからなさを大切にしながら、

  詩を読むことは、効率の追求の対極にある行為だろう。

  かんたんにはわからない詩をいつまでも読みつづけることは、効率主
 義にうちひしがれ、すっかり消耗した精神の特効薬になるかもしれない。

  わたしが知った詩の役割とは、つまりそういうものだった。詩は謎の
 種であり、読んだ人はそれをながいあいだこころのなかにしまって発芽
 をまつ。(略)いそいで答えを出す必要なんてないし、唯一解に到達する
 必要もない。

  いま、いそいで「わかった」と言ってこれを処理することの安っぽさ
 と、「わからない」状態にながく身をおいていることのたいせつさ。「わ
 からない」ことは高貴な可能性なのである。

として、詩と付き合っていく、

  詩の持つ孤独の力が、弱く小さいはずの人間の精神を、遠い遠い高み
 までつれていく。

つれていってくれるのかな。それは、わからない。ただ、読書は開かれているものだ。そこには、時間などの制約と抗いながらも、自由がある。そして、「現代詩」の読みもまた、自由であるはずなのだ。

安東次男と川田絢音の章が面白かった。
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東直子『とりつくしま』(筑摩書房)

2013-06-22 08:59:30 | 国内・小説
『想像ラジオ』を読んで、物や場所に宿る死者の思いについて書いたが、東直子の『とりつくしま』は、死者が生者への思いを込めて何かにとりつくという設定の連作集である。番外篇一篇を入れて、全11話。
第一篇は、こう書き始められる。

  ざわざわしている。まわりがよく見えない。でも、まわりにたくさ
 ん、いる。なにかいる。とても、いる。ざわざわしている。
  これが、そうなの? こういうかんじなの?
  私は死んだ、らしい。それだけは、分かっている。

そして、死んでしまった者は「とりつくしま係」に出会う。係は言う。

  「そう、とりつくしま。私は〈係〉ですから、一目で、とりつくしま
 を探している人が分かります。あなたは、とりつくものを探している気
 配をおおいに出しています。あなたが、その気配を出しているうちは、
 この世にあるなにかのモノにとりつくことができるのです」

生きているモノはだめだが、それ以外ならモノになって、もう一度、この世を体験できる。野球部の息子のロージンに母がとりつく、「ロージン」。結婚二年目で亡くなった妻が、夫のマグカップのトリケラトプスの絵にとりつく、「トリケラトプス」。子どもが公園の青いジャングルジムにとりつく、「青いの」などなど。死者の思いと生者の思いが綴られていく。もちろん、声を聞き合ったりはしない。そばにいながら、遠い存在だ。ただ、逆もいえる。遠い存在になってしまったのに、そばにいる者。その気配と心の感応がやさしく描かれる。一篇ごとに、わずかの時間で読んで、何となくホワっとした気分になって、同時にちょっとせつなくなる。そんな小説たちだ。
東直子は歌人としても有名で、小説家と歌人、どっちが知られているのだろう。
そういえば、穂村弘との共著で『回転ドアは、順番に』という作品があった。恋人同士の、春の日の出会いから春の日の別れまでを、短歌と詩で応答するように描きだしていく。スリリングで面白い本だった。

コメント (3)
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いとうせいこう「想像ラジオ」(「文藝」2013年春号)

2013-06-15 09:16:39 | 国内・小説
 「想像せよ」
 「想像するんだ」
 「何が起こるんだ?」
 「しっ」
 「きっと消えていくんだ」

声を聴く。そして、場所に宿る感覚を感じとる。そういったことをここしばらく考えていた。人の話を聞けとかそんなことではなく、飛びかい消えいく声を聴く。
また、いたはずの何者かが消えてしまったとき、その場所に、ある物に、宿る感覚は、単にいたはずの何者かへの記憶だけなのだろうかとも考える。そこにいた者が消えたとき、いた者にとっての世界は消える。しかし、今いる者にとっては彼の消滅が彼の世界の消滅とはならない。依然として、そこには彼の不在の世界が残る。それだけなら、喪失は喪失としてある。消えた彼の重力は空間の補正力のようなもので修復される。心に穴を残して。そして、その穴へと、光さえも飲み込まれてしまうような、失われた者一人分の重力の欠落へと、周囲の重力は働きかける。時も、そこへと流れこんでいく。経過していく時間が心を癒すかはわからない。しかし、間違いなく時は流れこんでいく。だが、それで消えた者の世界が消えてしまうわけではない。そこにいたはずの者がいる感覚を感じとる。彼らの言葉を感受する。「想像せよ」。それは生者の傲慢か。で、あったとしても、そこにいたはずの彼の、彼女の声を想像せよ。

いとうせいこうは、小説というからくりを使って生者と死者の重層的な空間を創り出した。それは、事故、事件、災厄によって瞬時に発生する世界でありながら、瞬時には消えない世界である。彼は、その世界を死者の側から語り出すという力業をやってみせる。
地震後の津波によって杉の木に引っかかり、生者ではなくなった芥川冬助は、そこからリスナーである死者へと言葉と音楽を届けるDJになる。名前は方舟というDJアーク。開始時刻は午前2時46分。あの大震災が発生した時刻を午後から午前へと転回させている。
彼は自らの妻や子へ語りかける。また、死者たちはDJである彼へと語りかけ、彼は死者の言葉を代弁する。
五章構成の奇数章は彼のDJで進む。一方の偶数章は生者である「私」が、そのDJを聴き取ろうとする生者の章になっている。
では、死者のラジオをどうやって聴くか。

  あなたの想像力が電波であり、マイクであり、スタジオであり、電波
 塔であり、つまり僕の声そのものなんです。

そして、それを感受するのは

  そう考えると今まで僕が想像力こそが電波と言ってきたのは不正確で、
 本当は悲しみが電波なのかもしれないし、悲しみがマイクであり、スタ
 ジオであり、今みんなに聞こえている僕の声そのものかもしれない。

悲しみの力ともいえるものだ。そして、いとうせいこうは、今ある世界をこうとらえようとする。

  「生き残った人の思い出もまた、死者がいなければ成立しない。だっ
 て誰も亡くなっていなければ、あの人が今生きていればなあなんて思わ
 ないわけで。つまり生者と死者は持ちつ持たれつなんだよ。決して一方
 的な関係じゃない。どちらかだけがあるんじゃなくて、ふたつでひとつ
 なんだ」

  「そうそう、ふたつでひとつ。だから生きている僕は亡くなった君の
 ことをしじゅう思いながら人生を送っていくし、亡くなっている君は生
 きている僕からの呼びかけをもとに存在して、僕を通して考える。そし
 て、一緒に未来を作る。死者を抱きしめるどころか、死者と生者が抱き
 しめあっていくんだ。さて、僕は狂っているのかな?泣き疲れて絶望し
 て、こんな結論にたどりついていて」

共にある場を作りだすために未来は構想される。それは、聴くという行為から始まるのかもしれない。
この小説は、第二章で死者の声を聴くという生者の傲慢さをめぐる議論を展開する。小説の構造、仕掛けを小説の中で処理し、小説の中に異なる声を持ち込む。そのことで小説は、一方的な傲慢さを排除している。
また、四章は会話だけで成立している。しかも、それは「私」と私が愛した女性との会話だ。「私」は、それを作家として記述するという構成になっている。そこに、想像力を記述し、記録する小説作家の、作家としての気概と、その結実を見出すことが出来る。
「想像ラジオ」、感嘆した。

49日があるように死者がはなれていく。それまでは、

  あの世にあなたを送る方にとって、あなたを失ったことはしばらく
 そうであるような、ないようなことであって欲しいんだ

そして、その先へと向かおうとすることばがある。
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綿矢りさ『大地のゲーム』(「新潮」3月号)

2013-06-01 10:52:44 | 国内・小説
ああ、こうくるんだと思った。と、書いても、何がそうきたわけだということなのだが、読んで最初の、というか途中の感想が、ああ、こうくるんだということだったのだ。
文学は出来事の余白に寄生する。出来事を語る多くの言葉が事象を伝えながら形づくっていく時に、文学は、小説は、その出来事の余白を描きだす。隙間に宿る。小説の問いは、余白から現れでる。例えば、記事はその出来事を描きださなければならない。起こった事象に対して、その事象を描きだすことに最大の労力が費やされるものだと思う。その事象が起こった必然を問いながら事象の因果の道筋を問わなければならない。また、政治は本来、現実的な対処の枠組みを描きださなければならない。政治の言説は出来事に対して取りうることと取り得ないことを計量していく。そんな中で、文学は余白に物語るものを見つけだす。だから、余白が生まれる時差を必要とする。時差によって生じる余白に言葉が滲みだすまで待つ。出来事でありながら出来事そのものではないところにも、小説は触手を伸ばすことができる。だからこそ、小説は遅れて現れても、力を持ち得るのだと思う。

綿矢りさのこの小説は、「あの夏」に起こった未曾有の地震によって崩壊した街の中、大学にいて難民化した学生達を描きだす。ニュースは次に続いて起こるであろう地震の可能性を告げ、警報は頻繁に鳴り響く。
小説は、震災以後であり震災以前である間(あいだ)を生きる状況を設定する。かつて、戦前、戦後という言葉に対して戦間期という言い回しで1920年代から30年代までの思想状況を語った本があったが、この小説は、そんな数年のスパンではなく、数ヶ月の仕切られた空間の中での宙ぶらりんの生の状態を描きだそうとする。宙ぶらりんなのは、震災を生き延びた命でありながら、次に起こるはずの震災によって命の保証がなしくずしになっているからであり、また、いったん命の軽さを見せつけられた者にとって、どこかしら生のリアルそれ自体が危惧と違和感を呼び起こすからである。
だから、「家や下宿先が倒壊して本当に帰る場所がない学生」もいるが、「家は無事だったのに、あの日以来取りつかれたように学校から離れない学生」もいて、主人公は、この「離れない」学生の一人である。そして、こう書き込まれる。

  それでも家に帰らないのは、たぶん日常に戻りたくないからだろう。 
 (中略)再び地面が激しく揺れる日は、まだ来ていない。しゃくにさわ
 る余震が一日に数回足の下を通り過ぎてゆくだけ。でもカウントダウン
 は始まっている。だから平和な日々をまだ思い出したくない。どうせ築
 いても、またすぐ壊れるかもしれないのだから。

その学内で、その夏起こった事件をひとつの軸として小説は進む。さらに、学園祭を実行するという学園祭の日に向けて小説の時間は進んでいく。その日々の中で、主人公である「私」と「私の男」。「私」たちが所属する「反宇宙派」というグループの「リーダー」と呼ばれる男。そして、「マリ」。この四人の四角関係が小説の中心である。

「リーダー」は震災の後、秩序を無くし暴徒化し混乱した学内で、いち早く、組織化を進め秩序を提示しカリスマ的な存在となる。
彼は学内で強く語りかける。「私たちに指導者などいらない。あなたのリーダーは、あなた自身です。この崩壊寸前の世界で、あなたを救えるのは、あなただけです。」と。
そんな「リーダー」の強い言葉は人々の心をつかみ、人々は、頼ることができるのは自分自身だと言う彼を頼っていく。「私」は「リーダー」に惹かれながらも一方で、「リーダー」の持つそんな存在自体の矛盾にも気づいている。「私の男」も「リーダー」の孤独とその欺瞞に気づいている。人々の群衆性が「リーダー」を支えているのだ。その現れが夏の生徒リンチ殺害事件である。「私の男」は、そのリンチの引き金が自分であったという罪の意識を抱えている。だからこそ、集団が集団的な狂気に憑かれ流れることを冷静に恐怖している。そして、「私の男」自身の罪を肩代わりし、カリスマとなっていく「リーダー」に距離をおき、殺意も抱く。

小説では、「反宇宙派」という組織に属す者は固有名詞をはずされている。また、「私」との関係が成立している者はその役割で書かれている。一方、「マリ」や「マリ」を追いリンチされる「ニムラ」は固有名詞で書かれている。「私の男」と学生達は固有名詞の「ニムラ」をリンチ殺害する。「リーダー」に近づき、「リーダー」と特別な関係になっていると思われる「マリ」は、他の女子学生に狙われ、「私」も「マリ」に両義的な感情を持つ。この「マリ」は、次のように描かれている。

  マリに気楽に声をかけたが、彼女がふりむいたとき息を飲んだ。何も
 考えていないのに憂いを帯びた大きな瞳。未来も過去も持たず移り変わ
 る季節にだけ存在している小動物。子どもっぽい顔立ちが愛くるしいの
 に、大きな瞳は時おり真っ暗な虚無しか映さない。真昼のつぎに、すぐ
 真夜中が訪れる彼女の内面は、読み取れず、つい息をつめて観察する。
 虚無が醸し出す異様な存在感に、周りの学内の風景が吸い取られて雑に
 見えた。子どもにもおばさんにも見える彼女は人間をかたどった精巧な
 ミニチュアだった。

アニメ系か、コンピューター上で作られた人間を連想する。一方、時間を持たない常に現在形の存在にも見える。そんな存在は、時間を意識しその中で生きている者にとっては、魅力的でありながら忌避すべき対象にもなる。そんな彼女が学内を逃げ回り、「私」を頼る。「私」は彼女を保護しながら同時に彼女に殺意を持つ。
災厄による大量の生の喪失が背景にあることで、「殺意」や「排除」が強力になっているが、起こっていることは日常的な集団の中で起こっていることと相似形である。綿矢りさは、震災という現在私たちが置かれている状況を設定しながら、実はそれをはずしても存在している日常的な状況を描きだしている。
ただし、その日常的な状況が乗っている「大地」は、実は、生が賭けられている場所であり、私たちは「大地のゲーム」の中にいて自身の生を賭けていくしかないのであるというところに作者の思いはあるのだろう。
小説は冒頭、「私」が幼いとき、兄と一緒に乗った「夜の電車」の場面で始まる。

  いつか力尽きるから美しい。その美しさからは逃れられない。
  この世に死があると知ったのは、家出した兄と一緒に乗った、夜の電
 車のなかだった。横並びの座席で兄の隣に座った私は、ほかの乗客が見
 るのも気にせずに泣いた。

私たちはいつどんな状況で死を知ったのだろう。そして、その認識の段階と関係なく、唐突に訪れてしまう死とは何なのだろう。訪れることによってしか認識できない死。しかも、自身の死は訪れて認識したときには終わってしまう。と考えながら、この書き出し、「いつか力尽きるから美しい」の「美しさ」は何の美しさなのだろうとも思う。「力尽きる」ことの「美しさ」なのか。それは違う。「力尽きることは美しい」とは書かれていないのだ。この主語が省かれた書き出しは、主語への謎を残す。そして、「逃れられない」とする「美しさ」が何なのかを問いとして残す。この書き出しの省略された主語を「人」あるいは「人間」と置くと、書き込まなかった理由が明白になる。あまりに直接的すぎてかえって浅薄になるからだ。だが、そんな言葉が省かれていることを思うと、この小説が基本、何かを糾弾する姿勢の小説ではないことが感じられる。「力尽きる」からこそ美しく、さらに美しいから「逃れられない」人間の生を肯定しているまなざしがあるのだ。生によって死を語る。あるいは、死は生の側からしか語りえないのではないだろうか。

細部に気になる点がある。それを気にしだしたら、どうなんだろうと思えてくる。だが、災厄という大きな物語と学内という小さな物語を結びつける力業と構想された小説の持つ展開、それから綿矢りさの語り口に引かれて一気読みできる小説だった。「悪」の「悪」性、「暴力」の「暴力」性が、オブラートされている品性。本来暗部であるものに何か光が宿っている感じもいいのかも。
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